105話 エルナは、ビョルンが自分と結婚した理由と、自分が賭けの対象であったことを知っていると、淡々と打ち明けました。
ビョルンは何の返事もすることなく
エルナを見つめてばかりいました。
エルナは、
冷たくなった両手を合わせて
揺れる心を落ち着かせました。
彼女は、
喜んで父親を捨てると、
何度でも言いたい気分でした。
エルナは、
自分と手をつないで
バージンロードを歩いて欲しいと
ビョルンに頼んだあの日、
すでに心の中で
父親を捨てていました。
そんな父の娘であることと
ビョルンの妻の座を
どちらを取るか、
悩む価値のない選択肢だからこそ
エルナはビョルンの質問に
気軽に答えられませんでした。
厚かましいと分かっていても、
知らないふりをしてまで
手に入れたい切実なものでした。
エルナは、
ボートレースの夜に開かれたお祭りで
自分と一緒に船遊びをする人が
賭け金を手に入れる賭けだったことと
自分はその賭けのトロフィーであり、
それでビョルンが自分を誘惑し
最終的に勝利したことを知っている。
けれども、自分は、ビョルンが、
ただそのような賭けのために
トロフィーと
結婚するはずのない男であることも
知っていると辛うじて話すと、
しばらく言葉を止めて、
息を整えました。
喉が詰まりそうでしたが、
幸い涙は流れませんでした。
続けて、エルナは、
自分のためというよりも、
これ以上、ビョルンが
グレディス姫と結び付けられて
人々の口の端に
上りたくなかったからではないか。
ちょうど盾にするのに適切な自分が
ビョルンのトロフィーになったので
結婚を決心した。
何かと不十分な自分が
ビョルンにあげられる確かな利益は
それだけだったからと話しました。
ぎこちない笑みを浮かべる
エルナの唇の先がぶるぶる震えました。
自分は、なんて馬鹿みたいな顔に
見えるだろうかと思うと、
エルナは、あまりにも恥ずかしくて
悲しかったけれども、
笑って涙をこらえられそうでした。
泣いたらビョルンが怒るはずなので
何とか勇気を出して話し始めたことを
そんな風に
終わらせたくありませんでした。
エルナが感情を落ち着かせようと
努力している間、
沈黙を守っていたビョルンは
「それで?」と口を開きました。
そっと首を傾けてエルナを見る姿は、
あまりにも穏やかで、
退屈そうに見えるほどでした。
この男にとって、それは
秘密にもならないことだったという
事実に気づくと、エルナは
底なしの惨めな気分になりました。
よりによって、
その時に始まったつわりが
エルナをより一層惨めにしました。
もし妊娠していなくても、
ビョルンは
同じ選択をしたのだろうか?
エルナは深く頭を下げて
数字を数えながら何度も考えました。
子供も母親を気の毒に思ったのか、
つわりはすぐに治まりました。
この状況で吐き気を催すような醜態まで
見せないようにしてくれた子供に
感謝するように、エルナは、
じっと下腹を包み込みました。
まだお腹は出てきていないけれど
少しずつ変化が表れていました。
このように
子供がよく育ってくれていて、
嬉しい瞬間ごとに、エルナの心には
間違いなく影が差していました。
ひょっとしたら、
この子を口実にして、
ビョルンの妻の座を守ることができて
ほっとしているのではないか。
人々が言うように、
妊娠で夫の足を引っ張った妻に
転落したのならどうすればいいのか。
そうではないと断言できない自分が
憎たらしく、
子供にとっても、ビョルンにとっても、
罪深いことでした。
エルナは目元を拭うと
そんな理由でビョルンが、
自分を妻に選んだのなら、
今の自分はビョルンに
何の利益もあげられない
赤字の塊のようだ。
ビョルンは自分のせいで
大きな損害を被り、
こんな汚いことに巻き込まれ、
世界中の非難を浴びている。
ビョルンの人生は、
むしろ前より、もっと複雑で
騒がしくなったと言いました。
その言葉に
緩く腕を組んでいたビョルンは
眉を顰めました。
エルナは泣いてはダメだと
自分を慰めながら、
本当にそうなら、これ以上、
恥知らずにビョルンの愛を求めて
この席を欲しないと
急いで言いました。
ビョルンが「え?」と聞き返すと、
エルナは、ビョルンが望むなら
離婚を受け入れると告げました。
エルナは、
さらに切迫した気持ちで
「泣いてはダメ」と呪文を唱えました。
しかし、目頭はすでに熱く、
呼吸は不規則になっていました。
「離婚」という言葉を
呟いていたビョルンは
口元を上げて笑いました。
その瞬間にも
エルナを見る視線は
依然として冷たく硬いものでした。
エルナは、
ビョルンの率直な気持ちを
話してほしい。
そうすれば自分も答えると
言いました。
ビョルンを見つめるエルナの両目が
涙をいっぱい含んだまま輝きました。
憎らしいほど美しい
その水色の瞳を凝視する
ビョルンの顔の上に
奇妙な感情が漂いました。
時には、あまりにも純真だったり
あまりにも怪しくて邪悪で
みだりがわしい妻が
彼を笑わせました。
これは、本当に不埒な企みだと
思ってもいいのだろうか。
自分の子供を妊娠した体で
こんなことを言う女性の真意が
よく理解できませんでした。
一度、はったりでも、
かまそうとしているのか。
それならあまり良い選択ではない。
自分は、
不利な手札を持った相手が口にする
でたらめな話に乗ったことがないと
思いました。
ビョルンはエルナに
何が聞きたいのか。
自分からの謝罪なのか。
それとも、愛の告白なのかと
尋ねました。
エルナはどうしていいか分からず、
おどおどしました。
その姿が、ある日、突然、
彼の人生の中に飛び込み、
去年の夏、最高の遊び道具だった
あの鹿のように無垢で可憐でした。
エルナは、
離婚という言葉を繰り返すと
ビョルンの目は、
ますます深く沈んでいきました。
彼女の父がしでかしたことを
収拾しようと奔走している間、
この女性が、
そんなことを考えていたという事実が
滑稽でありながらも腹が立ちました。
すべてを知っているという事実を
前面に出して、離婚云々言えば、
跪いてくれるとでも思っているのか。
たかが賭けくらいで
一体何なのかと思いました。
どこかに消えたエルナが、
めちゃくちゃになった姿で
戻って来た、
あのピクニックの日。
別の女になったような
その突然の変化を、ビョルンは
今になって理解できました。
どこかで耳にしたその言葉に
驚いて逃げ出した後、
パーベルと出会い、そして・・
その画家と一緒に帰って来た
エルナの姿が生々しく浮び上がると
ビョルンは、突然、喉が渇きました。
友達だと、
話にもならないことを言う仲だから
夫が自分を
賭場のトロフィー扱いしたと、
根掘り葉掘り全てを打ち明け
あの画家の胸に抱かれ、
あの綺麗な目に涙でも浮かべた。
すると、あいつは、
そんな夫とは別れろ。
自分で自分の責任を負えと言って、
もう一度夜逃げを
約束したのだろうかと邪推しました。
ビョルンは、
そんな賭けをしたとはいえ、
その賭けのせいで
エルナは被害を被ったのか。
自分がいなかったら、
いずれ棺桶に入る老人や
ハインツのような再生不可のゴミに
売られたはずだから、
むしろ、その賭けは
エルナにとって
幸運ではなかったのかと言うと
笑いの込もった目で
エルナと視線を合わせました。
そして、思い出したように
賭けのトロフィーになったせいで、
パーベルの手を握って逃げられなくて
残念だったのかと尋ねました。
エルナは、そんなことはないと
悲鳴でも上げるように
叫びながら首を横に振ると、
自分とパーベルは友達で、
そのような仲ではないので、
そんなことは言わないでと
頼みました。
ビョルンは、
自分とエルナも友達だろうねと
皮肉を言うと、エルナに
卑劣になるな。
それほど気が利かないのは
罪だということを知っているかと
尋ねました。
エルナは、
「ビョルン、どうか・・・」と
懇願しましたが、彼は、
頭を撃たれた狂人でも、
自分の未来をかけて
女と夜逃げをしたりしない。
嘱望されるアカデミーの画家から
路上で肖像画を描く身に
転落する危険まで甘受した男が、
どうして友達なのかと、
エルナを問い詰めました。
自己嫌悪が加わると、
ビョルンの偽悪は、
より一層激しくなりました。
止めなければならないと
分かっていても、
これ以上、抑えきれないほど
激情が大きくなっていました。
一体なぜなのか。
数えきれないほど
自問を繰り返しても
答えを見つけることができないので
ビョルンは、
さらに苛立たしくなりました。
このように、理性と統制力を
喪失した感情に包まれて暴れる自分が
見慣れなくて恐怖を感じました。
自分の手札を隠すことができないのに
相手の手札が読めない状態は
必然的に凄惨な敗北を
もたらすものだけれど、
少なくとも、ビョルンには
一度も起きたことのないことでした。
ビョルンは、
自分のことを考えて
涙ぐましい離婚をしてくれるなら
その子はどうするのかと尋ねながら
エルナのお腹を冷たい目で見ました。
パジャマの袖で
真っ赤になった目を拭いたエルナは、
その視線を隠すかのように
両腕でお腹を包み込み、
子供は自分が育てると答えました。
ふざけているのかと非難して
そら笑いをするビョルンの目が
細くなりました。
彼は、エルナが望むなら
いくらでも離婚をするけれど、
代わりに、
その子は置いていくように。
そしてここを出た瞬間、
エルナは二度と子供に会えないけれど
そうする自信はあるかと尋ねました。
「でも昔は・・・」と
エルナは反論しようとしましたが
ビクッとして唇を嚙みました。
あの忌まわしい
グレディス・ハードフォートの話を
したいようでした。
妊娠した妻を放って浮気をし、
結局、自分の子供まで捨てた
破廉恥なレチェンの蕩児。
ビョルン自ら計画して作り出し、
永遠に背負って生きていくことを
決意した堅固な偽りを
エルナも、彼女が産む子供も
それを真実だと思って生きていく。
それが当然なのに、
結局その嘘のまま
自分を見ているこの女の目が嫌でした。
その事実に、
こんな気持ちを感じる自分が
耐えられなくて笑ったりもしました。
ビョルンは、
グレディスのことを言っているなら、
彼女には子供をあげたと言って
笑いました。
そして、
彼女はお姫様なので、
人里離れた田舎に住む
エルナと同じではない。
あの女性は、絶対に自分の子供を
捨てられないと、
本能的に悟ったその事実が、
ビョルンを、
さらに執拗で残忍にさせました。
ビョルンは、
自分の子供を、あんな田舎で
育てさせるようなことは
絶対にない。
だから、エルナは、
自分が産んだ子供を
二度と見ない自信があるなら、
離婚を要求しろ。分かったかと
静かに警告しました。
とても不安を感じているこの女性が
安心できるように、
宥めるつもりで話し始めたのに、
離婚の一言で
全てが台無しになりました。
しかし、ビョルンは
後悔していませんでした。
少なくとも、今後エルナは
絶対にそのように
考えることができないと
思ったからでした。
どうせ元に戻せないなら、
この際、
はっきりさせておいた方がいいと
考えたビョルンは、
無表情でエルナに向き合うと、
自分がエルナと結婚したのは、
エルナが次々と作っている
あの造花のように
エルナが静かに、無害で美しく、
自分の生活に逆らわない範囲で
自分を楽しませてくれる女だからと
言いました。
その一方で、妻の指先から咲く
枯れないきれいな花を思い浮かべると
ビョルンの怒りが
次第に収まり始めました。
そして、エルナもそうするだろうと
ビョルンは信じていたし。
エルナは、
そうしなければなりませんでした。
ただ、その一つの効用のために
彼女を選択し、
この莫大な損失を甘受しながら
掴んでいる女性でした。
ビョルンは、
他のことは考えずに、
エルナの地位を守り、
その子を立派に産むことが
エルナの義務だと言いました。
それから、ビョルンは
ゆっくりと立ち上がると、
エルナが答える番だと言いました。
彼は大きな手で、
ビョルンの視線を避ける
エルナの顔を包み込みました。
絶え間なく流れる涙が
彼の手をびっしょり濡らしました。
道に迷った子供のような、
神経を鋭く掻きむしるような目で
彼を見つめていたエルナは、
涙を飲み込みながら頷き、
悲しいすすり泣きが混じった声で
「はい」と、かろうじて
返事をしました。
それを聞いたビョルンは
長いため息をつきました。
恥辱感と入り混じった安堵感が
押し寄せて来ました。
ぬかるみを転がっているような
汚い気分でした。
ここまで言われたら、
絶対に離婚するでしょと思うくらい
あまりにも酷いビョルンの言葉。
パーベルとのことを邪推し、
彼は友達だとエルナが言っても、
その言葉を信じず、
妄想を炸裂させ、勝手に嫉妬して、
気分を害して、
エルナに八つ当たりをするビョルン。
子供さえいなければ、
エルナはビョルンのそばにいることが
耐えられなくなるレベルだと思います。
それでも、キャサリンのおかげで
自分のついた嘘に
苦しめられることが
なくなるでしょうけれど、
果たして、その時まで
エルナがビョルンに
耐えられるかどうかは疑問です。