12話 レナードはエルナに恩恵を与える賭けをしようと言い出しました。
酒に酔って
管を撒いているというには
レナードの目は澄んでいました。
ほどなくして、カードテーブルに
熱い歓声が湧き起こりました。
誰かが、
面白そうだ。
賭け金はここにあるチップでどうかと
提案すると、ペーターは興奮して
大賛成だと言うと、
自分の前に積まれていた
ポーカーチップを押しました。
ビョルンは低いため息をつくと
椅子にもたれました。
賛同を表明する愚か者たちが
1人ずつ加わると、
ゲームはいつの間にか
うやむやになりました。
どうやらレナードの野郎は
負けそうだから
ゲームをひっくり返したのだと
ビョルンは思いました。
レナードは、ビョルンの
苛立たしげな視線にも
びくともしませんでした。
その間、あちこちで賭けられた
ポーカーチップが、
カードテーブルの中央を
埋め尽くしました。
予想よりはるかに大きな賭け金が
集まったことに気づくと、
ギャンブラーたちの顔には、
真剣な勝負欲が漂っていました。
まだお金を賭けていないのは
ビョルンだけでした。
ピーターは、ゆっくりと
ビョルンのそばに近づくと、
「ビョルンも賭けるよね?」と
尋ねました。
ビョルンが、
このような賭けに
足を踏み入れることがないことを
この場にいる誰もが知っていました。
だからこそ、より大きな賭け金を
奪い取らなければ
ならないということも。
ギャンブルの鬼才である
あの王子の財布をはたく機会は
そうそう、ありませんでした。
「やる?」と
ペーターはビクビクしながら
ビョルンの前に積まれた
ポーカーチップを押しました。
ビョルンは、
あまり気分が良くないように
見えましたが、
ペーターを止めませんでした。
食べたら離れろというような態度が
多少気になったけれど、
このように、ふんだんに食べ物を
投じてくれるなら
理解できないことも
ありませんでした。
興奮したペーターは、残ったチップも
全てテーブルの中央に集めました。
今や掛け金は、
都心のタウンハウス一軒分くらい
十分買えるほど、
大きくなっていました。
この情けない賭けを提案した
レナードは、
スタート地点は今日の美術展。
皆、出席するから公平でしょう?
と厳粛に宣言しました。
ビョルンは
懐中時計を確認しました。
いつの間にか朝。
嫌でも参加しなければならない
王立芸術院の美術展の開会式が
目前に迫っていました。
エルナは、夜明け頃、
生花同様に美しい鈴蘭を
完成させると、満足そうな目で
それを見つめました。
造花は形が複雑なほど
価値が高くなるけれど、
その中でも最も高値を付けるのが
鈴蘭で、
エルナが一番好きで、
よく作る花でもありました。
造花を作って売る仕事を始めた時には
休むことなく、鈴蘭だけを
作らなければなりませんでしたが、
数年前からは
目に見えて注文が減りました。
しかし、依然としてエルナは
鈴蘭が一番好きでした。
都会の一日の始まりは
あまりにも遅く、
一番鶏が鳴く前に活動を始める
エルナとしては
理解し難いことでした。
退屈しのぎに作り始めた造花は
今は、籠一つがいっぱいになるほど
増えていました。
エルナは、これを売る所が
見つかればいいのにと
思いました。
バフォードで雑貨店を経営する
アレ氏がグレベ夫人に
造花作りの仕事を与え、
当初は、そこで、
ささやかに売れる程度でした。
ところが、
日増しにエルナの腕が上がると、
アレ氏は、さらに高い値段で
造花を売ることができる
デパートを仲介してくれました。
大都市にあり、
とても大きくて派手で、
何でも売っている巨大な商店が
一体どんなところなのか、
エルナは
全く想像できませんでしたが
デパートからは、
アレさんの店で売っていた物の
2倍のお金をもらうことが
できました。
そのおかげで、
バーデン家の茶箱と砂糖入れが
空になることがなく、
生地がなくて古着を纏う苦境も
避けられました。
そのせいで、エルナは、
初めて王宮を見るまでは、
デパートは王宮より
ずっと素敵で美しい所だと
漠然と想像していました。
エルナは、
ここにあるデパートに、直接、
造花を売る手段はないだろうかと
考えました。
父親との取引で
田舎の家を守ることはできたけれど
自分が入れていた生活費がないため
バーデン家の生活は
再び苦しくなっているはずでした。
目がかなり悪くなったグレベ夫人は
これ以上、造花を作ることができず、
数年前から、造花作りは、全面的に
エルナの役割になっていました。
仕事は、ここでも
いくらでもできるので、
納品する店だけ探せばいい。
それが難しければ、
造花をバーデン家に送ってみてもいい。
郵便料金が高すぎるなら、
季節ごとに一度程度、造花を持って
バフォードを訪ねても
良さそうでした。
その時、軽快なノックが鳴り響き
大きな箱を抱えて
リサが入って来ました。
彼女は、
箱から取り出した
青いドレスを振りながら、
それでも今回のドレスは、
なかなかお上品ではないかと
子供を宥めるような口調で言って
微笑みました。
エルナは笑いながら頷きました。
真夏でも鎖骨を見せることのない
エルナの基準では、
依然として危ないドレスだけれど
この前のものに比べれば
修道女の服のように敬虔でした。
エルナは、
どうして新しい服なのかと
尋ねました。
リサは、今日、奥様と一緒に
美術展の開幕式に
出席しなければならないことを
知らなかったのかと答えて
驚きました。
「美術展に?私が?」と驚くエルナに
リサは、
王立芸術アカデミーで
毎年夏に開かれる
有名な展示会だそうだと答えました。
王立芸術アカデミー。
戸惑いながら、
その言葉を繰り返すエルナの口元に
徐々に笑みが広がり始めました。
もしかしたら、
パーベルに会えるかもしれないという
希望を抱いて、エルナは
いつもより元気な1日を始めました。
朝食後、身支度をすると
子爵の妻の手に引かれて
エルナは馬車に乗りました。
見慣れない都市の風景も、今日は
以前ほど脅威的には
感じられませんでした。
芸術アカデミーが近づくと、
ずっと沈黙を守っていた
ハルディ子爵夫人は、
恥をかくのを楽しむ悪い趣味がなければ
今日は、きちんとやり遂げて欲しいと
不満の色を隠すことなく
氷のように冷たい声で忠告しました。
「頑張ります」と、
エルナはできる限り最善の答えを
淡々と述べました。
エルナも、
自分の評判があまり良くないことを
ぼんやりと感じていました。
彼女への熱い関心は
数多くの誤解と憶測につながり、
まもなく確固たる真実となりました。
汚名を晴らそうと努力すればするほど
むしろ、ますます深い泥沼に
陥る気分でした。
だから、今日は
よく耐えなければと
覚悟を決めている間に
馬車が止まりました。
ハルディさんは
本当に救いようのないお嬢さんだと
ビクトリアは
深いため息をつきました。
エルナは、まだ、
ベンチに倒れ込むように座り込んで
息を切らしていました。
真っ青な顔で震えているという
哀れで情けない姿でした。
ビクトリアは、
そろそろ慣れる頃ではないか。
一体いつまで、
こんな醜態を見せるつもりなのかと
叱責すると、エルナは
どもりながら、謝りました。
赤くなった目頭のせいで、
青い瞳がさらに際立ち、
視線を惹きつけるきれいな顔に
ビクトリアは、
一層、混乱しました。
ただニコニコ笑って、
少し媚びを売るだけで、
多くの男たちを虜にするはずなのに
その簡単なこと一つ
まともにできないエルナを見ると
胸の中で、火柱が上がるような
気分でした。
社交界に不慣れで
苦しんでいる若い娘は
数えきれないほど見てきたけれど
人々の前に立つと
息一つまともにできないマヌケは
エルナが初めてでした。
今日は、
かなりよく耐えていると思ったら、
よりによって
ベルゲン伯爵家の息子が
声をかけてきた時に症状が始まり
もし彼女が、
すぐに庭に連れてこなかったら、
エルナは今日も、
多くの人々の視線に
さらされるところでした。
エルナは、
わざとではない。
自分は本当に・・・と
言い訳をしていると、
ビクトリアは、
いっそ、こんな演技ができる
お嬢さんだったら良かったのに。
そうでないというのが
ハルディさんと自分の悲劇だと
エルナの言葉を遮りました。
エルナは濡れた目で
ビクトリアを見ました。
グレディス王女に引けを取らない
美人という評判は
ハルディ家で意図的に
作り出したものだけれど、
客観的な事実でした。
気に入らないハルディ家の娘の
シャペロンを引き受けたのも、
エルナの美貌のためでした。
まさか、このきれいなお嬢さんが、
こんな悩みの種だったとは
想像していませんでしたが。
ビクトリアは、
これはハルディさんの問題だけではなく
自分の名誉がかかっていると
言い聞かせると、エルナは無垢な顔で、
まだ、訳が分からないまま、
それはどういう意味かと
聞き返しました。
ビクトリアは、
深いため息を漏らしました。
随分、誤った選択をしたという後悔が
押し寄せて来たけれど
すでに取り返しがつきませんでした。
ビクトリアは、
人々がそんなに怖いなら、
田舎の花や動物だと思えば
少しは良くなるのではないかと
自分でも馬鹿みたいだと思うことを
深刻な口調で頼みました。
ハルディ家の娘が、
自分の輝かしい業績に
泥水を浴びせることは
許されませんでした。
式典が始まる時間になると
ビクトリアは慌てて立ち上がり、
エルナには、
少し落ち着いたら来るようにと
言い聞かせました。
エルナは思わず頷くと、
もう一度深いため息をついた
ビクトリアは急いで庭を出ました。
エルナは冷たい手をギュッと握り
息を整えました。
首が絞めつけられるような苦痛は
薄れて来たけれど、多くの目が
自分を注視する所に
戻る気はありませんでした。
エルナは「大丈夫」と
自分に嘘をつくと
ハンカチで顔を拭き、
身なりも几帳面に整えました。
そして、思わず顔を向けた
遊歩道の先で、
何となく見慣れた人を見つけました。
「パーベル?」
エルナは、
ぽかんとした顔で呟きました。
赤い髪と大きな体格、
見慣れた後ろ姿まで、
確かにパーベル・ロアーでした。
エルナは急いでその名前を呼ぶと
慌てて遊歩道を走りました。
鈴蘭の造花を売り始めたのは
ちょうどビョルンとグレディスが
結婚したばかりの頃だったので、
鈴蘭の造花が爆発的に売れた。
けれども、2人が離婚した後は
徐々に鈴蘭人気が衰えて行った。
けれども、エルナは
その理由を知らないほど、
世間知らずなのだと思いました。
賭けに勝つために
エルナに声を掛けたのに、
彼女が逃げ出すきっかけと
なってしまったペーターが
可哀想でした。
ビクトリアは、今までで
最大の難関にぶつかっていますが
エルナが息もできないマヌケだから
ビョルンとの
濃い接点ができたと思えば
少しは彼女も気が休まるのではないかと
思います。
**********************************
いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
外は寒いですが、
それに負けないくらい
皆様の熱いコメントが
本当にありがたいです。
それを励みに、
これからも頑張ります。