668話 サーナット卿を側室にするという約束を、ラティルは忘れているようです。
◇執事の励まし◇
こうしたらどうかって?
とサーナット卿が聞き返すと、
執事は彼の目の前まで近づいて
立ち止まり、
皇帝に約束を思い出させることだと
答えました。
それが、簡単ならと
サーナット卿は返事をしました。
執事は簡単に言うけれど、
その内容は、
あまりにも漠然としていました。
サーナット卿は言葉を濁し、
窓の両端の
カーテンのタッセルを解きました。
執事は、
皇帝を巧妙に誘惑するように。
それに皇帝が夢中になるようだったら
約束を忘れたのかと皇帝を追及せずに
自然に約束の話をすればいいと
助言しました。
サーナット卿は
タッセルを弄り回しながら、
言葉で聞けば
大丈夫そうに思えるけれど、
効果があるだろうかと
疑問に思いました。
しかし、執事は、
じっとしていてもどうにもならないと
発破をかけました。
サーナット卿は、
弄っていたタッセルを置きました。
◇サーナット卿の策略◇
侍女たちが、
ラティルの身支度を整えている間、
彼女は、赤く染まった
夜明けの空を眺めながら、
パーティー会場ほど、
心の声が騒がしく聞こえないと
思いました。
パーティー会場では、
人々がひそひそ話す声と
考える声が区別できなくて、
少し大変でした。
陛下は何を
お考えでしょうか?
秋だけど、まだ暑いから
上着は薄い方がいいでしょうか?
陛下は、今日も
皇女様の話はしません。
今日も完全に
区別ができるわけでは
ありませんでしたが。
人数が少ないので、
独り言に近い言葉と
質問する時の言葉は
ニュアンスや内容で
区別することができました。
ラティルは、
独り言のように聞こえるのは
侍女たちの心の声だろうと
判断することにしました。
どうせ心の声が聞こえるなら、
いっそのこと、
すべての人の心の声が
聞こえれば良いけれど、
それはそれで、
一体、何を言っているか
訳が分からなくなると思いました。
支度が終わると、
ラティルは鏡に姿を一度映した後、
執務室へ歩いて行きました。
それから、しばらく
執務室で業務をしていたところ、
ラティルは
ペンを落としてしまったので、
サーナット卿が拾おうとして
腰を曲げました。
すると、彼の上着が
破れているのが見えました。
ラティルがサーナット卿を呼ぶと
彼はペンを置きながら
ラティルを見つめました。
彼女は、服の脇腹の所が
破れていると教えると、
サーナット卿は、
自分の服を見下ろしました。
ラティルは何げなく、
彼が拾ってくれたペンを
再び手に取りましたが、
サーナット卿が上着をさっと脱ぐと
再び、ペンを落としました。
ラティルは当惑し、
何をしているのかと尋ねました。
サーナット卿は上着を片腕にかけて
糸と針はあるかと尋ねました。
ラティルは、
ここにあるって言っていたような
気がするけれどと呟きながら、
引き出しのあちこちを
空けたり閉めたりを
繰り返しているうちに、
ついに糸と針を見つけました。
ラティルは、
糸と針が入った透明な筒を渡すと、
サーナット卿は椅子を持って来て
腰を下ろし、服の破れた部分を
器用な手つきで繕い始めました。
彼が体を動かす度に、
鍛え上げられた筋肉が、
微かに動きました。
ラティルは、わざとそちらを見ずに
ペンを握りしめて
書類だけを見下ろしました。
ラティルは、
彼が後で服を繕うとか、
あるいは人を呼んで
繕って来いと言うと思ったので、
ここで、すぐに裁縫をするとは
想像もできませんでした。
しかし、
サーナット卿があちこち体を動かし、
大きな手を器用に動かすのを見ると、
しきりに目が
そちらを向こうとしました。
ラティルは我慢できなくなり、
ここでやるべきことなのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
このまま外に出たら恥ずかしいだろうと
ずうずうしく答え、
手を止めませんでした。
ラティルは頬杖をついて、
サーナット卿が上着を脱いで
服を縫っている。
と、紙に落書きをしました。
彼が他の人の前で、あの美しい体を
さらけ出すかと思うと、
あまり、いい気はしませんでしたが、
ここで、あのようにされると、
自分の神経の糸が、
引っ張られるような気がしました。
それがバレバレだったのか、
サーナット卿は笑いながら、
何をそんなに緊張しているのかと
尋ねました。
ラティルは、
緊張していないと、すぐに反論し、
自分が急に上着を脱いで、
繕い始めたら、
サーナット卿だって固まるだろうと
言いました。
しかし、彼は返事をしなかったので、
ラティルは、もう大丈夫かと思い
頭を上げました。
しかし、彼の素肌を見て、
再びさっと頭を下げました。
サーナット卿の口元がかすかに上がり
彼は低い声でラティルを呼びました。
彼女は、それに屈することなく
視線を書類に下げたまま、
突拍子もない声で、
どうしたのかと尋ねました。
サーナット卿は、
こちらを見ないのかと尋ねました。
ラティルは断固として
見ないと答えると、
サーナット卿が笑う声がしました。
それでも、ラティルは、
ずっと知らんぷりをしようと
思いましたが、サーナット卿は、
ラティルに油断する隙も
与えないかのように、
さらに穏やかな声で、
どうせ、皇帝の側室になるのだからと
言いました。
ラティルは、彼の言葉を
すぐに理解できませんでした。
ラティルはサーナット卿の方へ
顔を向けると、
彼は繕った服を下ろしながら
ラティルと目を合わせて笑い、
皇帝が望むなら見てもいいと
言いました。
その言葉を聞いて初めて、ラティルは
子供が生まれたら、
サーナット卿を側室にすると
約束したことを思い出しました。
いくら多忙を極めていたとはいえ、
ラティルは、こんな重要な約束を
忘れていた自分を責めました。
サーナット卿は、ラティルが一人で
深刻になっているのを見て、
服を着て、身だしなみを整えました。
効果があるといいのですが・・・
彼は皇帝の反応を綿密に探りながら
自分の策略が功を奏することを
期待していました。
◇仲良くなれない◇
昼食時、皇女との時間を
無理矢理、過ごしに行ったラティルは、
赤ちゃんがラナムンに抱かれたまま
小さな口で欠伸をする姿を見ました。
赤ちゃんを養育するようになってから
少し時間が経ったせいなのか、
ラナムンは、それなりに上手に
赤ちゃんに、
ミルクを飲ませていました。
ラティルはパンをスープに浸けて
ラナムンの口に入れながら、
彼は赤ちゃんと、
随分仲良くなったと感心しました。
ラナムンの顔が赤くなりましたが、
彼は、ラティルがくれたパンを
素直に食べました。
ラナムンはパンを
しっかりかみ砕いた後、
仲よくなろうと努力中だと答えました。
その言葉にラティルが感嘆すると、
後ろから乳母が、
皇帝も仲良くなる努力をすべきだと
口を挟みました。
ラティルは膨れっ面で
努力はしていると答えました。
しかし、ラナムンは
努力をしているのは自分と大神官だと
冷たく呟きました。
ここへ来る時も、
あまり良い気持ちで来たわけではない
ラティルは、
ラナムンと乳母が揃って自分を責めると
小言は止めてと反発しました。
ラナムンは、
小言と言われて驚きましたが、
結局、耐え切れなくなったラティルが
分かったから、渡して。
と言って、ラナムンに腕を伸ばすと、
乳母は、
皇帝もラナムンには勝てないと言って
笑い出しました。
ラティルは、
あんなに殺伐としているラナムンに
どうやって勝てると思うのかと
反論すると、ラナムンは、
自分の言うべきことを
奪ってはいけないと
つっけんどんに抗議しました。
乳母は、気が利かないのか、
気が利かないふりをしているのか
分かりませんでしたが、
二人は本当に素敵だと、
良い方に解釈しました 。
ラナムンがラティルに
赤ちゃんを渡すと、
彼女は、ハラハラしながら、
赤ちゃんを、そっと抱きしめました。
抱きしめた瞬間、赤ちゃんが
泣き出すのではないか、
もしかしたら、頭の上の天井が
崩れてくるのではないかと
怖かったけれども、
意外にも赤ちゃんは、
ラティルと目が合うと、
キャッキャッと笑いました。
カルレインに対する好感だけは
そのままだけれど、
自分に対する悪感情は
残っていないのだろうか。
それなら良かったと、
ラティルは、その可愛い笑顔に
安心しましたが、その直後、
赤ちゃんは狂ったように
泣き出しました。
ラティルは驚いて、押し付けるように
乳母に赤ちゃんを渡しました。
乳母は、ラティルが赤ちゃんを
乱暴に渡して来たことに驚き、
赤ちゃんをボールのように
やり取りしてはいけないと
注意しましたが、
ラティルは何も言わずに
出て行ってしまいました。
ラナムンは、
その後を追おうとしましたが、
乳母が赤ちゃんを渡してきたので
一緒に行くことができませんでした。
閉まる扉の向こうに、
サーナット卿がラティルに
近づいて行くのが見えました。
ラティルがサーナット卿の肩に
寄りかかる姿を、
ラナムンは半開きの扉の隙間から
じっと見つめました。
◇延期◇
ラティルは、ラナムンの部屋が
まもなく崩れるかのような勢いで
走り去りました。
その後を付いて来たサーナット卿は
大丈夫かと尋ねました。
ラティルは、
大丈夫ではない。
自分に抱かれるや否や
子供は泣き出した。
鳥肌が立ったと答えました。
遊歩道を歩き続けていたラティルは
大きな木にたどり着いた所で、
ようやく立ち止まりました。
サーナット卿は、
ラティルの周りに飛んでくるハチを
手で追い払いました。
赤ちゃんは自分を嫌いなのだろうかと
ラティルは低い声で尋ねました。
サーナット卿は、
きちんと赤ちゃんを
抱けていないだけかもしれないと
答えました。
サーナット卿は、
部屋の中を見ていなかったので、
ラティルが何を見て、こうなったのか
分かりませんでしたが、
わざと肯定的に推測してみました。
ラティルは、
そうかもしれないと返事をすると
ため息をついて、
地面にしゃがみこみました。
改めて自分が情けないと思いました。
赤ちゃんが泣くや否や、驚いて
飛び出して来る親だなんて、
国民がこの姿を見たら、
どれほど、呆れることかと思いました。
この姿を見て喜ぶのは、
ラティルの敵だけだと思いました。
ラティルは、
赤ちゃんにもっと優しくしようと
努力しているけれど、
うまくいかないと、ぼやきました。
サーナット卿は、
十分に努力していると慰めました。
ラティルは立ち上がって
大きな木の下のベンチに座りました。
サーナット卿は、
隣に並んで座ることができず、
ベンチの後ろに立ちました。
ラティルはチラッと後ろを振り向くと
サーナット卿が繕った所が
目に入り、執務室での光景が
再び思い出されました。
ラティルは、訳もなく
自分の足の甲を見下ろしました。
ラティルは、赤ちゃんが生まれたら
サーナット卿を側室として
受け入れると約束しました。
赤ちゃんが生まれてから
数ヶ月も経ったので、
そろそろ約束を守る時になりました。
ラティルもサーナット卿が好きなので
彼が側室になったからといって
悪いことはありませんでした。
いつも、そばにいなくなるのは
残念だけれど、
一長一短はあるものでした。
しかし、ラティルはその問題を考えると
胸が締め付けられました。
昼間、
側室との誓約式を思い出してから、
ラティルはずっとこの状態でした。
その話題を思い出す度に
嬉しいのではなく、
息が詰まる思いがしました。
サーナット卿は
ラティルの表情が良くないので
大丈夫かと心配しました。
結局、ラティルは、
サーナット卿との誓約式を
数ヶ月後に延ばしてもいいか。
サーナット卿が嫌いだからではなく、
ただ、今は時期が悪いからと
提案しました。
ラティルは、
まだ皇女と仲が良くなかったし、
人々もそれを知っていました。
誕生日には、ラティルが怪物を
貴族たちの前に連れて来て
騒ぎを起こし、
レアンと父親の秘密の側近たちは、
目を光らせて、
こちらの実情を探ろうと
躍起になっていました。
そんな中、
何ヶ月も意識がなかったラティルが
目を覚ますや否や、
自分の子供を放り出して
再び、側室を迎えたりすれば、
好色な皇帝は、
国事に向いていないという声が
出るかもしれませんでした。
ラティルは、
サーナット卿の顔色を窺いました。
意外にもサーナット卿は
淡々と微笑みながら、
そうしましょう。
陛下を催促するわけには
いきませんから。
と答えました。
ラティルは、サーナット卿に
お礼を言うと、立ち上がって
彼を抱き抱えて
何度か背中を叩きましたが、
彼の目に失意の色が浮かんでいるのを
見ることができませんでした。
◇ゲスターの策略◇
ラティルが、
再び執務室に戻って働いている間、
サーナット卿は
他の近衛騎士と交代した後、
家に帰る代わりに、ハーレムの中を、
あちこち、うろうろしながら
歩き回りました。
皇帝は、
あまりにも忙し過ぎるので、
このように、
ずっと待っているだけでは、
側室になりにくい。
このまま、2人目の子供を妊娠したら
また待てと言われるという、
執事の言葉が、頭の中をよぎりました。
サーナット卿は、
数ヵ月後もラティルが、
依然として忙しいことを
知っているため、
胸が詰まりました。
何日か後には、
レアンはさらに勢いを増すはずだし
アイニ元皇后が、
このまま退いたかどうかも
分からない。
これで、怪物が侵入したりすれば
どうなるのか。
サーナット卿は、
もしかしたら、
自分とラティルの関係は、
最初から
ボタンをかけ違えたのではないかと
心配しました。
そうしているうちにサーナット卿は
ゲスターが近づいてくるのを
発見しました。
なぜか、ゲスターは
ハーレムの中なのに、
侍従を連れていませんでした。
彼は、サーナット卿に近づくと、
何か悩みでもあるようですね。
と親しそうに尋ねました。
サーナット卿は
大したことないと答えました。
するとゲスターは、親しみのある声で
皇帝への気持ちのせいですか?
と容赦ない質問をしました。
サーナット卿は、
ゲスターの言葉にびくっとして
彼を見ました。
ゲスターは陰険な上に、
ギルゴールとは違う意味で
何を考えているのか
分かりにくい人なので
忌まわしいと思いました。
そんなゲスターが
口元を手で隠したまま、
サーナット卿を上から下まで
見つめると、
彼はひどく不快になりました。
サーナット卿は、
答える必要がないと返事をし、
立ち去ろうとしましたが、
ゲスターは、
ちょっと待ってください。
と声をかけました。
サーナット卿は、
ゲスターの方を振り向きました。
彼は、
サーナット卿の気持ちが
落ち着かないなら、怪物を一匹、
捕まえて来てくれないかと
変な頼みごとをしました。
サーナット卿が
怪物?
と聞き返すと、ゲスターは
今回、ラナムンを襲撃しようとした
ダークリーチャーを
もう少し、詳しく調べるために、
必要な怪物の死体があると
説明しました。
偏見かも知れないけれど、
サーナット卿は、
ゲスターがその話をしながら
にっこり笑っているので
怪しいと思いました。
しかし、ゲスターは、
サーナット卿の心を読んだかのように
嫌なら、カルレインに頼むと
言いました。
サーナット卿は、しばらく悩んだ末に
それが皇帝の役に立つならばやると
返事をしました。
ゲスターは
お役に立てますよ。
と言うと、手を伸ばして
サーナット卿を引っ張り、
人通りのない所へ連れて行きました。
それから、ゲスターは
サーナット卿の腕の上に
自分の手を乗せながら、
怪物が出てくる付近に、
今すぐ、サーナット卿を送る。
サーナット卿は、怪物の中から、
後ろ姿は天使だけれど、
前から見ると、
中が空洞になっている怪物を
探せばいいと話しました。
サーナット卿は、
中が空洞になっているのかと
尋ねました。
ゲスターは、
種を除いたカボチャのように、
中が空洞になっていると答え、
意味深長に笑った瞬間、
サーナット卿の周囲は
廃墟と化しました。
ゲスターは、
サーナット卿が姿を消した場所を見て
口元を手で覆いながら、
笑みを浮かべました。
その怪物は、死ぬ瞬間に
自分の息の根を止めた人の愛を
奪って行く怪物でした。
サーナット卿が、
その怪物を退治すれば、
怪物は死ぬ前に、
サーナット卿の至高の愛を
奪うことになります。
サーナット卿は、
ラティルに必要な人なので
命を奪うことはできませんでした。
しかしゲスターは、
この理想的な恋敵が増えるのを
望んでいませんでした。
彼は微笑みを浮かべて、
その場を去りました。
騎士たるもの、身なりは、
きちんとしていなければ
ならないのに、
ラティルを誘惑して、
誓約式のことを思い出させるために
わざと破れた服を着て来るなんて、
きっとサーナット卿は
恥ずかしかったと思います。
しかし、その涙ぐましい努力も
無駄になり、
しかも、ゲスターの罠に
かかってしまうなんて!
きっと、タッシールなら
罠にかかることはなかったのにと
思いました。