853話 ラティルは出産を終えましたが・・・
◇一人目とは違う◇
おかしなことが、
もう一つありました。
30分ほど経つと、先に入った乳母が
部屋の扉を開けて出て来ましたが、
彼女の表情も、
先程、宮医が見せた表情と
似ていました。
もう、皆、入ってもいいそうだと
乳母は優しい声で話し、
横に下がりましたが、その表情は
元気な赤ちゃんを見て
喜ぶ人らしくありませんでした。
側室たちは、互いに
チラチラ見つめ合いました。
不吉な予感がしました。
とりあえず入ろうと言って、
ラナムンが最初に
部屋の中に入りました。
他の側室たちも、
皆、彼について行きました。
部屋の中に入ると、
ベッドのヘッドボードの付近に置かれた
いくつの分厚い枕に寄りかかって
座っている皇帝の姿が見えました。
懐には、白い布に包まれた
小さなヤギのようなものが見えました。
側室たちは3、4歩歩いたところで、
宮医と乳母が、
なぜ曖昧な表情をしていたのか
気づきました。
赤ちゃんの後頭部に、赤毛が
可愛らしく生えていたからでした。
彼らは皇帝のそばに到達する前に
石のように固まってしまいました。
側室たちの頭の中に
「サーナット」という文字が
勝手に流れて行きました。
誰も、口を開くことが
できませんでした。
ラティルはそれを見て
恥ずかしそうに笑いました。
ラティルも赤ちゃんを見て
驚きましたが、
それでも五分五分の確率だったので
ある程度は、覚悟していました。
しかし、側室たちは、
実父候補が誰なのかも知らなかったため
ラティル以上に驚いたようでした。
ずっと、そこにいるつもりなのかと
ラティルが尋ねると、
ようやく側室たちは、
たじたじしながら、
ラティルのそばに近づきました。
ベッドの枕元の周囲を取り囲んだ後、
側室たちは、
赤ちゃんの顔をきちんと確認して
ため息をつきました。
憚るものがないメラディムが、
ロードは、
意外と血の力が弱いのだろうかと、
一番先に口を開くと、誰が見ても
サーナット卿の顔をしている赤ん坊を
指差して、げらげら笑いました。
メラディムは、
子供を産むたびに、
実の父親にそっくりなので、
子供の父親が見分けられると言うと
不思議そうに赤ん坊の顔を、
あちこち見ながら、
再び、ゲラゲラ笑いました。
しかし、側室たちは、
誰も返事をしませんでした。
後になると、メラディムさえ
雰囲気に押され、笑い声が、
途切れ途切れになるほどでした。
彼は周りを見回すと、
口をつぐみました。
ラティルは、
チラッとタッシールを見ました。
他の人たちは皆、
自分が実の父親ではないことを
知っていたので、
それでも良かったけれど、
タッシールは父親候補だったせいか
彼には、密かに申し訳ない気持ちが
起きました。
もちろん、自分が
父親を選んだわけではないれど。
タッシールは、
普段と変わらない笑みを
浮かべていたので、
さらに、彼の心の中が
よく分かりませんでした。
ラティルは、彼と目が合う直前に
素早く視線を下ろして、
胸に抱いている赤ちゃんを見ました。
サーナット卿に似た赤ちゃんは、
とても愛らしく
きれいな赤い髪をしていたので、
なんて可愛いのかと思いました。
その時、クラインが
「陛下」と呼んだので、ラティルは
赤ん坊の顔から目を逸らして
彼を見ました。
クラインは、
ラティルがタッシールを皇配にすると
発表した時より、さらに憤慨した表情で
サーナットも側室にするのかと
尋ねました。
普通、クラインが戯言を言うと、
側室の誰かが止めていましたが、
今日は、誰も止めませんでした。
「えーっと」とラティルが言葉を濁すと
クラインは、さらに大きな声で、
誰が見ても、サーナットの野郎の
子供ではないか。
奴は、よりによって近衛騎士なので、
いつも皇帝の後ろに立っている。
皇帝が赤ちゃんを抱いて、
奴が皇帝の後ろに立っていれば、
誰が見ても、3人が家族だと思うと
主張しました。
ラティルは、ぎこちなく笑いました。
彼女の頭の中にも、
クラインが説明する状況が
はっきりと浮び上がりました。
そして、ついにタッシールも、
自分も同感だ。
他の側室が子供を養育して、
実父に関して口を閉ざしても無駄だ。
子供自身も、実の父親が誰なのか
分かると思うと、口を開きました。
ラティルは再び頭を下げて、
サーナット卿にそっくりな
赤ちゃんをじっと見つめ、
赤ちゃんの額に自分の額を擦りました。
1番目の時とは全然違い、
この子は、
とても可愛いと思いました。
あの子は、気がついた時には
生まれている途中だったし、
顔を見たら、額に
アニャドミスの模様がありました。
かなり遅れましたが、
ザイシンが気を引き締めて
お祝いの言葉をかけてくれました。
他の側室たちも、その時になって、
一人二人と、
お祝いの言葉を述べました。
しかし、ラナムンは
そうすることができませんでした。
皇帝が、愛にあふれた目で
赤ちゃんを見下ろす姿を見て、
ラナムンは心臓がドキドキしました。
むしろ、二人目が
皇子だったらよかったのにと
ラナムンは拳を握りしめて
考えました。
以前にも、一度や二度は、
漠然と、このような心配が
浮び上がってはいましたが、
実際に皇帝が、二人目を
あのように扱う姿を見ると、
現実的な恐怖が押し寄せて来ました。
◇最後のピース◇
側室たちが皇帝に会いに
部屋の中に入ったその時、
サーナット卿は、まだ扉の前に立ち、
閉まった扉だけを見つめていました。
扉を守って立っていた近衛兵たちは、
できるだけ、サーナット卿の方を
見ないように努めました。
そうしているうちに扉が開き、
侍女たちが、
ぞろぞろと外に出て来ました。
彼女たちより先に入った側室たちは
出て来ませんでした。
ところが、侍女たちの反応も
乳母や宮医のように変で、
彼女たちは、互いに
ひそひそ話しながら出て来ました。
それからサーナット卿を見ると
唇に力を入れて、
互いに顔を見合わせました。
何人かは我慢できずに
笑いを噴き出そうとしましたが
急いで手で口を塞ぎました。
彼女たちは、
互いにわき腹と腕を突き合いながら
廊下を通り過ぎました。
サーナット卿は
訳が分かりませんでした。
侍女たちの足音が消えた直後、
再び、扉が開きました。
今回出て来たのは側室たちでした。
ところが、彼らの反応はもっと変で、
魂が半分抜けた人々のように
出て来たかと思うと、
サーナット卿を見て、
ぞっとするような目をしました。
どうしたのだろうかと
サーナット卿は不思議に思いましたが
最も慈しみ深いザイシンまで
サーナット卿を
横目で睨んでいる様子でした。
サーナット卿は当惑しながら、
その視線を受けましたが、
突然、ひょっとして子供が・・・と、
一つの可能性を思い浮かべました。
しかし、扉の向こうから聞こえて来た
自分を呼ぶ乳母の声が
彼の考えを遮りました。
サーナット卿は、そちらへ体を向けると
乳母は、
皇帝が中に入るように言っていると
彼に伝えました。
側室たちは、彼を放って
廊下を歩いて行きました。
サーナット卿は、身なりを整えて
部屋の中に入りました。
彼は、ベッドの中央に横たわっている
皇帝を、じっと見つめました。
皇帝は、赤毛の赤ちゃんを抱いて
彼を見つめていました。
彼はそこに一歩一歩近づきました。
足が震えるのが感じられました。
サーナット卿は彼女のそばへ行き、
「お呼びですか?」と尋ねると、
皇帝は、抱いていた赤ちゃんを
彼に差し出しました。
サーナット卿は、
思わず赤ちゃんを抱きしめました。
彼は赤ちゃんを見るや否や、
自分の予感が当たったことに
気づきました。
赤ちゃんは、彼と皇帝を
混ぜた姿をしていました。
生まれてから今まで、彼が見た
すべての赤ちゃんの中で
一番愛らしくて一番美しいと
思いました。
サーナット卿は、
世界で最も大切な宝石を
抱き締めるかのように、
赤ちゃんを抱きました。
サーナット卿は、
皇帝に似ていると言いました。
ずっと静かにしていた赤ちゃんは、
自分の父親に気付いたのか、
笑うような声を出しました。
本当に笑ったかどうかは
分かりませんでしたが、
サーナット卿には、そう見えました。
ラティルは、
サーナット卿の言葉に、あれっと思い
自分に似ているところがあるのかと
尋ねました。
サーナット卿は、
当然のように頷くと、 自分は
幼い頃の皇帝に
会っているので分かる。
その時の皇帝は、
こんな感じだったと答えました。
そのせいで、サーナット卿は、
さらに、この赤ちゃんが
愛らしいと思いました。
この奇跡のような子供は、
彼が愛した女性の幼い頃を
そのまま映し出していました。
「こんにちは」とサーナット卿が
赤ちゃんに囁くのを見て、
ラティルは手を伸ばして
ベッドサイドの机の引き出しを
開けました。
自分がやると、
サーナット卿は慌てて言いましたが、
ラティルは首を横に振り、
体は今すぐ走り回れるくらいだと
話しました。
その言葉に、
サーナット卿が驚いていると
ラティルは、
宮医が気絶しそうになった。
半分だけだけれど、
覚醒したおかげだろうと話しました。
それから、ラティルは、
サーナット卿に渡すために用意した
小さな箱を、
引き出しから取り出しました。
サーナット卿は、
赤ちゃんを抱いているので、
箱を受け取ることができないと思い
ラティルは、自分で箱の蓋を開けて
中身を見せました。
サーナット卿は、
目を大きく見開きました。
箱の中には、
彼の礼服の飾りで作った
指輪が入っていました。
ラティルは指輪を箱から取り出し、
彼の指にはめながら、
今度、燃やしたら、
もう本当に終わりだと警告しました。
そして、
パズルのピースは返して欲しい。
どこに隠したのか、
探しても見つからないと、
文句を言いました。
ぼんやりと指輪を見ていた
サーナット卿は、
笑いながら首を横に振ると、
自分が、ずっと持っているつもりだ。
いつも、自分が、
皇帝の最後のピースだということを
見る度に思い出すからと
返事をしました。
◇ラナムンの心配◇
皇帝の二番目の赤ちゃんは
健康な皇女で、赤ちゃんの実父は
近衛騎士であるサーナット卿だ。
ラティルが
箝口令を敷かなかったので、
この話は、あっという間に
宮殿中に広がりました。
人々は、
近衛騎士のサーナット卿は
皇帝の恋人だという
一時、広まっていた噂を
思い出しました。
その噂が本当だったことを
改めて知った人々は、
その話をしながら、
好奇心をそそられたり、
面白がったりし、
また、やはり皇帝は好色なので、
今後、さらに多くの側室を
迎えるだろうと
評価する人もいました。
その噂を嫌がったアトラクシー公爵は
話を聞くや否や、
ラナムンを訪ねました。
ちょうど彼は、
プレラ皇女を胸に抱いて
寝かせていました。
アトラクシー公爵は、
ラナムンと同じくらい
愛らしい皇女を見下ろし、
息子の肩を叩きながら、
心配しないように。
ラナムンの方がサーナットの野郎より
何倍もハンサムだ。
うちのお姫様は
ラナムンに似ているけれど、
奴の子は奴に似ているそうだから、
当然、うちのお姫様の方が
奴の娘より何倍も美人だと思うと言って
慰めました。
ラナムンは、
それは当然だけれど、
皇帝は、ハンサムな順に
寵愛しているのではないだろうと
断固として反論しました。
アトラクシー公爵は
沈鬱そうに頷きました。
彼の言う通りでした。
ハンサムな順で寵愛していたなら
皇帝はラナムンを
最も大事にしていたと思いました。
アトラクシー公爵は、
タッシールが皇配になったのは
皇帝が一番寵愛したからではなく
一番頭がいいからだ。
だから、落ち込むことは一つもないと
ラナムンを慰めましたが、彼は、
今、自分の頭が彼よりも悪いと
言ったのかと抗議しました。
しかし、アトラクシー公爵は、
恥知らずにも、ラナムンは
どこまで、自分に、
えこひいきさせるつもりなのかと
非難しました。
ラナムンは、この部分については
どうしても反論できませんでした。
ラナムンは、
プレラを見下ろしていましたが、
もしも、皇帝が子供たちを
差別したらどうするのかと
心配になって、尋ねました。
アトラクシー公爵は、
そうすればいい。
自分も差別するからと答えました。
ラナムンは、
そんなことをして効果があるのか。
二番目の皇女の後ろには
サーナットの野郎の家門が
付いていると反論すると、
アトラクシー公爵は、
奴の家門が、いくらすごいとしても
アトラクシー家とは
比べものにならないと
大声を張り上げました。
そして、プレラの黒い髪を
大切に撫でながら
自分を信じろ。
絶対にうちのお姫様が
気圧されることはないだろうと
念を押しました。
◇ヘイレンの心配◇
その時刻。
ゲスターは不快な気分を
和らげるために、
怪物狩りの準備しました。
様々な戦いで、黒魔術の材料を
たくさん使ったので、
新たに準備しておくつもりでした。
しかし、出発直前。
どうやって
怪物狩りに行くのを知ったのか、
カルレインが武器を持って
部屋を訪ねて来て、
一緒に行くと言いました。
ゲスターは拒否しませんでした。
一方、ザイシンは祈りながら、
動揺した気持ちを落ち着かせようと
努力しました。
その時刻、タッシールは、
サーナット卿は
側室に入ってくるだろうか。
もし皇帝が皇配の席を
もう一度選び直すと言ったら
どうしようかと、
ヘイレンが焦りながら
心配するのを聞いていました。
タッシールは、
そんなことはないと思いましたが、
ヘイレンは、心配するのを
簡単にはやめられませんでした。
その時、誰かが扉を叩きました。
皇帝に遣わされて来たと聞いた
ヘイレンは、小さな悲鳴を上げ、
扉を開けました。
扉の前には、
身なりを整えた秘書が
礼儀正しく立っていました。
タッシールはペンを置いて
立ち上がり、
どうしたのかと尋ねました。
言ってみたところで
仕方がありませんが、
タッシールの子だったら
良かったのにと
何度も何度も思ってしまいました。
正直、ラティルとサーナット卿と
二番目の子が、
仲良さそうにしている姿を
あまり見たくありません。
でも、タッシールの子だったとしても
ラティルが二番目の子の方を
可愛く思うでしょうから、
ラナムンのやるせない気持ちは
変わらないのでしょう。
今回は、本当にラナムンが
可愛そうになりました。
ところで、吸血鬼の子供は
吸血鬼になるのか分かりませんが
二番目の子供は、
ロードの騎士の子供なので、
シピサと似たような立場。
そして、母親のラティルはロードで、
姉のプレラは対抗者。
アリタルとセルとシピサの関係を
再現するような家族が
でき上がりました。
ラティルは、呪いが終わったと
思っているけれど
いまだにラナムンと戦っても
彼には勝てないのだから
まだ、呪いは
終わっていないと思います。
アリタルの呪いを解く機会は
ラティルに与えられているので
プレラが二番目を殺めないように、
そして、ラティルとプレラの間で
争いが起きないように、
今後、いかにラティルが振舞うのかが
重要なカギを握っていると思います。
不快な気持ちを晴らすために
復讐をするのではなく、
怪物退治に行くなんて、
少しだけゲスターは成長したかな?