643話 ラティルは、アリタルの体の中に入り込んでいます。
◇どうしていいか分からない
ラティルは、ゆりかごを離すと、
ギルゴールを
ギュッと抱きしめました。
それから、彼をさっと持ち上げて
回そうとしましたが、
アリタルがまだロードではないためか
ラティルほど、
体の力がありませんでした。
ギルゴールを
屁っ放り腰で持ち上げた
ラティルは、彼を下ろしました。
何をやっているの?
ギルゴールが低い声で
笑い出しました。
ラティルは、
率直に話すことができなかったので
ただ笑っていました。
ギルゴールは、
気分が良さそうで私も嬉しい。
と言ってニッコリ笑うと、
ゆりかごに横になっている
赤ちゃんの一人を抱き上げました。
ラティルは、どちらがシピサで、
どちらがセルなのか
全く見分けがつきませんでした。
今日も会議に行くの?
ギルゴールが、
まだ座っていない子供の首と頭を
慎重に支えながら尋ねました。
ラティルは肩をすくめました。
この時期、ギルゴールの口調が
とても優しいということは、
壊れたカリセン宮殿で
初めて幻想を見た時に分かりました。
しかし、アリタルが
どんな風に話していたのか
分からないので、ラティルは
どう答えればいいか困りました。
今日は、早く帰って来ないと
いけないのは知っているよね?
ギルゴールは
子供をあやしながら尋ねました。
ラティルはわけも分からないまま、
ひとまず頷きました。
ギルゴールが子供の一人を連れて
扉の外へ出ると、
ラティルは両手で頭を抱えました。
クソッ!どうしよう?
ドミスの時は
ドミスの観点から見ていたので
ラティルは客観的に
情報を得ることができました。
しかし、この体はラティル自身が
操縦していました。
アリタルが言おうとしたことは
アリタルだけが知っているはずなので
ラティルがこの体で、
どんなに上手く振舞ってみても
アリタルの意図を
知ることができませんでした。
アリタル?
扉がぱっと開き、ギルゴールが
ラティルを不思議そうに見つめながら
大丈夫?
と尋ねました。
もちろん!
ラティルは無条件に笑いました。
ギルゴールは、
再び扉を閉めて出て行きました。
一人残されたラティルは
何をすればいいのか分からず、
戸惑っていると、
突然ゆりかごの中の
もう一人の子供が泣き始めました。
アリタル!セルをあやして!
扉越しにギルゴールが叫びました。
ああ、この子がセルなのか。
ラティルは、とっさに
赤ちゃんを抱き上げましたが、
赤ちゃんの頭がぐらつくのを見て、
声を出さずに悲鳴を上げました。
急いで、ギルゴールのように
赤ちゃんの頭を支えると、
赤ちゃんは口からよだれを垂らして
笑いました。
なぜ、よだれを垂らすの?
ラティルは、
赤ちゃんを抱きしめたまま
頭の中が真っ白になりました。
ラティルには、
異母弟妹たちがいましたが、
彼女はその子供たちに
あまり興味がありませんでした。
さらに、腹違いの弟妹たちが
赤ちゃんの時は、
ラティルも幼かったので、
さらに興味がありませんでした。
それに、その赤ちゃんたちは、
彼らの母親と乳母の腕の中で育ち、
毎日顔を見るわけでも
ありませんでした。
よだれを
拭いてあげればいいのかな?
でも、子どもを両手で抱えているので
どうやって、
よだれを拭けばいいのかも
わかりませんでした。
片手で抱っこすると、
赤ちゃんの頭が、
またぐらぐらしそうでした。
ギルゴールに聞いてみようか?
でも、ギルゴールが見たら
変に思わないだろうか?
ランスター伯爵は・・・
赤ちゃんのよだれが
ふっくらとした頬の横に
流れ始めました。
ラティルは赤ん坊をゆりかごに寝かせ
袖を引っ張り、
よだれを拭きました。
すると子供が、また泣き出しました。
また泣いた!
ラティルは急いで
赤ちゃんを抱き上げたところ、
子供は可愛く笑いながら
口から、またよだれを垂らしました。
何をどうすればいいのか
分からないラティルは、
頭がおかしくなりそうでした。
何をしているの?
シピサを抱いて入って来た
ギルゴールはラティルを見て
眉を顰めながら、
彼女に近づきました。
ラティルは、ギルゴールが
助けてくれることを願いましたが、
彼はシピサを抱えながら
窓のカーテンを開き、
床に落ちている枕を
ベッドに蹴り上げました。
ラティルは、
その場でずっと固まったまま、
ギルゴールが動く方向に
体の向きだけを変えながら
立っていました。
何をしているの?
ギルゴールは笑い出すと、
ラティルに近づき、
彼女の頬にキスをしました。
セルが・・・
とラティルが急いで話すと、
ギルゴールは片手で、
楽々赤ちゃんのよだれを拭き取ると、
また出て行ってしまいました。
ラティルはポカンと口を開け、
ギルゴールが消えた扉を見つめました。
◇平和な家◇
ギルゴールが、シピサとセルの両方を
連れて行った後、
ラティルの両手は
ようやく自由になりました。
ラティルはベッドに腰かけると、
大変だ。このままでは本当に
情報を得ることができないと
頭を抱えました。
改めてランスター伯爵が
どれほど賢い人だったのか
感嘆しました。
彼はラティルが
ドミスでないことに気付き、
好奇心を示しました。
彼が先に、それを言い出したので、
ラティルは対応しやすかったし、
彼はドミスと
恋愛関係ではなかったけれど
ドミスの味方で、彼女に
片思いもしていなかったので、
好奇心から
ラティルに近づきました。
しかし、ギルゴールは
アリタルの恋人でした。
アリタルの中に
他の人がいることに気づいたら
自分に好意的に
なってくれるだろうか?
アリタルは、まだロードでもないし
悲劇も始まっていませんでした。
ランスター伯爵は
そのことを知っていたから
話がよく通じましたが、
今のギルゴールは、
そんなことについて
全然知らないと思いました。
アリタル?
再び扉が開くと、
ギルゴールが中に入って来ました。
ラティルは手を下ろすと
素早く立ち上がりました。
ギルゴールは眉を顰めながら
神殿に行くでしょう?
と尋ねました。
あっ、行かなくちゃ。
ラティルが答えるや否や、
ギルゴールは再び外に出ました。
緊張する、とても緊張すると
心の中で呟きながら、
ラティルは足をバタバタさせて
飛び起きると、
クローゼットと思われるものの
扉を開けました。
その中は、似たり寄ったりの白い服で
いっぱいでした。
アリタルは白い服だけを
着ることにしている人のようでした。
全ての服が同じに見えたので、
ラティルは適当に
手に触れるものを取りました。
幸い、服の着方は
複雑ではありませんでした。
鏡を見ながら身なりを整えた後、
ラティルは、
できるだけ落ち着いた表情で
扉を開けました。
扉の向こうは、
キッチンとダイニングルームが
一つになったような
丸みを帯びた空間でした。
寝室はかなり広かったけれど、
この共用スペースは
それほど広くありませんでした。
そこには、
寝室にあった揺りかごより
低い揺りかごが二つあり、
ギルゴールが連れ出した
赤ちゃんたちは、
そのゆりかごに斜めに横になり、
足と腕を動かしていました。
ギルゴールは調理台の前で
キャベツときゅうり、リンゴなどを
切っていました。
ラティルが慎重にギルゴールを呼ぶと、
ギルゴールは首を半分だけ回して、
ニッコリ笑いながら、
少々お待ちください。
うちのアリタルは
シピサより忍耐強いでしょう?
と言いました。
ラティルは全身に鳥肌が立ちました。
優しいギルゴールに
馴染むことができませんでした。
本来のギルゴールは、
あの優しい仮面の下で、
陰険に笑っているべきだと
思いました。
ラティルは、
4人用に見えるテーブルの椅子を引き
そこへ腰を下ろしました。
ギルゴールは上手に野菜を切り、
パンの端を整えました。
それから、刻んだ野菜と果物を
パンの上に乗せ、
小さな樽のふたを開け、
小さなスプーンで
ソースをすくいました。
パンの間に、
それらを全て挟み込むと、
ギルゴールは紙の上に
完成した料理をのせて、
クルクル巻いてラティルに渡すと
いってらっしゃい。
と笑いながら言いました。
その言葉に、
すぐに紙を破いて食べようとした
ラティルは、
ここで食べるのではなく、
神殿に行って
食べなければならないということに
気づき、すぐに立ち上がりました。
ギルゴールは
ラティルの両頬にキスをして
扉を開けました。
ラティルはギクシャクしながら
出かけようとすると、
ギルゴールは
アリタル!
と呼びました。
ラティルは鳥肌を立てながら
振り向きました。
ギルゴールが目で
赤ちゃんたちを指すと、
挨拶しないで行くのは寂しいです。
と言いました。
ラティルは、
中腰で歩きながら、
赤ちゃんたちの額にキスをすると
行って来ます。
と言って、彼に手を振りました。
彼が自分の口調を怪しむのを恐れて、
ラティルは、
しばらく躊躇いましたが、
ギルゴールは微笑みながら
再び扉を押さえてくれました。
ラティルは、
互いに気楽に話せたようで
良かったと思いました。
ラティルは紙に包まれた
素朴な食べ物を持って、
パンの匂いで満ちた家を
走るように抜け出しました。
こんなに平和な家に、
一体アリタルは何をしたのか。
ラティルは信じられませんでした。
◇神殿へ◇
ギルゴールがくれた、
おそらくお弁当と思われる
食べ物を持って、
あちこち、うろつき回ったラティルは
神殿の位置が分からないという
難関にぶつかりました。
ラティルを見た人々は、
おはようございます!
と、一様に笑いながら
挨拶をしました。
彼らは皆、アリタルの顔を
知っているようでした。
そして、そのせいでラティルは
彼らに神殿がどこにあるのか、
聞くことができませんでした。
大神官が神殿の場所を尋ねたりしたら
人々は不思議に思うに
違いないからでした。
その時、ある老人が近づいて来て、
この間は
ありがとうございました。
大神官が、私たちのそばに
いらっしゃることが
大きな幸運です。
と涙ぐみながら挨拶しました。
その老人と
向き合っているうちに、
ようやく機転が効いて来たラティルは
老人に、今日も神殿に行くのかと
尋ねました。
老人は、後で夕暮れ時に
ゆっくり行ってくるつもりだと答え、
どうして、そんなことを聞くのかと
尋ねました。
ラティルは、
朝の神殿は本当に趣があるので、
一緒に行かないかと提案しました。
その言葉に老人は驚いたので、
ラティルは、
嫌なら行かなくても大丈夫だと言って
微笑むと、老人は素早く手を振り、
大神官と一緒に行けるのは嬉しいし、
こんな栄光はないと喜びました。
老人は、
しばらく待ってほしいと言って
自分の家に戻り
ある籠を一つ持って走って来ました。
ラティルは老人に案内してもらい
辛うじて神殿に到着しました。
町の建物が皆、似たり寄ったりなので
道を覚えるのが大変そうでした。
後で、どうやって家に帰ればいいのか
途方に暮れました。
老人と別れたラティルは、
とりあえず一人で
巨大な神殿の建物の前に
ぼんやりと立っていました。
ここでも、神官たちは、通り過ぎる度に
ラティルに挨拶をして行きました。
その挨拶をずっと受けながら
立っていたラティルは、
どうやって家に帰るかという
問題よりも、ここに何時までいて、
何をして行かなければ
ならないのかという問題に
ぶち当たりました。
ラティルは巨大な神殿の中を
あちこち歩き回りましたが、
皆、挨拶をするだけで、
ラティルに話しかけたり、
何をすべきなのか
教えてくれなかったので、
何十分も歩き回るだけでした。
そのうち、
誰もいない静かな空間が見えたので、
ラティルは、そこに座り
ギルゴールがくれたお弁当を
食べました。
お弁当を食べた後は、
紙をどこに捨てればいいのか
分からず、神殿の中を彷徨いました。
ラティルは、
やるべきことが、規則正しく
決まっていないのだろうかと
考えました。
どれだけ、
そのように歩き回っていたのか。
大神官様!大神官様!
急にラティルを呼ぶ声が
聞こえてきました。
ラティルは声がする方を見て、
ぎょっとしました。
あの問題が起こった村に行った時、
怪物が、短い時間、
見せてくれた幻想の中で、
ラティルは、自分に武器を向けながら
泣いている神官たちを見ましたが
駆けつけて来た神官は
そのうちの一人でした。
ラティルはその神官を
疑わしげに見つめましたが、
駆けつけた神官は、
膝をついて喘ぐだけで、
幻想の中で見た時のように
警戒心を露わにしていませんでした。
ラティルは彼に
大丈夫かと慎重に尋ねると
駆けつけた神官は素早く頷き、
怪物が現れたので、
すぐに来て欲しいと
ラティルに訴えました。
神殿に怪物が現れたと聞いて
ラティルは戸惑いましたが、
とりあえず神官に付いて
走って行きました。
ところが怪物は、
神殿の真ん中に現れたのではなく、
神殿に来る途中で通りかかった
絶壁の近くにいました。
そこで5匹の大きな翼のある怪物が
崖の端に立っている男を
攻撃していました
ギルゴール?
絶壁の端で、
槍を持って怪物と戦っているのは
ギルゴールでした。
神官は、聖騎士が
先に来てくれたけれど、
数がとても多いので、
神性力で彼らを倒して欲しいと
叫びました。
ラティルは、ギルゴールが
槍を軽々振り回すのを見て、
すでに一人で、
よく戦っているのではないかと
思いました。
しかし、ラティルは
あちらの尾根に、
ぎっしりと座っている
奇怪な数十匹の怪物を見つけて、
口をぽかんと開けました。
あの翼の付いた怪物は、
一種の先発隊のようでした。
この時期の怪物は、
こんなに数が多いのか。
今後、自分たちの時代にも、
あのような怪物たちが、
うじゃうじゃ現れるのかと
ラティルは心配になりました。
そんなラティルに神官は、
早くして欲しい。
早く怪物たちを退治しないと
村を隠し通すことができないと
叫びました。
村を隠し通すということが
どういうことか分からないし、
神聖力も使ったことがないので
ラティルは困ってしまいました。
その時、ギルゴールは
アリタル!
と叫ぶと、槍を投げ、
ラティルの方へ
飛んで来ようとした
怪物の頭を突き刺しながら、
吹き飛ばせ!
と叫びました。
ラティルは頭が空っぽになり、
どうやって?
と尋ねました。
アリタル?
ギルゴールは
不思議そうな声で尋ねました。
ラティルは
すっかり混乱してしまい、
この部分じゃない、
この部分じゃない!
もっと後!もっと後!
と心の中で叫びました。
その瞬間、瞼がゆっくりと
瞬いている感じがして、
周囲の風景が変わりました。
ラティルは片手に、
とても小さな器を持っていました。
もう片方の手は、
小さな臼を持っていて、
手が勝手に動きました。
「体の主人」は鼻歌を歌いながら
何かを作っていました。
今回はラティルが、
この体を自由に動かすことが
できませんでした。
なぜ、ある時は体を操れて、
ある時は操れないのか
疑問を抱きながら、ラティルは
周囲を見渡しました。
ここは、
アリタルとギルゴールの家の中の
調理台の前でした。
相変わらず家の中は平和でした。
ところがラティルは
後ろから微かに漂って来る
血の匂いを感じました。
ほぼ同時に、
アリタルも手を止めました。
血の匂いは家の中からしていました。
今回のお話で、
ギルゴールのサンドイッチ好きの
原点を見たような気がしました。
マンガの141話で
爆発魔術師と戦っている
ギルゴールが出て来ますが、
その顔は、
本当に狂気に満ちているので、
ラティルが優しいギルゴールを見て
戸惑う気持ちが、よく分かりました。
妻を愛し子供を愛し、
優しくて善良なギルゴールが、
狂気に陥るほどの
辛い目に遭うかと思うと
悲しくなります。