624話 ラティルの妊娠を知ったサーナット卿は、子供の父親は、やはりあの方かと尋ねました。
◇言いづらいこと◇
サーナット卿の質問に、
ラティルは簡単に答えることができず
彼をじっと見ているだけでした。
しばらく、2人の視線が
空中でぶつかり合った後、
サーナット卿は、ため息をつきながら
やはり、彼ですね。
と呟きました。
そわそわしている
サーナット卿の後ろに、
それに似た表情をしている
ゲスターの姿が重なりました。
ラティルは、
結果が出たら教えてあげると
ゲスターと約束していたことを思い出し
ため息をつきました。
ラティルは机に座ると
カレンダーの1枚目を剥がして
ゴミ箱に捨てました。
そして、頬杖をつきながら、
ゲスターの反応を推察してみました。
◇サーナット卿の苦しみ◇
夕食の時間になると、
ラティルはゲスターに直接
妊娠の事実を知らせるために
ハーレムを訪れました。
本当は、
彼の顔を見るのが気が進まず、
人を送ろうとしましたが、
安定期に入ってから、
公に公開するつもりだったので、
妊娠の事実を
慎重に伝えたいと思いました。
それに、期待に満ちた目で
ラティルの妊娠の可能性を
話していたゲスターが
日付を計算した後に、
ひどく肩を落としていた姿を
思い浮かべると、
やはり直接彼に会って
話してあげた方がいいと思いました。
ラティルが護衛をつけて
ハーレムに向かうと、サーナット卿は
その後ろ姿をぼんやりと眺めた後、
力なく近衛騎士団の休憩室に
入りました。
長い椅子に腰かけた彼は、
膝の上で腕を組んで
ため息をつきました。
ラティルの前では、
絶対に表現できない思いが
頭の中をよぎりました。
あの日、ラナムンがラティルの首筋に
これ見よがしに、彼の痕跡を残した
あの日、その跡を
完全に自分が覆い隠していたら
子供の父親は、
自分だったかもしれないと思うと
サーナット卿は怒りと同時に
恥ずかしさを感じました。
皇帝の子供は国の宝であり、
ラティル自身が、
危険な仕事をすることが多いため、
万が一に備えて、彼女は
後継者を欲しがっていました。
それを考えると、
自分は皇帝の忠臣として
今回の妊娠を喜ぶべきだということを
サーナット卿は分かっていましたが
簡単に表情管理ができませんでした。
生まれた子がラティルに似ていれば
まだ、ましだけれど、
その子がラナムンに似ていたら、
その子を好きになれないと思いました。
しかし、このような感情を
表に出さずに済ませられるのか。
サーナット卿は虚ろな視線を上げ、
向こう側の壁を見ました。
◇気まずい時間◇
ラティルが、
いつもより重い足取りで現れると、
トゥーリは満面の笑みを浮かべて
ラティルに駆け寄り、
彼女を出迎えました。それから、
うちのお坊ちゃまは、毎日陛下だけを
待っていらっしゃいます。
と伝えた後、
夕食を食べて来たかどうか
ラティルに尋ねました。
彼女が「まだ」と答えると、
トゥーリは、
すぐに持って来ると伝えました。
そして、トゥーリが
やかましく騒ぐ声を聞いたのか、
ラティルが部屋の中に入る前に
扉がひょいと開き、
ゲスターが顔を出しました。
陛下・・・?
トゥーリが食堂へ走って行くと、
ラティルは
ゲスターのそばに近づきました。
彼は扉をもう少し開けて、
ラティルを恐る恐る見下ろすと、
彼女が約束を忘れていたのかと
思ったのかと、
非難めいたことを言いました。
ラティルは、
先週、診察を受けた時は、
やはり違うと言われたので、
それでもう1週間待ったと
言い訳をしました。
ゲスターは、
今度は何と言われたのかと尋ねました。
ラティルは半開きの扉から
ゲスターを連れて中に入り、
しっかり、扉を閉めました。
しかし、それでも足りないので、
ラティルは部屋の片隅まで
ゲスターを連れて行き、
ようやく小さな声で、
間違いないく妊娠していると
伝えました。
非常に珍しいことに、
ゲスターの表情は
サーナット卿に似ていました。
普段なら、
ほとんど起こらないことでしたが、
驚くべきことに、今回は、
2人の視線の向きに、
似た変化が現れました。
ゲスターは、しばらく
ぼうっとしていましたが、
トゥーリが食べ物のカートを引いて
入ってくると、顔を赤くして
頭を下げました。
あっ、私の方を見ないでください。
私は、いないと思ってください。
トゥーリは、皇帝とゲスターが
部屋の片隅で、甘い時間を
過ごしていると思ったのか、
そちらを見向きもせずに叫びました。
そして、トゥーリが速いスピードで
テーブルの上に食べ物を置いて
出て行くと、ようやくゲスターは
消入りそうな声で、
お祝いの言葉を述べ、
時期的に子供の父親は
ラナムンではないかと尋ねました。
ラティルは、
「たぶん、そう」と答えました。
ゲスターは、
このことをラナムンは知っているのかと
尋ねました。
ラティルは、
まだ話していないので、
すぐに伝えなければならない。
それから、公開するのは
安定期に入ってからなので、
それまでは秘密にして欲しいと
頼みました。
ラティルは、
垂れ下がったゲスターの肩を見ると
ゲスターの右腕のトゥーリには、
この話をしてもいいと付け加えました。
ゲスターは「はい」と返事をしました。
世の中には、
こんなに気まずい瞬間が
他にあるのだろうか。
まだ、魂の半分が
戻って来ていないように見える
ゲスターを見ていたラティルは
彼の腕をつかみ、
テーブルへ引っ張っていくと、
さあ。 食事をしましょう。
と誘いました。ゲスターは
「はい」と返事をしました。
◇喜んでくれる人◇
ゲスターと食事をして
自分の部屋に戻って来たラティルは、
乳母と侍女たちの助けを借りて
服を着替えた後、
侍女たちを下がらせ、
乳母を向かいのソファに座らせると、
自分に子供ができたことを
伝えました。
あまりにもラティルが
淡々と話すので、乳母はすぐに
聞き取れませんでしたが、
遅ればせながら驚いた乳母は、
子供ですか?!
と聞き返しました。
ラティルは「そう」と返事をした後、
本当に妊娠初期なので、
安定期に入るまでは秘密にしておく。
だから、乳母の心の中に
留めておいてと頼みました。
乳母は、
サーナット卿やゲスターとは違い、
初めて、ラティルの妊娠の知らせに
大喜びしてくれました。
そして、乳母は満面の笑みを浮かべて
思ったより早くできた!
と叫びました。
ラティルは
早いの?
と聞き返しましたが、乳母は、
以前、ラティルは
大怪我をしたことがあるし、
危険な場所も歩き回っているので、
それを考えれば十分早いと答え、
ラティルに似た赤ちゃんであればいいと
きっぱり、叫びました。
そして、まだ平らな
ラティルの腹の上に
手をそっと乗せて、大声で笑うと
父親は誰なのかと尋ねました。
ラティルは、
ラナムンみたいだと答えました。
乳母は、
あらまあ。
と言って舌打ちをしたので、
ラティルは彼女を見つめると、
乳母は、
アトラクシー公爵が喜んで
大変なことになりそうだと
嘆きました。
それから、乳母は、
ラナムンは、このことを
知っているのかと尋ねました。
ラティルは「いいえ」と答え、
もうすぐ、教えようと思う。
初めは、誕生日に
教えるつもりだったと話すと、
乳母は、それでは、
教えるのが遅過ぎると非難しました。
ラティルは、
誕生日の前に知らせて、
誕生日は、二人で一緒に
過ごそうと思っていると
返事をしました。
ラティルの言葉に、
乳母は感激した表情で笑い、
これで、
後継者の心配をしなくていいので
良かったと言いました。
ラティルは、
そうだろうか。
と不安そうでしたが、
乳母は「もちろんです」と
返事をした後、ラナムンには
どのように伝えるつもりなのかと
尋ねました。
◇ゲスターの怒り◇
ラティルと乳母が、
一番良い方法で、この話を
赤ちゃんの父親に伝えるには
どうすればいいか相談している時、
ゲスターは、
部屋の中にいることができず、
住居の外に出ると、近くの遊歩道を
とめどなく歩き回りました。
これは誰ですか?これは誰ですか?
変態じゃないですか!
グリフィンが興奮して
走って来ましたが、
ゲスターは返事もせずに
通り過ぎました。
グリフィンは、
小さな頭を傾げながら、
その後ろ姿を
不思議そうに見つめました。
どうしたの?
湖畔に伏せていた
メラディムが彼を発見して
おい!
と呼びましたが、ゲスターは彼にも
返事をしませんでした。
しかし、ゲスターのように、
寂しく夜のハーレムを徘徊していた
カルレインを見た時は、
自分でも知らないうちに
彼に近づき、彼の肩を叩きました。
何をしているの?
と尋ねるカルレインにゲスターは
次は、あなたの番だと思うと
答えました。
私の番だって?
と聞き返すカルレインに、ゲスターは
泣き叫ぶ者。
と答えました。
不愉快になったカルレインは
ゲスターの腕を
パッと振り払いましたが、
ゲスターは、数日後、カルレインも
一人で落ち込むことになるのを
知っていたので
肩をすくめて通り過ぎました。
どうしたんですか?
カルレインは、その後ろ姿を
怪訝そうに見つめながら
再び首を傾げました。
ゲスターのとめどない足取りは、
この事態の原因であり、ゲスターが、
ひどい目に遭わせたい対象第1号に
急浮上した
ラナムン・アトラクシーを見ると、
ピタリと止まりました。
ラナムン・アトラクシーは、
ラティルとの間に
初めての子供ができた嬉しさのあまり、
踊ったり歌を歌っても
足りないくらいの状況のはずなのに、
彼は複雑な表情で
ベンチに座っていました。
腹の中が煮えくり返っていた
ゲスターは、辺りを見回しました。
遠くにいたメラディムが
目を丸くして、自分の目を一度、
それからゲスターを一度
指差しました。
その気配を感じたのか、
一人で地面を見下ろしていた
ラナムンが頭を上げました。
神様が繊細に彫刻したような
秀麗な顔に
陰がかかっているのを見ると、
ゲスターの怒りは、
さらに増しました。
ラティルが
彼の子供を作ってあげたのに、
今、彼は何をしているのか。
ゲスターは我慢できなくなり、
彼に近づきましたが、
ゲスターが近寄ると、
ラナムンは眉をひそめて
どうしたの?
と尋ねました。
ゲスターは、
彼に資格がないと答えました。
資格?
と、ラナムンは聞き返すと、
ゲスターは、
そんな表情はするなと非難しました。
カルドンは、
臆病な上に、言葉に慎重なゲスターが
ラナムンに近づき、
用心に用心を重ねて文句を言うと、
面喰って、目を丸くしました。
ラナムンも同様に当惑しました。
ゲスターが見た目と違って
信じられない者だということは、
これまであったいくつかの事件で
知ることとなりました。
しかし、とにかくゲスターは、
表向きは、おとなしくて
誠実な姿をずっと保って来たので
このように、いきなり近づいてきて、
文句をつけることは
ほとんどありませんでした。
ところが、今日はどういうわけなのか
カルドンがいるのに
いきなり喧嘩を売ってくるなんて、
気が狂ったようでした。
ラナムンは、今、ゲスターが、
自分に喧嘩を売っているようだと
眉をひそめて指摘すると、
ゲスターは、
照れくさそうな笑みを浮かべ、
口元を隠しながら、
そんなはずはない。
喧嘩をするにも
考えてからするものだからと
返事をしました。
ラナムンは、
その言葉も含めて
喧嘩であるのは明らかだと
抗議しました。
ゲスターは、
ラナムンの愁いに沈んだ顔が
気に入らなくて、
何か言ってみたくなったのですが、
彼は、ラナムンがまだ
ラティルの妊娠の知らせを
知らないことが分かりました。
だからといって、
ラナムンの、あの眉を顰めた顔が
気にならないわけでは
ありませんでした。
ラナムンの
美しくて魅惑的な顔を見ていると、
さらに怒りがこみ上げてきました。
顔以外には長所が一つもない上に、
歴代で最も弱い対抗者であり、
氷の欠片のような男が、
あの顔を前面に出して
皇帝の最初の子供の
父親になったと考えるだけで
腸が煮えくり返り、
今、仮面を持っていたら、
あのきれいな顔を
仮面で叩きたいと思いました。
ラナムンは姿勢を正し、
ゲスターの顔を指差すと、
なぜ、そんなに
自分を睨んでいるのか。
表情管理が大変なら、いっそのこと
自分の部屋へ戻れ、気に障ると
抗議しました。
ゲスターは、
あまり気に入らない方がいいと思う
と言って、
冷たい目でラナムンを見つめると、
彼に背を向けて、再び歩き始めました。
ゲスターが遠ざかると、カルドンは、
ぼんやりとしていた目を
パチパチさせ、 肩を震わせました。
いや、あのおとなしいお坊ちゃまが
今日はどうしたんでしょうか?
何かあったのでしょうか?
単に、本性を現しただけでしょう。
え?
という言葉が終わるや否や、
ラナムンの上にある木から
木の葉や虫が落ちて来て
ラナムンを埋めてしまいました。
お坊ちゃま! お坊ちゃま!
驚いたカルドンは、
急いで木の葉をかき分けて
ラナムンを救出しました。
しかし、驚きもしなかったのか、
そんな中でもラナムンは
姿勢を崩すことなく座っていました。
冬でもなく夏なのに、
急にどうして木の葉が
一気に落ちたのか分からないと
きょとんとして呟く
カルドンの言葉を聞き、
ラナムンは呆れて、
ゲスターが通り過ぎた場所を
見つめました。
彼は、本当に狂ったのではないかと
疑いました。
ラナムンは、ゲスターが
何を気に入らない方がいいと
言ったのか、分からないとぼやくと
カルドンも同意しましたが
彼はハッとすると、何かラナムンに
良い知らせがあるのを、
ゲスターが先に知ったのではないかと
言いました。
ラナムンが「良い知らせ?」と
聞き返すと、カルドンは
皇帝がラナムンを皇配にすることに
決めたこととか・・・と答えました。
ひどい目に遭わせたい対象第1号って
もしかして、最近までは
サーナット卿?
ゲスターが腹黒なのは
重々、承知していますが、
大人しいふりをして、
常にそんな恐ろしいことを考えて
他の側室たちに、
何かしようとしていたかと思うと
改めて、ゲスターの陰湿さに
ぞっとしました。
ひどい目に遭わすいうのが、
木の葉と虫を上から降らせる程度なら
まだいいのですが・・・
きっと毛虫や芋虫がいたでしょうに
平然としているラナムンはすごいです。
サーナット卿も、
あの時、こうすれば良かったと
後悔するくらいなら、
さっさとラティルの側室に
なっていれば良かったのにと思います。
それにラナムンに似た子を
好きになれないかもしれないと
情けないことを考えていますが、
きっと、ラティルは
そんなことを望んでいないと
思うので、
そんな心配は無用だと思います。