326話 相変わらずソビエシュは、ナビエの面影を求めています。
◇西宮で◇
廊下の窓から風が入り、
寒気を感じたソビエシュは
襟を立てて、廊下を歩き続けました。
代々皇后が使っていた
部屋の扉を開けると、
侍女たちが同時に挨拶をしていた声が
聞こえるような気がしました。
彼女たちが華やかな服を着て
楽しそうに話をしていた
赤いベルベットの椅子の上は
がらんとしていました。
ソビエシュは応接間の奥にある
扉に近づき、取っ手を掴みました。
しばらくためらった後、
彼は力を入れて取っ手を回しました。
扉の向こうに、金箔に縁どられた
華やかで広い空間が現れました。
ソビエシュは、
日の当たらない場所にかけてある
大きな額縁の前へ
慣れた足取りで進みました。
壁の5分の1を埋めている巨大な肖像画は
この部屋の中で唯一の家具でした。
ソビエシュは肖像画の前に立ち、
「来たよ。」と
いつものように挨拶しました。
相変わらず返事は
返ってきませんでした。
ソビエシュは、
絵の中のナビエを見つめ、
もう一度、「来たよ、ナビエ」と
呟きました。
今回も返事はありませんでした。
しかし、
この状況には慣れているので、
彼は絶望する代わりに、
その日、起こった出来事を
静かな声で聞かせ始めました。
カルル侯爵が、
大事に伸ばしていた髭を
彼の大切な孫が切ってしまった。
カルル侯爵は怒ることもできず、
拗ねている姿を
あなたも見るべきだった。
のんびり続いていた
その日のささやかな日常の話は、
扉の向こうで人の気配を感じると
途切れました。
ソビエシュが扉を開けると
白い髭が短くなったカルル侯爵が
帽子を抱えて立っていました。
どうしたのかと尋ねるソビエシュに、
カルル侯爵は、
ちらりとナビエの肖像画を見ながら
夕食の時間であることを告げました。
ソビエシュは懐中時計を取り出し、
時間を確認しました。
少し前に来たばかりだと思ったのに、
4時間があっという間に
過ぎていました。
ソビエシュは、
夕食に行くことにしました。
ソビエシュは懐中時計を
胸のポケットに入れました。
それは、魔法学園の前学長が
ソビエシュに遺品として
残したもので、彼は、
ずっと、それを持ち歩いていました。
彼とは、結構縁が深かったので、
年を取ると、
一つ一つの縁を大切にしていました。
◇過去に戻りたい◇
カルル侯爵は、おしゃべりをしながら
ソビエシュの寝室まで
付いて行きました。
寝室のテーブルの上には、
5、6枚の銀器が
大きな蓋で覆われていました。
ソビエシュがテーブルの前に座ると、
カルル侯爵も向かい側に座りました。
2人は笑いながら
会話をしましたが、
ソビエシュの瞳に宿った暗い影は
なかなか消えませんでした。
カルル侯爵は、
これに気づかないふりをして
食事をしていましたが、
食事が終わる頃になると、
少し酔いが回って来たので、
思わず、彼は、
西宮へはもう行かない方が
いいのではないかと勧めました。
ソビエシュの口元に
苦い笑みが浮かびました。
ソビエシュは、最近、カルル侯爵は、
その話を全然しなかったと言うと
彼は謝りました。
ソビエシュは、もうその話は
しないで欲しいと頼むと、
カルル侯爵は、
努力して変えることができるなら、
ソビエシュが1日中、西宮にいても
止めないけれど、
過去は変えられないので
未練を断ち切らなければならない。
もう良いことばかり見て
良い事だけを考えて
過ごさなければならない年なのに、
冷たい西宮に、
1日に3、4時間も1人でいると言って
彼を心配しました。
ソビエシュは、
ワインの瓶をもう 1 本開け、
グラスに少し注ぎながら
一番ナビエと仲が良かった
皇太子の時代に戻りたいとたまに思う。
いや、2人とも知識が乏しくて、
互いに相手を頼りにした
即位当初の時でもいい。
いや、ラスタを助ける直前に
戻ってもいい。
ラスタを救った後でもいいので
戻りたい。
そうしているうちに、
離婚直前でもいいから戻りたい。
ナビエが自分の妻だった
最後の日でもいいから戻りたいと
絶望的に考えると話しました。
カルル侯爵は
悲しい目でソビエシュの訴えを聞いて
大笑いしました。
離婚寸前なら、
戻っても大変ではないかと言うと、
ソビエシュも同意して
笑いましたが、
ナビエを取り戻すことができれば、
大変でもいいと言いました。
カルル侯爵は、
その時代に戻れるなら、
ソビエシュは、どんな苦労でも
喜んで迎えられそうだと指摘し、
自分のグラスを持ち上げて、
ソビエシュのワイングラスに
軽くぶつけながら笑いました。
カルル侯爵は、
もしそんなことが起こったら、
今度は絶対ナビエ様を離さないでと
頼みました。
ソビエシュは
もう何杯か飲みたかったものの、
長い時間が経ったにもかかわらず、
ソビエシュが酒を飲んで
窓の外に落ちたことを
忘れられないカルル侯爵は、
徹底的に反対しました。
皇帝は、酒に酔うと
幻想をよく見るので、
今日はこれくらいにして、
明日か明後日くらいにまた飲もうと、
カルル侯爵は勧めました。
ソビエシュは
酔っぱらっていませんでしたが、
カルル侯爵が強く反対すると、
彼は両手を上げて降伏し、
分かったので小言はやめて欲しいと
頼みました。
カルル侯爵は、
使用人にテーブルの上を
片付けさせると、
ソビエシュは素早く風呂に入り
ベッドに横になりました。
そして、
天蓋の半透明のカーテン越しに
ナビエが自分を呼ぶ姿を想像しながら
ゆっくりと目を閉じました。
◇離婚法廷◇
どのくらい眠っていたのか、
目覚めたソビエシュは、
幻影を見ていると思いました。
目の前に
ナビエが立っていたからでした。
彼女が西宮で過ごす時、
よく着ていたスタイルのドレス姿で、
髪の毛をきちんと編み上げたナビエは
唇をぎゅっと閉じて立っていました。
彼女が機嫌が良くない時の顔でした。
これ程までに現実劇な
ナビエの幻影に、
ソビエシュは心臓がドキドキしました。
彼女が氷のような視線で
自分を見つめていなかったら、
ソビエシュは
「ナビエ!」と叫びながら
彼女に両腕を差し出していたかも
しれませんでした。
夢にまで見たナビエの表情は
とても冷たいものでした。
一体、ここはどこなのか。
ソビエシュは不思議に思って
横を見ると、大神官が怒った表情で
中央の壇上に立っているので
心臓がドキドキしました。
ソビエシュは慌てて後ろを振り向くと
優雅で華やかな
白いドレスを着たラスタが、
清楚な姿で立っていました。
ラスタは緊張しているのか
唇を噛んでは止めるのを繰り返し、
ソビエシュと目が合うと、
少し恥ずかしそうに
顔を赤くして笑いました。
ソビエシュに向かって悪口を吐いた
最後のラスタの姿とは大違いでした。
ソビエシュは顔を別の方へ向け、
彼らから距離を置いて
立っている人々を見ました。
ナビエの側近たちは
一様に表情が暗く、
怒りに満ちていました。
パルアン侯爵は、
今にもこちらに飛び出して来そうな
様子でした。
ナビエの両親は
目元に涙を浮かべていました。
彼の側近たちも
表情が良くないのは同じでした。
ここでワクワクしているのは
ラスタだけでした。
ソビエシュは、自分の周囲や天井や床、
ナビエと大神官、
ラスタを交互に見て
首を横に振りました。
今が離婚当日であることは
難なく分かりました。
この場に立っていたり、
見物人の間に立っていたり、
幽霊のように誰も彼を
見ることができないのに、
一人で走り回ったりと、
彼は何百回もこのシーンを
悪夢として繰り返し見たからでした。
しかし、どんな夢も
これほど現実的では
ありませんでした。
どんなにリアルな夢でも
特有の美しい感じがするものなのに、
ここの雰囲気は、
実際に離婚したあの日のように
刺々して、重苦しくて陰鬱でした。
その時、カチッと彼の心臓付近で
時計の秒針のような音が
聞こえてきました。
ソビエシュは
上着の内側に手を入れ
懐中時計を取り出すと、
その時計が、魔法学園の前学長から
遺品として受け取った物であることに
気づきました。
彼が「現実」で持ち歩いている
その時計が、彼の過去の夢の中にある。
しかも秒針の音は
ずっと、かすかに聞こえて来るのに
時計の針は少しも動かずに
止まっていました。
ソビエシュは、
これは一体どういうことなのかと
不思議に思っていると、
ナビエの視線を感じたので、
時計を懐に戻しました。
毅然として、
唇をぎゅっと閉じていたナビエの目に
失望と軽蔑の感情が宿っていました 。
彼が時計を取り出したことで、
早く離婚を終わらせたがっていると
誤解したようでした。
現実のはずがないのに、
ナビエのあの冷たい反応や
この雰囲気、この空気は、
すべてが現実のようでした。
混乱に陥ったソビエシュの耳元に
ナビエ皇后は本当に、
何の異議もなしに、
離婚に同意されるのか。
と、厳粛で重々しい大神官の声が
聞こえて来ました。
ソビエシュは、それを聞くや否や
再び心臓がドキドキしました。
大神官のあの言葉は
2つ目の質問でした。
すでに、一度、
ナビエが離婚に同意するという言葉を
聞いた後、大神官は、
ナビエが離婚を
受け入れないことを願い、
再度、尋ねた質問でした。
それに答えようと、
ナビエが口を開いた瞬間、
ソビエシュは急いで、
「同意しません」と叫びました。
これが現実であれ現実的な夢であれ、
ソビエシュはこの離婚を
繰り返すことはできませんでした。
離婚を防ぐのは
彼がいつも夢見ていたことだったので、
これが夢だとしても、
答えは決まっていました。
ソビエシュの突拍子もない返事に
大臣官は眉をつり上げて彼を見つめ、
当惑した声で、
今、自分はナビエ皇后に聞いていると
言いました。
ソビエシュは、
知っていると返事をしました。
そして大神官が、再びナビエに
離婚の話を持ち出すことを恐れ、
「しかし、自分は同意しない」と
繰り返しました。
会場全体がざわめき始めました。
集まった人々が目を丸くして
ソビエシュを見つめました。
離婚法廷の場にも屈せず
堅固な姿で
この状況に耐えていたナビエさえ
少し驚いた表情でした。
ソビエシュはナビエが離婚を承認し
再婚を求めた後、
サプライズ登場するために
待機中の人物を睨みました。
大神官は、しばらく考えた後、
ソビエシュ皇帝は
自ら申請した離婚に、
自分が反対するということかと
尋ねました。
ソビエシュは、
自分は皇后と離婚できない。
この離婚に同意できないと答え、
大神官の前に近づくと、
まだ彼が離婚を承認していないので、
自分たちの離婚は
成立していないのではないかと
尋ねました。
西宮に4時間以上いても
業務に差し支えがなく、
カルル侯爵に孫がいて、
彼が、良い事だけを考える年だと
言っていることから、
ソビエシュが
ラリに皇位を譲って以来、
何年も経っているのではないかと
思います。
それでもなお、
ナビエを恋しがり、
肖像画に話しかけるソビエシュ。
本当に浅はかで愚かなことを
したと思います。