86話 エルナはビョルンと一緒に博覧会を見学しています。
冷たい鉄の塊でいっぱいの
空間を抜け出すと、
あらゆる珍しくて美しいもので
満たされた風景が
繰り広げられました。
そこでエルナは
童話の主人公になりました。
遠い東方の砂漠、
名も知らぬ数多くの王国。
見慣れない植物と動物。
珍しい品々。
その異彩な世界を
自分の王子様と歩きました。
一緒に過ごした思い出が
あまりなかった残念な新婚旅行を
全て忘れさせてくれた
奇跡のような一日でした。
誰が何と言おうと、
エルナにとってはそうでした。
何だか魔法で空を飛べそうな
派手な絨毯を指さすと
ビョルンは笑いました。
象を見て驚いた時は
手をつないでくれました。
恍惚とした光が降り注ぐ
ステンドグラスの下では、
短くキスをしたりもしました。
視線を向けた先には
いつもビョルンがいるのが
好きで、
エルナはよく夫を見ました。
両目に映った彼の姿全てを
写真で残せたら良いのにと
願いました。
もし、それができたら、
初めて一緒に見た花火の夜のように
頭上でポンポンと、
休むことなく光と煙が
飛び交うだろうと思いました。
何がそんなに面白いの?
とビョルンに聞かれて初めて、
エルナは自分が
薄ら笑いを浮かべていることに
気づきました。
エルナは
その気持ちさえ、伝えるのが、
なんとなく照れくさくて、
何でもないと
適当にごまかしました。
ビョルンはくすくす笑い、
その瞬間エルナの心の中で、
もう一つの閃光がポンと
花火のように爆発しました。
その記憶が、
何日間も心を乱していた
おかしな考えを消してくれました。
エルナは、
この運命を愛することを
改めて決意し、
夫の腕を組んだ手に力を入れました。
エルナは、
いつか真心が届くように。
グレディス姫の影を
消すことはできないとしても、
その下にほんの少し、
微かな日差し一筋でも差し込む、
自分の場所を作ることができるように
もう少し
努力してみることにしました。
その決心のおかげか、
帰りのエルナの足取りは、最初より、
一段と軽快になっていました。
残念な気持ちで
後ろを振り返りましたが、
エルナは未練を残さず
博覧会場を後にしました。
一番遠くまで見物に行ったので、
シュベリン大公夫妻が
一番、最後になってしまいました。
自分たちを待つために
待機中の王室の馬車を見たエルナは、
焦って歩幅を広げました。
皆、退けと、近衛隊が
厳重に命令したにもかかわらず、
人々は、大公夫妻を見物するために
我先にと押し寄せて来ました。
最近、最も人気のある王族が
シュベリン大公妃であるというのは
嘘ではありませんでした。
エルナの顔色は
いつの間にか青ざめていました。
耳をひりひりさせる騒音と
果てしない人波のせいで
息が詰まりそうな気がしました。
いっそのこと、早く走って
馬車に乗りたかったけれど、
そんなことをしたら、
明日の朝、タブロイド紙の一面に
品位のない大公妃という
嘲弄の記事と共に、
また顔が乗ってしまうことになります。
だから、
気を引き締める必要がありました。
エルナは震える両足に力を入れながら、
しばらく止まっていた足を
再び動かし始めました。
馬車は、もう目の前でした。
あと、もう少し耐えれば・・・
と思いながら、歩幅を広げて、
また一歩踏み出した瞬間、
「エルナ!」と
ビョルンの甲高い叫び声が
響き渡りました。
その次の瞬間の記憶は
断片的にしか
残っていませんでした。
自分を包み込んだビョルンの懐。
人々の悲鳴。
慌ただしく動く近衛隊の気配。
そして、
グレディス王女の座を奪った
あの妖婦が
王室を台無しにしていると
悪意に満ちた叫び声が
そのすべての騒ぎを
圧倒していました。
エルナは、ぼんやりとした目で、
その声が聞こえてきた方向を
見ました。
近衛隊に捕まった一人の男が
悪態をついていました。
狂気と言えるほどの
憎悪に満ちた目でエルナを睨み、
絶え間なく、非難と呪いの言葉を
吐き出していました。
近づいて来た一人の侍従が
震える声で、
ビョルンに大丈夫かと尋ねました。
エルナは、その時になって
ビョルンの背中が
割れた卵で汚れていることに
気づきました。
すると、この全ての状況が
ようやく完全に理解できました。
あの妖婦は悪魔だ。
王室を滅ぼして
レチェンまで滅ぼす悪魔だと、
捕縛された襲撃犯は、
連行されながらも
エルナを罵倒するのを
やめませんでした。
ビョルンは、
めちゃくちゃになった
ジャケットを脱ぎ捨て、
彼の方に向き直りました。
エルナは慌てて
そんな夫を引き止めました。
冷えた両手が
ぶるぶる震え始めましたが、
エルナは力強く掴んだ
彼の腕を離しませんでした。
その間に、
二人の王子が駆けつけ、
ビョルンを取り囲みました。
レオニードはビョルンに
落ち着けと言いながら、
しっかり力を入れて
ビョルンの肩を掴みました。
ビョルンは「退け」と言いましたが
レオニードは、人目が多いと言って
目配せすると、
右往左往していたクリスティアンも
手を貸しました。
幸い襲撃犯は、
これ以上、目の届かないところまで
消えて去った後でした。
ゆっくりと閉じていた目を
開けたビョルンは、
笑い混じりの悪口を
吐き出しました。
その瞬間にも、彼の冷たい瞳は
犯人が消えて行った方向だけを
凝視していました。
二人の弟たちを
激しく押し退けたビョルンは、
「妃殿下!」と
背後から聞こえてきた
使用人の悲鳴に驚いて
そちらへ顔を向けました。
倒れるように
床に座り込んでしまったエルナが
首を絞められたように
息を切らしていました。
追いかけて始末してやると
決意した者のせいで、
妻の存在を忘れていたビョルンは、
急いでエルナを抱きしめました。
彼の胸の中でも、
エルナは魂が抜けたまま
ブルブル震えるばかりでした。
真っ青になった顔色が、
まるで生きている人のようでは
ないほどでした。
ビョルンは、
妻を力いっぱい抱きしめたまま
馬車で走り去りました。
ひそひそ話すだけで、
誰も、これ以上、王子の前に
立ちはだかることはできませんでした。
床に落ちている
大公妃の物を拾ったクリスティアンが
その場を去ろうとしていた
レオニードを捕まえて、
「兄さん、これ」と
差し出しました。
思わずそれを受け取った
レオニードの瞳が深く沈みました。
博覧会のパンフレットと記念ハガキ。
悪魔が残していったというには
あまりにも、みすぼらしい物でした。
キャサリン・オーエンは強張った顔で、
出版社の建物を出ました。
ひどく疲れ果てた顔をしていましたが、
両目は冷たい炎のような怒りを
失わずにいました。
彼女は、ラルスの首都にある
すべての出版社を訪ねましたが、
そのすべての出版社から
拒否されました。
ラルスの誇りだった天才詩人。
早世して一つの神話になった
ジェラルド・オーエンが残した
遺書のような原稿が、
冷遇されたことに、
キャサリンは呆れて、
無念の気持ちが笑いとなって
流れ出ました。
一時は、ジェラルド・オーエンの
落書き一行でも貰い受けようと、
あらゆる努力をしていた者たちが、
このように気を遣うのを見ると、
この原稿が持つ力は凄いようでした。
何とか怒りを治めた
キャサリン・オーエンは、
兄の遺書に他ならない原稿を
しっかりと抱きしめました。
これを見つけたのはこの春でした。
彼が自ら命を絶った後、
ずっと空いていた家を
今年に入って
整理することになりました。
息子の死を
受け入れることができなかった
母親が、ようやく諦めて
下した決定でした。
ラルスの芸術アカデミーは、
その家を詩人の生家として保存し、
記念館にしたいと思い、
遺族たちもその意向に同意しました。
ありがたいことだと思いました。
床板の下に隠されていた、
この原稿の束を見つけるまでは。
私を生かし、
また私を死なせたその名前。
私の愛であり、
かつ深淵であるグレディスへ。
蝋で固く封印されている
封筒を開けると、
現れた厚紙の束の一番前に、
力を込めて書かれた献詞が
入っていました。
原稿は詩の形式を借りた手紙で
満たされていました。
宛先は全て一人。彼が、
愛であり深淵と称した恋人、
グレディス・ハードフォードでした。
生前に残した、どの詩よりも
美しい言語で伝えた
残忍な真実を知った日、
キャサリンは決心しました。
この原稿を、
必ず兄の遺作として残し、
世界中に知らしめることを。
そして、その決心は
依然として変わりませんでした。
出版社は、
この都市だけにあるのでない。
もし他の都市でも断られたら、
キャサリンは、
喜んで海を渡るつもりでした。
まさか大陸のすべての出版業者が
ラルスの王室を恐れて
尻尾を下げることはないと
思いました。
帽子を深くかぶった
キャサリン·オーエンは、
断固たる意志を示す歩き方で
日差しがいっぱいの街を
歩き始めました。
彼女は、
愛のために死んだ男の遺言を
抱いたまま、その愛の墓の上で
煌びやかに輝いている名前に
向っていました。
主治医がシュべリン宮に到着した時、
すでに、大公妃は
安定を取り戻した様子をしていました。
大したことないと言う笑顔が
やつれて青白いことを除けば、
それほど心配するような
症状はありませんでした。
呼吸も安定していたし、
胃けいれんも落ち着いた後でした。
エリクソン先生が
下すことができる診断は、
軽い神経症、それだけでした。
笑えないことを
笑いで耐えている幼い大公妃が
心配でしたが、あえてそこまで
関与することはできませんでした。
主治医が退くと、リサは、
その狂人を
放っておくわけにはいかないと
抑えていた怒りを爆発させ、涙ぐみ
襲撃犯の頭が割れるまで、
自分も卵を投げると息巻きました。
しかし、エルナは、
自分は大丈夫。
ただの卵だし、
ぶつけられたのは自分ではないと
リサを宥めました。
彼女は、大公妃が、
そのような酷い目に遭わなくて、
とても幸いだった。
王子の後衛が立派だったと言いました。
しかし、エルナは、
「そうでしょうか。」と返事をすると、
エルナの唇の周りに
留まっていた疲れた笑みが消えました。
エルナは、
むしろ卵をぶつけられたのが
自分だったら良かったと思うと
言いました。
ビョルンを汚した腐った卵の染みを
思い出すと、自分の意志とは関係なく
目頭が赤くなりました。
襲撃者は精神を病んでいたと
エルナは聞きました。
グレディス王女を追い出して
子供の命を奪ったのは、
まさに今の大公妃であり、
その悪魔が、
王室を滅ぼすだろうという
妄想に捕らわれて
そんなことをしたという
荒唐無稽な犯罪でした。
だから、
心に留めておくことはないのだけれど
それが思うように
うまくいきませんでした。
ビョルンのことを思うと
なおさらでした。
泣きたくなくて、
ギュッと閉じていた目を
開けたエルナは、
ベッドから起き上がりました。
その瞬間、押し寄せた足の痛みで
体がふらふらしました。
幸い、素早く近づいてきたリサが
支えてくれたおかげで、
床に倒れるという見苦しい姿を
見せずに済みました。
気をつけなければならないと
注意したリサは、心が痛んで、
どうしていいか分からず、
包帯が巻かれた小さな足を見ました。
新しい靴を履いて出かけたエルナは、
傷だらけの足で戻って来ました。
ストッキングにも
血が滲み出るほどでしたが、
エルナ本人は、リサの悲鳴を聞いて、
ようやくその事実に
気づいたようでした。
こんな足で、一日中、
あの広い博覧会場を歩いていた
エルナのことを考えると、
リサはムカムカして来ました。
けれども、リサは、
夫に少しでもきれいに見せたい。
夫と一緒にいる時間が
ただただ良かったという
エルナの愚かな片思いを
知っていたので、
何も言えませんでした。
ところが、その最後に
狂人に奇襲されたことで、
好事家たちが、それについて、
また、どのように
騒ぎ立てるかと思うと、
リサの心はひっくり返りそうでした。
深呼吸で怒りを抑えたリサは、
足の不自由なエルナを支え、
窓際に置かれた椅子に
座らせてあげました。
エルナは、いつの間にか
笑顔を取り戻した顔で、
じっとリサを見つめました。
エルナはリサに、
必ず約束を守ってくれるよねと
確認しました。
リサは、本当に
腹が立っていましたが、
今回も素直に
頷くしかありませんでした。
エルナは怪我をした足を
主治医にも見せませんでした。
誰もこの事実を
知らないで欲しいと
エルナが言ったからでした。
それがエルナが守りたい
最小限の自尊心だということを
リサは、
ぼんやりと分かるようでした。
エルナは、
何事もなかったかのように
窓際に座って風に当たりました。
そして、まるで平凡な夜のように
再び、ベッドに戻ると、
横になりました。
リサが静かに退くと、
訪れた深い静寂の中で、
エルナはゆっくりと目を閉じました。
そしてしばらくすると、
ノックなしに、
寝室の扉が開く音が聞こえて来ました。
ビョルンでした。
エルナは足の痛みすら感じないくらい
ビョルンと一緒に過ごした時間が
楽しかったのだと思います。
それなのに、最後に
罵詈雑言を浴びせられ、
せっかくの楽しい時間を
台無しにされてしまったエルナが
可哀そうです。
せめてもの救いは、ビョルンが
身体を張って、
エルナを守ったことだと思いました。
愛する弟のために
グレディスへの反旗を翻した
キャサリン。
ラルスではダメでも
レチェンの出版社なら、
原稿を引き受けてくれそうな
気がします。