596話 タッシールはラティルに、自分を皇配にする気はあるかと尋ねました。
◇秘書を置かない理由◇
ラティルは、
そんな当たり前のことを聞くのかと
呆れて問い返すと、
タッシールは、
しばらく驚いた表情をしましたが、
すぐに満腹の狐のように笑いました。
彼は、ラティルの言葉に
満足したようでした。
タッシールは、
当然のことなのかと聞き返すと、
ラティルは、
当然だ。
タッシールは側室の中で
一番賢明で、
最もバランスの取れた人だからと
答えました。
タッシールは、
バランスが取れているとは
どういうことなのかと尋ねると、
ラティルは、
他の側室たちは皆、
仲の悪い側室がいる。
少なければ一人、二人、多ければ、
全員を敵に回すこともあると
答えました。
全員を敵に回している側室は
ギルゴールとクラインでしたが、
ラティルは、彼らの体面を守るために
あえて名前を呼びませんでした。
続けてラティルは、
タッシールは皆と等しく仲がいい。
それに全く違う種族のメラディムも
手中に入れて、仲良くなった。
これは素晴らしい能力だと
褒めました。
タッシールは鼻高々になりました。
引き続き、ラティルは、
タッシールは実務にも強いし、
身分に関係なく、
人とうまく付き合える。
それに信頼できるし、
様々な優れた功績も多いので、
今のところ、タッシールは
皇配選びランキングの
断然、上位にいると、
さらに熱心に褒め称えました。
ついにタッシールの鼻の先は
空にまで到達し、しばらく彼は、
得意の絶頂でした。
それから、彼は、
皇帝がそう言うので、
自分はしばらく、クライン皇子に
ならなければならないと
満足そうに言いました。
ラティルは、その言葉の意味が
分からないでいると、タッシールは、
皇帝におべっかを使うことだと
説明しました。
ラティルは、タッシールの足を
痛くない程度に叩くと、
すぐに、その場所を
そっと撫でました。
それからタッシールを見ると、
彼は痛がるどころか、
とても気持ちが良さそうでした。
ラティルはすぐに手を離して
背中の後ろに隠しました。
ラティルは、
「あなたは、いつもこうだ。」
と言いましたが、タッシールは
少しも、動じませんでした。
ラティルは訳もなく
タッシールの膝の上を
軽くこすりました。
少しずつ雰囲気が
くすぐったくなっていくと、
ラティルはタッシールに
キスしたくなりました。
しかし、ラティルは、
タッシールが過労で倒れ、
目を覚ましたばかりであることを
思い出しました。
彼とキスをして、
それ以上の愛情行為をしてしまうと、
タッシールがまた
倒れるかも知れないと心配しました。
ラティルが心配そうな表情をすると、
タッシールは落ち着いた口調で、
皇帝は、
国益となる結婚を断ることで、
国民が不満に思うことを
心配しているのではないかと
指摘しました。
ラティルは「そうです」と
返事をすると、ため息をつき、
タッシールの指先を擦りました。
ラティルは、
国民が反対しようが嫌がろうが
自分の好きなようにすることができる。
けれども、そうしたくない。
怪物の数が増え始めたら、
皆で力を合わせて
対応しなければならないのに、
国民が自分を信頼できなければ、
どうやって力を
合わせることができるのだろうかと
言いました。
そして、ラティルは、
タッシールに助けて欲しい。
どうすれば、反感を買うことなく
結婚を断ることができるだろうかと
期待に満ちた目で尋ねました。
タッシールは、
カリセンと婚姻を結ぶ方が、
もっと損だと、
人々に思わせればいいと
答えました。
その言葉に、ラティルの唇の両端が
垂れ下がりました。
タッシールは簡単に言うけれど、
それができないから、
こんなに悩んでいるんだと
ラティルは思いました。
ラティルは、
タッシールだって、
結婚する方がいいと言っていたのに、
どうやって、そのようにするのかと
尋ねました。
タッシールは、
タリウムの国民が結婚を望むのは、
そうすることで、
タリウムが利益を得られると
思っているから。
しかし、その利益を享受するのが
タリウムではなく、
カリセンだと思うなら?
その時も、ただただ良いことだと
思うだろうかと尋ねました。
ラティルは、ぼんやりと
タッシールを見つめていましたが、
彼が何を言いたいのか分かり、
次第に顔色が明るくなりました。
ラティルは感動して
タッシールを見ました。
本当に驚きました。
何でも聞けば、
すぐに答えが出て来るなんて、
タッシールが、他の秘書を
置きたがらないのも当然でした。
ラティルは興奮して
タッシールを抱きしめると、
今すぐ会議を開いて、
この話をしなければならないと言い、
タッシールにお礼を言いました。
◇意味深な笑い◇
ラティルが、
その日の夜から翌朝まで滞在し、
タッシールが仕事をしないよう
監視すると言って帰った後、
彼はベッドに寄りかかって
考えに耽った後、鐘を振りました。
しばらく待っていると、
ロープが急いで中へ入って来ました。
そして、ロープが近づくと、
いつものようにタッシールは
コーヒーを要求しました。
叱られるのではないかと思い
緊張していたロープは
「はい。少々お待ちください 。」と
安堵して答えました。
それから、ロープは
出て行こうとしましたが、
ちょうど彼が扉を閉めようとした時、
人間なら、一度や二度の間違いは
あると思うと、
後ろから吐き捨てるような声が
聞こえて来ました。
ロープは扉から顔を出して
「え?」と聞き返しましたが、
タッシールは彼を見つめる代わりに、
隣に置いておいた本を持ち上げ、
意味深長に笑いながら、
それだけでは放り出さない。
同じミスを繰り返さなければと
言いました。
ロープは、
どういうことなのかと尋ねると
タッシールは、
そういうことだと答えました。
ロープは訳がわからず、
黙っていると、タッシールは
「コーヒーはアイスで」と
注文しました。
タッシールが、
それ以上言う気配がなかったので、
ロープは扉を閉めると、
調理室へ歩いて行きましたが、
結局、彼は我慢できずに
後ろを振り返ってしまいました。
◇結婚を断る理由◇
ラティルは、そのまま執務室へ行き、
主要大臣たちとカリセン使節を
中会議室に呼ぶよう、
侍従長に指示しました。
返事は決まったかと尋ねる侍従長に、
ラティルは、タッシールが、
いい答えを教えてくれたと答えると、
嬉しそうに笑いました。
ラティルは、
会議室に人が集まるのを待ってから
すぐに、そこへ行きました。
集まった大臣たちは、
皆、表情管理をしていましたが、
目つきは様々でした。
一方、カリセン使節は、
ラティルから良い返事が貰えることを
期待している顔でした。
彼らは、ラティルが断るとは
思ってもいない様子でした。
ラティルは使節の期待に応えるべく、
両国は、
これから力を合わせるべきことが
たくさん残っている。
自分とヒュアツィンテ皇帝の結婚は
タリウムにもカリセンにも
大きな利益をもたらすだろう。
自分も確かに、
ヒュアツィンテ皇帝の提案に
惹かれていると、わざと最初に、
肯定的な話をしました。
使節の顔が明るくなりました。
ラティルは、そのように
できる限り良い雰囲気を整えてから、
しかし、心配な点があると
さっと言葉を変えました。
それは何かと使節が尋ねると、
ラティルは、
誰もが知っているように、
自分は対抗者だと答えました。
使節が「そうですね」と言うと、
ラティルは、
自分は怪物たちと戦うために
席を外すことが多くなると話しました。
使節団と大臣たちは、
突然、ラティルが
怪物と対抗者の話を持ち出したので
不思議そうな顔をしました。
ラティルは、それに気づきながらも
ずっと何かを憂うるようなふりをし、
眉をひそめながら、
自分は席を外すことが多くなるため、
タリウムは、
皇配が代理統治することが多くなる。
そのため、自分は皇配を選ぶのに
ずっと慎重になっていた。
しかし、カリセンから求婚されたことで
少し心配なことがあると話しました。
使節団は困惑した様子で、
カリセンはタリウムから
遠く離れているので、
ヒュアツィンテ皇帝が、
タリウムのことまで
気にかけないことが心配なのか。
ヒュアツィンテ皇帝は
優れた君主なので、
そうはならないと言いました。
ラティルは、
ヒュアツィンテ皇帝と自分の間に
後継者がいない状況で、
自分が怪物と戦って大怪我をしたり、
死んだりした場合のことを
心配していると話しました。
ラティルの口から
死ぬという言葉が出ると、
あっという間に明るい雰囲気が
重々しくなりました。
ラティルの横にいる侍従長も驚き、
何を言っているのかと諫めましたが
それでも、ラティルは、
ヒュアツィンテ皇帝と
自分が結婚すれば、
自分に何かが起こった場合、
ヒュアツィンテ皇帝が、
自然にタリウムの世話を
することになるだろう。
しかし、使節が言ったように、
遠く離れた国のヒュアツィンテ皇帝が
短い期間ならともかく、
永久に代理統治をするのは
難しいのではないか。
たとえ、それができたとしても、
自分が死んだり、大怪我をして
政務に出られない状況で、
ヒュアツィンテ皇帝が
タリウムを長く統治するなら、
タリウムがカリセンに
統合されたように見えるのではないかと
平然と話し続けました。
ラティルの言葉に、
使節は顔色を白くして、
そんなはずがないと
慌てて否定しました。
黙っていた別の使節も、
絶対にそんなことはない。
それに、逆の場合もあり得る。
今回、ロードに拉致され、
苦難に遭ったのは
ヒュアツィンテ皇帝だと、
素早く話に割り込みました。
しかし、ラティルは、
ロードは自分が封印したし、
ヒュアツィンテ皇帝が
怪物を相手にするために、
直接、乗り出すことは
ないのではないかと反論しました。
カリセン使節たちは困惑して、
互いに見つめ合いました。
ここできちんと答えられなかったら
カリセンが求婚した意図が
歪められるかもしれませんでした。
彼らは良い意図で求婚したのに、
カリセンがタリウムを飲み込むための
計略だと疑われれば大変でした。
カリセン使節は、
そのような場合、カリセンは
タリウム内部のことには
干渉しないという覚書を書くと
約束しなければならないのかと
考えましたが、
すぐにそのような考えを捨てました。
このような約束は、彼らが
やっていいことではありませんでした。
もしかしたら、
ヒュアツィンテ皇帝と宰相は、
本当にそのようなことを計算して
使節を送ったかもしれないからでした。
ヒュアツィンテが聞いたら、
呆れて、息さえまともに
できなくなるだろうけれど、
使節たちが、ヒュアツィンテの心情を
すべて知るはずがありませんでした。
結局、カリセンの使節は、
ヒュアツィンテ陛下に
ラトラシル皇帝の憂慮を伝えると言って
退きました。
何人かの大臣は
残念そうな表情をしましたが、
ラティルの憂慮ほど、そのような感情が
大きい様子ではありませんでした、
タッシールの策が、
見事に的中したのでした。
ラティルが言ったことは、
実はラティルがロードであるという
前提を除けば、
あながち間違いではありませんでした。
万が一、ヒュアツィンテと結婚して、
後継者がいない状況で、
ラティルが怪物討伐に出かけ、
以前のように大怪我をしたり、
死んだりしたら、
あっという間にタリウムは、
後継者問題をめぐり、
騒がしくなることが予想されるし、
だし汁を取ろうとしたら、
出来上がったスープを
カリセンに渡すようなことが
起きるかもしれませんでした。
その後、さらに20分ほど話してから
会議が終わりました。
ラティルは執務室に戻り、
ヒュアツィンテに手紙を書きました。
◇ラティルの返事◇
ヒュアツィンテ。
あなたが使節団からの報告を聞いて、
驚いたり、
私があなたを疑っていると聞いて
傷つくのではないかと思い、
別に手紙を送ります。
私が使節団に話したことは、
結婚を断るための口実です。
実際、私は、
そんなことは心配していないし、
私はあなたより、
ずっと長生きする自信があります。
私があなたとの結婚を断ったのは
すでに私には、
面倒を見なければならない
多くの側室がいるからです。
私は彼らが好きなのです。
ヒュアツィンテ。
あなたに対する誤解も解けたし、
私は、あなたを良い友達だと
思っているけれど、
側室たちを傷つけてまで、
あなたと結婚したくありません。
特にクラインは、
私があなたと結婚したら、
とても傷つくでしょう。
だって、クラインは
あなたのことが大好きだから。
私たちは、長い間離れていたから、
私があなたを拒絶しても、
あなたはあまり傷つかないと思います。
元気でね、ヒュアツィンテ。
手紙を書き終えたラティルは、
複雑な思いで、その手紙を見ました。
手紙には、
彼が傷つくことはないと思うと
書きながら、それが本当かどうかは
分かりませんでした。
結婚を断ったラティルも、
こんなに、そわそわしているのに、
プロポーズ使節を送った
ヒュアツィンテが、ラティルの拒絶を
平然と受け止めることができるかどうか
不安でした。
以前の別れは、
状況が無理やり作り出した別れで、
そこには、ラティルの意見が
全く入る暇がありませんでした。
しかし、今回の別れは
ラティル自ら、
ヒュアツィンテに与えたものでした。
ラティルは首を横に振ると、
手紙を折り畳み、
直接ヒュアツィンテ皇帝の所へ
飛んで行く伝書鳩を持って来るよう
サーナット卿に指示しました。
彼が鳥を連れてくると、
ラティルはその脚に手紙を結び、
窓際に立ちました。
そこに立つと、皇女時代に
ヒュアツィンテからもらった
草の指輪の香りが
庭から漂って来ました。
ラティルは窓から鳥を飛ばしました。
鳥は放物線を描いて飛んでいき、
あっという間に遠ざかりました。
ラティルは、長い間、
その姿を見ていました。
◇あの子が来る◇
嵐のように吹き荒れた出来事を
処理したラティルは、
その後、心が空っぽになり
虚しい気分に陥ってしまいました。
使節が来た時は、
当然、断って送り返すつもりでしたが
実際に彼らが帰ると、虚しくて
訳もなく落ち着きませんでした。
自分でも、その理由が分からず、
ラティルは仕事の合間を縫って
ギルゴールを訪ねることにしました。
そうでなくても、ここ数日、
帰国後の国務と
カリセンとの縁談のことで気が気でなく
ギルゴールの世話ができませんでした。
彼も、意識を失って、
ようやく回復したところでした。
夕方に、ラナムンを
訪ねるつもりなので、
今はギルゴールを訪ねて
様子を見た方が良さそうでした。
それに、ここ数日間、ギルゴールは
とても静かに過ごしていました。
ところが温室の中に入ってみると、
ギルゴールの状態は、
思った以上に変でした。
彼は、ガラスの壁の前に
土を敷いて座り、
太陽をじっと見つめていました。
その姿が、先程の自分のように
そわそわしているように見えたので
ラティルは慎重にギルゴールを
呼びました。
彼は首だけをラティルの方へ向け、
変な表情で、
「お嬢さん、あの子が来るそうです。」
と告げました。
ヒュアツィンテは、
アイニと結婚をしていても
ずっと、
ラティルのことを想っていました。
ラティルも、昔のことを思い出すと
心が痛むし、彼に対する想いも
少しは残っているかもしれないけれど、
何人もの側室を持ち、
彼らと共に夜を過ごし、
サーナット卿のことを好きだと自覚し、
自分がロードであることを知り、
自分が、たった一人の男性だけを
愛することができないのではないかと
疑問に思っている今、
ヒュアツィンテと共に
過ごす人生について
考えられなくなったのではないかと
思います。
けれども、昔の恋は
甘くて、せつないですよね。
ラティルが窓際で
草の香りをかいで、
伝書鳩を飛ばすまでのシーンに
涙がこぼれました。
最初にヒュアツィンテが
ラティルを迎えに行くと
言った日から
4-5年は経っていると思いますが
ヒュアツィンテにとっては
その時から、時間が
止まったままかもしれませんが、
彼女にとっては、
ヒュアツィンテのいない人生を
始めるのに十分な時間だったのだと
思います。