928話 外伝37話 タッシールは皇女ラティルを抱えて2階から飛び降りました。
◇損することはしない◇
自分で飛び降りるのと、
人に抱かれて落ちるのは
全く違う感じでした。
皇女ラティルは、
飛び出そうとする悲鳴を堪えるため
タッシールの肩で口を塞ぎました。
タッシールが
急にバランスを失って
フラフラしたため、
皇女ラティルは
目の前がクラクラしましたが
幸い、テーブルと椅子が
倒れる音がしただけで、
タッシールは倒れませんでした。
彼は皇女ラティルに
目を閉じていてと言うと
扉が近くにあるのに、
あえて窓に体当たりをして
外に出ました。
そのせいで騒々しい音がすると、
街のあちこちに小さな光が
灯り始めました。
眠っていた人たちが、何事かと思い
窓の外に頭を突き出していました。
旅館に強盗が現れたと
タッシールは大声で叫びながら
走りました。
わざとそうしていると
皇女ラティルは
彼の意図に気づきました。
こうすることで、
彼らが夜の街を走って行っても
怪しまれることなく
むしろ強盗を避けて
逃げているように見えるし、
旅館で起きた殺人事件の犯人とは
見なされないだろうと思いました。
ちょうど巡察中だった兵士3人が
駆けつけて来て、
どうしたのかと尋ねました。
タッシールは、
旅館に泊まっていたら
争いが起こった。
何事かと思って見に行ったら
覆面をかぶった人たちが
自分たちまで攻撃しようとしたので
逃げだと、急いで話しながら
苦しそうに呻き声を上げました。
皇女ラティルは、かなり落ち着いて
事態を把握していましたが、
怯えたふりをしながら
タッシールの頭を抱き締めました。
兵士たちは
包帯を巻いたタシールの片腕と
添え木を当てて固定した
皇女ラティルの片足を見ると
彼らを放って、
すぐに旅館に走って行きました。
タッシールは、
とりあえず、この場から離れると呟くと
路地の奥に入りました。
驚いたことに、先程、彼は
わざとゆっくり走っていたのか
周りに人がいなくなると
速度を倍にしました。
皇女ラティルは、
彼を抱き締めたまま
何も言いませんでした。
タッシールは村を出て
森に入りましたが。
それでも口を開きませんでした。
相変わらず彼を疑う気持ちは
ありましたが、
敵の数が何人なのか分からない上、
味方のうち誰が敵なのかも
分かりませんでした。
味方が生きていることも
分かりませんでした。
隣の部屋では、確かに誰かが
死んでいたからでした。
しかし、そんな騒ぎが起こっても
旅館の中からは
誰も出て来ませんでした。
しばらくしてタッシールは
息が切れたと言うと
皇女ラティルを降ろしました。
彼女は弱々しい声で
お礼を言いました。
タッシールは、
だから、自分は
札を受け取りたくなかった。
殿下が札を渡しながら、
自分たちの間に
絆を結ぶのを見た時から
不吉な予感がしたと
不満そうに呟きながら、
自分の怪我をした方の腕を
見下ろしました。
眉間にしわを寄せるのを見ると、
相当、痛いようでした。
そういえば、骨折がひどくて、
小さな町の医者では
診られないと聞いた。
腕は大丈夫か。
自分のせいで、さらに怪我が
ひどくなったのではないかと
尋ねました。
皇女ラティルは、その姿に
申し訳ない気持ちがこみ上げて来て
普段とは違い、途方に暮れました。
片腕を怪我した彼が、
弓を射てくれて、
ここまで連れて来てくれたからでした。
タッシールは、
大丈夫ではないけれど、
このような状況では、
大丈夫でなくても仕方がない。
我慢するしかないと謙虚に答えると、
ラティルの足を指差し、
殿下も痛いのに、
じっと我慢している。
痛いのが嫌いなのにと指摘しました。
皇女ラティルは、
自分が痛いことを露わにする代わりに
ハンカチで
タッシールの顔に付いている血を
慎重に拭いてあげました。
窓ガラスを割る時に
破片で切ったようでした。
ここも痛いのではないかと
皇女ラティルが尋ねると、
タッシールは、唇を
パクパクさせていましたが、
素直に、彼女の手を受け入れました。
皇女ラティルは血を拭うと
ハンカチをたたんで
胸の中に入れました。
タッシールはそれを見て、
すぐに、目を逸らしました。
痛い素振りを見せなかったけれど、
皇女ラティルも
足がまともではないので、
岩の上に腰かけながら、
なぜ、旅館の中から
誰も出て来なかったのか分かるかと
尋ねました。
タッシールは、
自分も詳しくは分からない。
しかし、
敵ではなく、殿下の一行全員が
死亡または負傷したか
あるいは、全員が
殿下の敵だった場合の
どちらかではないかと答えました。
皇女ラティルは拳を握りしめ、
自分の怪我した足を
しばらく見下ろすと、
全員、敵だった方がマシだと
答えました。
タッシールは
意外だ。
全員敵なら、殿下は最初から
完全に敵の手の内に
いたことになるのではないかと
指摘しました。
皇女ラティルは、
自分を守ろうとした人が死んだことより
最初から、
皆、裏切り者だった方がマシだ。
自分の味方が怪我をするのが嫌だと
言うと、あの濃い血の匂いを
思い出して歯ぎしりしました。
タッシールは眉を顰めたまま、
そのような皇女を
じっと見つめていましたが、
彼女と目が合うと笑い、
殿下は意外なことを
よく話すと言いました。
皇女ラティルは、何も考えずに
痛い足を擦っていましたが
手をピクッとさせました。
彼は自分のことを
よく知っているように話すけれど
彼と自分は
いつから知り合いだったのだろうかと
考えました。
そして、皇女ラティルの頭の中に
タッシールが真夜中に
路地で誰かに会っていた姿が
浮び上がりました。
しかも彼は、
平凡な商人とは思えない
手腕を見せていました。
しかし、皇女ラティルは、
この話を持ち出しませんでした。
しばらく止まっていた手を
再び動かして、痛い足の周りを
擦り続けるだけでした。
その間、タッシールは木に登り、
5分ほど経ってから下りて来ると
この近くに、次の村まで、
よく整備された道があり、
その道の周りに
森がずっと続いているので
道のそばの森沿いに
移動した方がいいと思うと
提案しました。
皇女ラティルは、
その理由を尋ねました。
タッシールは、
誰が殿下の一行を選んだのかと
尋ねました。
皇女ラティルは父帝と答えました。
タッシールは、
皇帝が直接作った旅行団の人々を
皆、襲撃者にすり替えたということは
それだけ、敵がすごいということ。
そのような敵なら、
自分たちより一歩先に次の村へ行き
むしろ殿下を、色々な方法で
危険な目に遭わせるかもしれないと
言いました。
皇女ラティルは、
その色々な方法が何かについては
聞きませんでした。
彼女にも、やはり
いくつか思い当たる方法が
あるからでした。
自分が正体を明かせないまま
死んでしまったら、
人々は皇女が死んだことを
どうやって知るのだろうかと考えた
皇女ラティルは、
これからも危険だと思うけれど、
ずっと、自分と一緒に
行ってくれるのかと
自信のない声で尋ねました。
タッシールは
どうしようかと答えると、胸の中から
皇女ラティルがくれた札を
取り出して振り、
再び、しまうと笑いました。
そして、恩返しを
惜しみなく受けるためには、
殿下が生き続けなければならない。
ここへ殿下を置いて行けば、
腕も折ったし、顔も怪我をしたし、
全ての荷物も旅館に置いて来たので
自分は損をすると言いました。
皇女ラティルは、
とても危険に違いないと
言いましたが、タッシールは
自分は商人なので、
損するようなことはしないと
簡潔に言うと、
彼女に負ぶされと言わんばかりに
背中を見せながら身を屈めました。
◇信頼と不審◇
皇女ラティルは、タッシールを
100%信頼していませんでした。
彼にも、不審な点が
いくつかあったからでした。
しかし、危険な状況で
実際に助けてくれたのが
タッシールだし、他に方法もないので
彼と移動しなければなりませんでした。
体の調子が良ければ
一人で移動したけれど
今は足を怪我していました。
それでも昼間であれば、
皇女ラティルはタッシールの背中に
おんぶされていたので、
彼が奇襲しそうになったら、
頭を叩きつければよいと思いました。
しかし、夜になると
皇女ラティルも困りました。
昼間、馬車に乗って移動していた時は
夜、寝なくても
耐えることができましたが
今は、タッシールの背中に
おんぶされて移動していました。
ようやく生き返った。
殿下をおんぶしているのが大変で
死にそうだったと
タッシールが弱音を吐くと
皇女ラティルは、
警戒する気持ちと同じらい
申し訳ない気持ちになり
本当に困りました。
皇女ラティルは躊躇った後、
彼の背中を拳で叩きました。
しかし、タッシールが
驚いて退いたため、
すぐに手を引っ込めなければ
なりませんでした。
皇女ラティルはきまりが悪くなり
どうして、そんなに嫌がるのかと
尋ねました。
しかし、タッシールは返事もせずに、
ラティルの手が触れた部分に
何か大きな虫が付いたか、
落ちて来たりしたように眺めながら、
歯ぎしりしました。
その態度に、皇女ラティルは、
申し訳ないと思う気持ちが
さっと消えて
怒りがこみあげて来ました。
彼女は、
自分の手は虫なのかと尋ねました。
タッシールは
とても高貴な手なので負担になる。
だからこれからは
そうしない方がいいと思う。
これ以上近づかないようにしようと
答えました。
タッシールがそのように言うと、
皇女ラティルは、
これ以上抗議することも
できませんでした。
タッシールは皇女ラティルに
じっとしていろと言うと
あちこち歩き回りながら
乾いた木の枝を集めて来て
焚き火の準備をしました。
その間、皇女ラティルは仏頂面で
自分の足を叩きながら、
自分と近づきたくないみたいだ。
あの様子を見ると、
怪しくないような気もすると
考えました。
タッシールは焚き火をすると
持っていたジャーキーを
取り出して焼き、
美味しくないだろうけれど
食べるようにと言って
皇女ラティルに差し出しました。
皇女ラティルは、
いつ、これを持って来たのかと
尋ねました。
タッシールは、
念のためにいつも持ち歩いていると
答えました。
皇女ラティルは、
商人たちは飢えることが多いのかと
尋ねました。
タッシールは、
あちこち歩き回る商人だからと
答えました。
皇女ラティルは、タッシールが
馬車に荷物をいっぱい
積んでいることを思い出して
納得しました。
ジャーキーは
タッシールの言葉に反して
かなりおいしく、
あらかじめ味を付けていた
ジャーキーのようでした。
ところが、皇女ラティルが
ジャーキーを熱心に噛んで
食べていると、視線を感じたので
前を向くと、タッシールが
不思議だというように
こちらをじっと見ていました。
その上、彼は目が合っても
視線を逸らしませんでした。
皇女ラティルは
随分、あからさまに見ていると
呆れて呟きました。
あえて自分をあのように
じっと見つめる人は
タッシールが初めてでした。
彼は目で笑うと、
皇女ラティルは想像とは随分違う。
高貴な人なので、こんなものは
受け取ったらすぐに
投げてしまうと思ったと言いました。
皇女ラティルは、
誰がそんな愚かなことをするのか。
自分のことを
想像したことがあるのかと
当惑しながら尋ねました。
タッシールは、
そんな愚かなことをする人々を
たくさん見た。
そして、ラトラシル皇女について
知らない人は当然いないと
さりげなく答えると、
ジャーキーを食べ始めました。
皇女ラティルは首を傾げました。
本当に、そうなのだろうか。
しかし、彼は以前にも
自分のことを「意外」だと
表現したことがあった。
どこかで自分を
見たことがあるのだろうかと
考えました。
食事を終えた後、タッシールは
木と自分のマントを利用して
道の方から、
光が見えないようにしました。
皇女ラティルは、
時々、焚き火に小枝を入れながら
今は何時頃なのだろうかと考えました。
とりあえず、こうやって
移動しているけれど、
これからのことを考えると
途方に暮れました。
次の次の村に行ったら
黒死神団の傭兵を
雇わなければならない。
悩んだ末、皇女ラティルは
自分の腕にはめている
高価なブレスレットを見ながら
呟きました。
お気に入りのブレスレットだけれど
こんな時は
使わなければなりませんでした。
黒死神団の傭兵たちは、
人々を騙したりしないし、
義理と信用が高いことで有名でした。
このくらいのブレスレットを
丸ごとあげれば
彼らを雇うことができるだろうと
思いました。
黒死神団の話が出ると、タッシールは
しばらく曖昧な表情をしました。
皇女ラティルは、
どうして、そんな顔をするのか。
あの傭兵たちは今一つなのかと
不思議そうに尋ねました。
タッシールは、
そんなはずがないと答えましたが
説明はしませんでした。
皇女ラティルも、
これ以上、尋ねることなく、
自分のマントを地面に敷いて
その上に横たわりました。
しかし、居心地悪そうに
横になっていると
タッシールは自分の腕を
見下ろして困った顔をしていました。
「なぜ?」と皇女ラティルは
理由を聞くや否や、
彼は怪我をしている腕が
痛いんだと気づきました。
皇女ラティルは起き上がり、
すぐ彼のそばに近づきました。
医術は知らないけれど、
彼の腕の状況が良くなければ、
マントを破ってでも包帯を作り、
新しく巻いてあげなければ
なりませんでした。
タッシールは、
大丈夫。
ただ気になって見ていただけだと
言うと、
地面に敷いたマントを指差しました。
皇女ラティルは、
そんなはずがない。
早く手を見せるように。
ずっと自分を背負って
走っていたではないかと
言いました。
皇女ラティルが退かないと、
タッシールは
仕方なく手を差し出しました。
皇女ラティルは、彼の袖を
そっと上に上げようとしましたが
腕がひどく腫れていて、
肘より上に上がりませんでした。
皇女ラティルは、
慌てて、もう片方の腕を振ると、
元々、こうではなかった、
傷がもっとひどくなったに違いない。
すぐに上着を脱いでと指示しました。
今回のお話もタッシール三昧。
彼は何かを隠していそうですが
彼の態度が
現実の世界でのタッシールと
変わらないところが
安心できました。
黒死神団の傭兵たちは
皇女ラティルが
頼ろうとするくらい
すこぶる評判が良いのですね。
今更ながらですが、
彼らは吸血鬼だけれど、
人間とうまく共存しているのだと
思いました。