99話 ベッドから抜け出したエルナは、応接室にいるようですが・・・
ビョルンは静かに扉を開けると、
彼の贈り物で満たされた
エルナの世界が現れました。
博覧会で買い集めた物を
無造作に並べただけなので
かなり見苦しく、フィツ夫人は、
直ちにインテリア業者を呼ぶと
言いましたが、
ビョルンは急ぐ必要を
感じませんでした。
どうせ客を入れる部屋ではないので
しばらくは、エルナの思い通りに
放っておいても
悪いことはありませんでした。
それに彼があげたものに
囲まれているエルナを見るのは、
かなり楽しいことでした。
ビョルンは扉枠に
斜めにもたれかかったまま
机の前に座っている
エルナを見つめました。
彼女は真夜中に、
机の横に広げておいた教本を
のぞき込みながら、かなり真剣に
タイピングの練習をしていました。
黄金色の巨大な象が
そんなエルナのそばで
しっかり守って立っていました。
見るたびに失笑する物でした。
フィツ夫人は、
その銅像を「凶物」と呼び、
見るのも嫌だから
倉庫に片付けてしまおうと
強く主張したようだけれど、
エルナは、
プレゼントしてもらったのだから
有効に使うと言って、とうとう、
ここへ持って来てしまいました。
ビョルンは、そんなエルナが
可愛くて偉いと思ったので、
それとなく、あんな物を
抱き合わせて売った商人を
許すことにしました。
エルナが
全く振り返ろうとしないので、
ビョルンは気配を抑えた足取りで
応接室を横切りました。
タイプライターを叩いているエルナは
彼が机の横まで来ても
頭を上げませんでした。
忍耐心が尽きたビョルンは、
指先で机を叩いて妻を呼びました。
驚いたエルナは
ビョルンの名を呼びました。
疲れていると言っていたのに、
ここで何をしているのかと
ビョルンは尋ねました。
夜中に目が覚めたけれど、
昼間にたくさん寝てしまったせいか
よく眠れなくてと、
ぼそっと答えるエルナから、
いつもより、はるかに甘い香りが
漂ってきました。
その理由は、
タイプライターの横に置かれた
ガラス瓶の中に詰まっている
色とりどりの飴のせいだと
ビョルンは気づきました。
彼がどこを見ているのか
確認したエレナは、
訳もなくドキッとして
乾いた唾を飲み込みました。
子供みたいだと
叱られるのではないかと
心配しましたが、
ビョルンは、
ただ快く笑うだけでした、
確かに、彼はそんな人ではないのに
自分が
過敏に反応したことに気づくと、
エルナは、ため息をつきました。
この頃、エルナは
何でもない言葉にも警戒心を持ち、
2人以上集まった人々の
笑い声が聞こえてくるだけでも、
自分をあざ笑っているような気がして
身をすくめるなど、
自分が過敏になっていることを
エルナ自身も分かっていました。
タイプライターの教本を見た
ビョルンは、
本当にタイピストにでも
なるつもりなのかと
意地悪そうに尋ねました。
エルナは、
これをプレゼントしてくれた人が
言うことではないと思うと
反論すると、ビョルンは、
適当に驚いてあげただけだと
返事をしました。
それから、ビョルンは机に腰かけ
タイプライターのキーを叩きました。
紙に余計な文字が印字されたのを見た
エルナは眉間にしわを寄せましが
ビョルンが笑ったので、
怒りの感情が和らぎました。
この男に怒ることができる日が
来るのだろうか。
飴のように甘い無力感の中で
エルナも、つい笑ってしまいました。
エルナは、
せっかくビョルンから貰ったので、
役立ててみようと思う。
まだ、ぎこちないけれど、慣れれば
字が早く書けていいと思う。
手紙は書けないけれどと言いました。
ビョルンは、その理由を尋ねると、
エルナは、こんな機械で書いた
領収書のような手紙は
貴婦人の品位を傷つけるそうだと
答えると、ビョルンは
フィツ夫人から言われのかと
尋ねました。
エルナは「はい」と答えると
ダメだと言う
フィツ夫人の厳しい声が
耳元に聞こえてくるようで、
くすくす笑いました。
ビョルンの顔にも
彼女に似た微笑が浮かんでいました。
エルナは、
タイプを覚えたら、
これでビョルンに
手紙を書いてもいいかと
勇気を出して尋ねました。
ビョルンが「手紙?」と聞き返すと
エルナは、
ビョルンは領収書が好きだからと
真剣に答えましたが、
ビョルンは、
すごい冗談でも聞いたかのように
笑いました。
そして、無駄話を続けている間に
3時を知らせる鐘の音が
ぼんやりと聞こえてきました。
ビョルンは、
遅い時間だと言って
エルナに手を差し出し、
タイピストの夢は
明日に持ち越すようにと助言し
ランプを消しました。
エルナは、
眠っている彼を眺めているうちに
ふと、憂鬱な気分を忘れ、
ベッドの中でしか
役に立たない妻のようだという
つらい気持ちも忘れ、
ただ嬉しくて、愛だけで
その手を握りました。
それから3日後の午後、
フィツ夫人が持ってきた郵便物の間に
大公妃からの領収書を
見つけたビョルンは
あの真夜中の時のように
笑ってしまいました。
いつものフィツ夫人らしくなく、
それを読むよう促すのを見ると、
融通の利かない彼女も
エルナの共謀者になったようでした。
アルセン公爵夫人にフィツ夫人まで、
エルナは老婦人たちを魅了する才能が
並大抵のものではない女性だと
思いました。
勝てないふりをして
頷いたビョルンは、
彼女が差し出したペーパーナイフで
封筒を開けました。
手紙には、
ビョルンがプレゼントを
たくさんくれたことへのお礼と、
それを一生大切にすること。
象の銅像が少し怖いけれど、
ずっと見ているうちに
慣れるだろうということ。
秋になれば、
結婚して1年になること。
良い妻になるという約束を
必ず守りたいけれど、
まだ至らない点が多くて
申し訳じないけれど、
一生懸命努力するつもりであること。
ビョルンと結婚して
本当に良かったこと。
自分の狭い世界を取り囲んでいた壁が
実は扉だったということが
ビョルンのおかげで分かったこと。
この1年間、
自分たちが一緒に開いた数多くの扉と
その向こうの世界を、
自分は永遠に忘れないと書かれていて、
続けて、一緒に過ごした1年は、
ビョルンにとって
どんな時間だったのか。
自分と同じくらい、
ビョルンも良かったのだろうか。
自分にとって
大切な思い出になった瞬間は
ビョルンの記憶の中にも
同じように残っているのだろうか。
自分たちは、
まともな夫婦だったのだろうか。
これからも、
うまくいくのだろうかと
質問が投げかけられていました。
それを読んだビョルンは、
静寂な中、エルナが叩いていた
タイプライターの音が
聞こえてくるような気がしました。
深刻な表情で、
力を入れて疑問符を押しただろう
エルナの姿が
目に見えるような気もしました。
それから手紙には、
これからも一緒に
多くの扉を開けていけたらと思う。
いつかは自分も、
ビョルンに多くのものを
あげられる人になれるように
もっと努力するという言葉と
自分と仲良くしてくれていることへの
お礼と、これからもずっとよろしくと
書かれていました、
そして手紙の一番下には、
「あなたの妻、エルナ·ドナイスタ」
と自筆で署名されていました。
ビョルンの視線は、
その文字の上に長く留まりました。
妻という、改めて特別に感じられる
その単語を、
「妻、私の妻、エルナ」と
ゆっくり舌の上で転がしてみました。
そのビョルンの表情を見ていた
フィツ夫人は、
返事を書いてみたらどうかと
それとなく勧めました。
この手紙一通を完成させるために、
エルナがどれほど苦労したか、
彼女はよく知っていたし、
夫からもらったプレゼントで
一番先に夫に恩返しをしたいという
その気持ちが可愛くて、
機械で書いた領収書のような手紙でも
知らないふりをして許しました。
だから、その気持ちが報われることを
願っていましたが、
ビョルンは平然と首を横に振り
同じ家に住んでいるのに、
なぜ、わざわざと答え、
にっこり笑った彼は、
すでに次の手紙を開いていました。
王子が酷く強情であることを
よく知っているフィツ夫人は、
それ以上、何も言えませんでした。
ビョルンは幼い頃から
手紙を書くことを
極度に嫌っていました。
皇太子時代、強要されて
渋々、書いて来た外交書信を見た
彼の師匠は、
これは敵国に宣戦布告をする時のみ
役に立つ筆力だと、
辛辣な評価をしました。
もちろん、その気になれば
いくらでも立派な手紙を
書ける王子だということを
皆が知っていましたが、
ビョルンの強固な意地を
捨てさせるほどの苦労を、あえて
するほどのことではなかったので
結局、王室の詩人たちが
手紙を代筆するようになりました。
そのおかげで、レチェンの皇太子は
非常に美しい文章力を持つという噂が
広まったので、
国家的にも損をしませんでした。
最後の手紙まで読んだビョルンは、
明日、開かれるピクニックは
どの家門が主催すると言っていたかと
突然、尋ねました。
フィツ夫人は、
ルイーゼ姫が嫁いだハイネ公爵家だと、
ビョルンの無関心さを
当て擦りながら答えましたが
ビョルンは「ああ」と
とぼけた返事をして
笑い飛ばすだけでした。
とても長くて
厄介な一日になりそうだと
皮肉を言う瞬間も、
王子の唇に笑みが浮かんでいました。
結局、返事を受け取れなかった
フィツ夫人は、
「哀れな大公妃」と心の中で呟きながら
長いため息をつきました。
期待に満ちた大公妃の目を見て
残念な知らせを伝えるのは
本当に辛いと思うので、彼女に
出くわさなければいいと思いました。
ハイネ公爵家の別荘は、
美しい森と平原を楽しむことができる
有名な場所にありました。
グレディスとの新婚旅行から帰って来て
最初に参加した社交シーズンの行事が
まさにハイネ家のピクニックで、
その後は、一度も
ここへ足を運んだことがないビョルンは
参加するのは5年ぶりでした。
果てしなく続く緑色の風景が
退屈になったビョルンは
エルナを見つめました。
日傘を差したエルナは、
姿勢を正して座り、
ケシが咲き乱れる野原の風景を
眺めていました。
いつもなら、
おしゃべりに浮かれている女が、
今日はあまりにも静かなので
それがそろそろ気になり始めた頃、
馬車が止まりました。
客を迎えていたルイーゼが
嬉しそうに近づいて来て、
永遠に来ないと思っていたけれど
来てくれて光栄だと言うと
ビョルンは、
馬車から降りたエルナを
自分の方へ寄せながら、
お礼はエルナに伝えるように。
招待に応じたのは彼女の意向だと
力を込めて返事をしました。
ルイーゼの表情が固まりましたが
周りの目を意識できないほど
愚かではないので、
適度に社交的な笑みを浮かべた顔で
兄と一緒に参加してくれたことへの
お礼を言いました。
エルナは、自分もお姫様に
たくさん助けてもらったからと
来る間、ずっと練習していた挨拶を
自然に口にしました。
そして、こんなに美しい所に
招待してくれて、自分こそ、
と自信を持って言おうとしましたが
その言葉を、
まともに終わらせることが
できませんでした。
思わず視線を向けた先で、
見慣れた顔を見つけたせいでした。
その名をため息のように
呟いているうちに、
ビョルンとルイーゼの視線も
彼に向けられました。
ルイーゼは、
自分が彼を招待した。
大公夫妻の肖像画を見たところ
素晴らしい実力のある
画家だったので、
自分たちの子供たちを描いてくれと
依頼した。
そういえば、大公妃と
故郷が同じだと聞いたけれどと
ルイーゼが話すと、エルナは
「あ・・・はい。」と
言葉を濁して答え、
落ち着かない目で
ビョルンの顔色を窺いました。
パーベルに
肖像画を描いてもらっている時、
ビョルンが
彼を好きではない事実を
エルナは悟りました。
それを証明するかのように、
ビョルンはあの日のように
静かで無感情な目で
パーベルを凝視していました。
その後、まもなく、
パーベルも彼らを見つけました。
エルナは急に襲われた胃痛を
抑えるように息を殺しました。
日傘を握った手が
細かく震え始めました。
自分への非難を恐れて、一度は、
ビョルンに買って貰った物を
返品したいと言ったけれど
今は、それらに囲まれて
タイプライターを打っている
エルナのことを、
きっとビョルンは可愛いと
思っているに違いないと思います。
そして、エルナからの
心がこもった手紙は
きっとビョルンの心の琴線に
触れたと思います。
でも、その返事を書かない理由が
手紙を書くのが嫌いだからなんて!
ビョルンから貰った求婚状が
今までで一番美しい手紙だったと
グレディスがドヤ顔で
エルナに話すシーンを思い浮かべて
吹き出してしまいました。
ビョルンは
手紙を書くのが得意なのにと
エルナを憐れんだグレディスが
実は、詩人が書いた
求婚状だということを知ったら
どんな顔をするかと
想像するだけで楽しいです。
それに、彼女の恋人だった
天才詩人のジェラルドが書いた
詩の方が、
ビョルンの求婚状よりも
美しかったのではないかと思います。
彼の遺作の詩が
グレディスの化けの皮を剥がす日が
より待ち遠しくなりました。