112話 ビョルンの浮気相手とされたオペラ歌手の告白記事までタブロイド紙に掲載されました。
フィツ夫人が、
ビョルンの寝室に入ると、
バルコニーに設けられた食卓に
座ったばかりのビョルンは
グラスを握ったまま、
彼女を一瞥しました。
その平然とした顔のどこにも、
国中をひっくり返した騒乱の跡を
見つけることはできませんでした。
フィツ夫人は「本当にひどい」と
凛とした声で責めました。
その言葉には、恨みと心配、憐憫が
込められていました。
ビョルンはにっこり笑って
彼女が差し出した郵便物を
受け取りました。
そして、銀行からの手紙を
確認したビョルンは、
30分後に出発できるよう
馬車を待機させろと
淡々と命じました。
フィツ夫人は、
しばらくビョルンが、
とても無理をした。
どんなに若くて健康でも
体を酷使すれば病気になるので
当分、休んだらどうかと、
彼女らしくない干渉をしました。
しかし、ビョルンは、
具合が悪くなったら、乳母が
子守唄を歌ってくれればいいと
答えながら新聞を広げました。
偽りの不倫劇を告白する
オペラ歌手のインタビューを
ざっと見たビョルンは、
リンゴを手に取ったまま、
椅子に寄りかかりました。
王太子の不倫相手の役割をする
代価として大金を受け取った時、
一生秘密を守ると、
そのオペラ歌手は固く誓いました。
だから彼女は、
契約違反をしたわけだけれど、
ビョルンが損することはないし、
エルナが知っていて
悪いことではないので
気にしたくありませんでした。
エルナのベッドで目を開けて初めて
ビョルンは昨夜のことが
現実だったことに気づきました。
自分の格好がおかしくて
失笑しているうちに、
次第に意識がはっきりして来ると
おおよその状況が把握できました。
エルナは彼のそばで
ぐっすり眠っていました。
ビョルンは
妻を起こしたくなかったので、
静かにベッドを出ると、
自分の寝室に戻り、
風呂に入りました。
いつの間にか正午近くなっていました。
自分に言いたいことが
あるのではないかと、
涙声で哀願していたエルナの顔が
ぼんやりと浮かび上がりました。
すでに彼女が知っているのと
あまり変わらない話を
並べ立てるのは無意味だけれど、
それでも彼女が
あれほど切実に望むなら、
話をしてやれないことも
ありませんでした。
しかし、あえて寝ているエルナを
起こすほどの価値はないので、
しばらく銀行に行ってきた後、
夕食時に話すのが適当だと思いました。
ビョルンは体を起こすと
出かける準備をしました。
フィツ夫人は
ビョルンが支度をして出て来るまで
彼の部屋にいて、ビョルンに
話すことはないかと尋ねました。
いつものように厳しい表情でしたが、
彼女のしわの寄った目元は
かすかに赤くなっていました。
その理由をよく知っているビョルンは
もの静かな笑みを浮かべた顔で
自分の乳母は、
おばあさんになってもきれいだと
冗談を言いました。
フィツ夫人は呆れて
そら笑いをしましたが、
じっと彼女を見下ろしていた
ビョルンは、
笑うと、もっときれいだ。
大丈夫、 本気ですと
優しく力を込めた声で言いました。
フィツ夫人は、
この頑固な王子が、
これ以上、何の返事もしないことを
よく知っているので、この辺で頷くと
これまで本当にお疲れ様でしたと
丁寧な挨拶をしました。
ビョルンは、
いつもより深く頭を下げて黙礼した後、
足を踏み出しました。
フィツ夫人は玄関まで
彼を見送りました。
馬車に乗る前、
彼女と目が合ったビョルンは、
毎日のようにもめ事を起こしても
憎めなかった少年の頃のように、
にっこり笑って見せました。
それが全てでしたが、
それで十分でした。
フィツ夫人が育てた王子は
そんな人だけれど、
彼女はそのような王子を
愛していました。
号泣する幼いメイドに、
空が崩れでもしたのか。
いい加減にしてと言うリサの目は
苛立ちに満ちていました。
びくびくしながら
息を殺していたメイドは、
しばらくすると
さらに大きな泣き声を出しました。
また、現実を否定したい、
もう1人のメイドが
どうして、グレディス姫は
こんなことができたのかと、
嗚咽しました。
タブロイド紙に掲載された
グレディス王女の手紙を
読んで聞かせた侍従は、
困ったように列席者たちを見ました。
読み続けるべきかどうか
悩んでいる顔でした。
まもなく発刊される翻訳本の
広告として、ヘルマン出版社は
最も刺激的な
グレディス王女の手紙を
数通公開しました。
すべて彼女の恋人だった
ジェラルド・オーエンに
送ったものでした。
なぜ、途中でやめるのか。
続きが気になってたまらないと
リサは精いっぱい傲慢な顔をし、
力強い声で催促しました。
怒り狂った他の使用人からも、
どれだけ憎たらしいことをしたのか
聞いてみるので、
さっさと読めと言われると、
侍従は再びグレディス姫の手紙を
読み始めました。
その中には、
ビョルンはグレディスを
抱いたことさえないので、
グレディス姫の中で育っている
子供の父親はジェラルドで
間違いないこと。
グレディスは、毎日薄氷の上を
歩いているような気がすること。
ビョルンが、本当に
グレディスとジェラルドの子供を
自分の子として
育てようとしているのか
疑問に思っていること。
もしそうなら、
自分はどうすればいいのか。
罪悪感と不安感に耐えるのが
ますます難しくなっているけれど
ジェラルドと自分の子供が
待ち遠しく思っている罪深い自分を
どうすれば良いか分からないと
書かれていました。
それを聞いた使用人たちは、
まさに狂奔し始めました。
裏切られたと憤慨する泣き声は
さらに激しくなり、
こんな汚い手口に
やられたことも知らないで、
自分たちは皆、
王子の悪口を言っていた。
実は前からグレディス姫は
表面的には優しくて優雅だったけれど
猫をかぶっていたようだった。
礼儀正しいふりをしても、
実は、かなり傲慢だった。
なんとなく歩き方に
落ち着きがなかった。
化粧を落とすと、
今の大公妃より美貌が劣っていたなど
悪口を浴びせる声も
高まっていきました。
ますます強引で幼稚になっていく
陰口を聞いたリサは
呆れて鼻で笑いました。
たった一週間の間に
嫌われ者の王室の毒キノコ王子は、
国のために自分を犠牲にした
崇高な英雄になりました。
連日、そのようなビョルンを称え、
ラルスの王室を非難する記事が
あふれ出ていました。
エルナは、
そのすべてを知りながら、
悪役を自任した
立派な大公妃と呼ばれ始めました。
レチェンと夫のために、
その厳しい非難に黙々と耐え抜くなんて
聖女同然だと
言われるようになりましたが、
本当にすべてのことを
知っていたのかという質問に
エルナは一度も確答しませんでした。
しかし、国中の嘲弄の的だった
大公妃を一番近くで見守って来たリサは
決してそんなはずがないと
確信していました。
そして、グレディスを
散々、罵倒した使用人たちは、
ハルディ家は救済不能だけれど
それでも妃殿下は
見た目よりいい人のようだ、とか
もう絶縁したから、
ハルディ家の人ではない、とか
王妃になるには、
まだまだ足りないけれど、
王子が苦しい時に
そばにいてくれたことを考えれば
理解できないこともないと、
エルナについて言及し始め、
その後は、
ビョルン王子が、
また王太子になるのではないか。
真実がすべて明らかになったので、
今からでも、
元の場所に戻らなければならないと
王子を王座に就かせる夢に浮かれ始め、
長くもって1年と呼ばれ、
蔑まれていた大公妃は
自然と王妃になっていました。
話を聞いていたリサは失笑し、
「ふざけ過ぎだ!」と
立ち上がって叫びました。
驚いた使用人たちの視線が
一斉にそこに注がれました。
リサは、
今になって、なぜ、皆、
グレディス姫のせいにするのか。
彼女が妃殿下を
いじめさせたのかと尋ねると、
使用人の1人は、
自分たちも、グレディス姫に騙されて
妃殿下を誤解したと
言い訳をしました。
しかし、リサは泣かないように
力を入れて目を見開いたまま、
使用人たちは、
人をぬかるみに押し込んで
苦しめながら、
くすくす笑うのが楽しかった
悪質な人たちだ。
グレディス王女のせいにしようと
考えたりするな。
使用人たちも、
その王女と同じくらい悪者だと
非難しました。
ある時は、すぐに追い出すべき
妖婦だと噛みちぎっていたくせに
今は聖女に祭り上げている。
あの時も今も
エルナは、ただのエルナだと
リサは思いました。
いくらなんでも言い過ぎではないかと
顔を真っ赤にしたメイドが
反論するのと同時に
大公妃の寝室の呼び出しベルが
鳴り始めました。
絶えず鳴り響くその緊迫した鐘の音に、
休憩室の雰囲気が凍りつきました。
顔色を窺いながら、
いつも慎重に使用人を呼び出していた
大公妃をよく知っていたためでした。
顔が真っ青になったリサは
夢中で休憩室から駆け出しました。
躊躇っていたメイド長も
すぐに後を追いました。
最初に会議室のドアが開いた時、
銀行の役員たちは皆、
無駄なものを見ることになると
信じていました。
こんな大騒ぎの中で、
銀行のことを気にするのは
お話にならないからでした。
しかし、皆を不安にさせ、
焦らせた張本人であるビョルン王子は
何気ない態度で
今日の会議を主宰しました。
儀礼的な笑みを浮かべた顔と
きちんとした身なりのどこにも
詐欺結婚の被害者だった
可哀想な王子、あるいは
国益のために王冠を捨てた
悲壮な英雄の跡は残っておらず、
彼はまさに、皆が知っている、
ビョルン・ドナイスタでした。
北部鉄道への投資の件について
正確に把握していたビョルンは
問題を適切に調整したので、
会議は予想より早く終わりました。
水銀鉱と鋳鉄工場への投資の件も
同様でした。
最後まで会議室に残っていた
ある若い理事が
慎重に上座に近づきました。
窓の外を凝視していたビョルンは
彼の方を向きました。
理事は、自分の忠誠心を証明するため
悲痛な表情を添えながら、
ビョルンの心配が
どれだけ多かったかと気遣いました。
しかし、ビョルンは、口元に、
にっこりと笑みを浮かべながら、
この会計帳簿の内容の
心配ばかりしていると、
予期せぬ返事をしたので
理事は慌てました。
それから、ビョルンは
席から立ち上がると。
次の会議で慰められることを
期待すると言いました。
その言葉に驚いた理事は、
ビョルンが、銀行の仕事を
これからも続けるのかと尋ねました。
王子が会議室に現れる直前まで、
皆、彼が王太子の席に
戻るのではないかと
推測していたからでした。
意味のないことを聞いたかのように
じっと彼を見ていた王子は、
脱いでおいたジャケットを持って
彼に背を向けました。
点数を稼ごうとして失点したと
思いながら、理事がため息をつくと
ビョルンは顔だけ彼の方に向け、
理事に子供の有無を確認しました。
理事は、息子が2人、娘が1人いると
答えると、ビョルンは
面食らった顔をしている彼に向かって
良かったと言うと
体も彼の方に向けました。
ビョルンは、真剣な目つきで
一つ、お願いしたいことがあると
頼みました。
理事は嬉しそうな顔で頷くと、
いくらでも言って欲しいと
返事をしました。
オペラ歌手の口封じのために
ビョルンが大金を渡したにもかかわらず
彼女は
ビョルンの偽の不倫相手であることを
暴露してしまった。
契約とかお金のことにシビアな
ビョルンであれば、
契約不履行で訴えることもできたけれど
エルナのためには、
それでいいと思うビョルン。
彼は、噂のような
不誠実な男ではないことを
エルナに証明したかったのと、
彼女を思いやっての
行動なのでしょうけれど
彼が素直に言葉で伝えないせいで
ビョルンの気持ちが
エルナに通じていないのが
もどかしくて仕方がありません。
彼が毒キノコ王子の名を
返上するためには、
荒療治が必要なのではないかと
思います。
手のひらを返したように
グレディスを非難し
エルナを称え始める使用人たち。
リサは腹を立てているけれど、
エルナは何も言わずに
彼らを受け入れるのでしょうね。
そういえば、今回は一度も
エルナが登場しませんでした。