926話 外伝35話 ラティルの傷の手当てをしようとしていたタッシールが眉を顰めた理由は?
◇恩返し◇
憚ることなくふざけていた
タッシールが
突然顔を顰めると、
皇女ラティルは急に不安になり
「なぜ?」と尋ねました。
今、彼女は
窮地に追い込まれていました。
この正体不明の
麻薬密売人のような男が
自分を救ってくれたように
見えるけれど、
彼を信頼できませんでした。
しかし、彼について
まだ分からないので、
このような気持ちを
表に出すことはできませんでした。
タッシールは表情を整えて
ニコッと笑うと、
このように高貴な方が
体面を保ちながら弱音を吐くので
少し驚いただけだと答えました。
その表情の変化の速さに
驚くほどでした。
しかし、皇女ラティルは
これに驚きませんでした。
その代わり、タッシールの顔を
突然、注意深く見ました。
タッシールが
当惑した様子を見せるほど
露骨でした。
タッシールは、
どうしたのかと尋ねました。
皇女ラティルは、
ずっと考えていたと答えました。
タッシールは、
何を考えていたのか。
まさか、自分のことを考えていたのかと
尋ねました。
ラティルは「そうです」と答えました。
タッシールは、
このタッシールのことを
考え続けるほど、
自分たちは親しくなったのかと、
ヘラヘラ笑いながら尋ねると
ラティルは、訳もなく
嬉しい気持ちになりました。
このような姿は、
タッシールが側室になった当初、
よく見せてくれたものだからでした。
しかし、タッシールに慣れていない
皇女ラティルからは深刻な表情が消え
聞こえない音を聞いたように、
「そんなはずが!」と叫びました。
タッシールは目を大きく見開き、
「ああ・・・心が」と呟くと
包帯を自分の胸元へ持って行き、
これは、ここに
使わなければならないと言いました。
ラティルは聞き飽きた言い回しだけれど
皇女ラティルは
ひどく嫌がっていました。
しかし、タッシールは、
本当に心が
傷ついたわけではないようで
すぐに笑い出すと
慎重に包帯を足首に巻きながら
冗談だと言いました。
そして、自分について
何を考えていたのか尋ねました。
皇女ラティルは、すぐに
タッシールは自分のことを
あまり好きではないと思うと
答えました。
ラティルは皇女ラティルが
的を射たことに気づきました。
タッシールは、
微かに眉を顰めただけでしたが
ラティルは、その一瞬の表情を
見逃しませんでした。
「やれやれ」
タッシールはそのように嘆きましたが
否定はしませんでした。
その代わり、慎重に
包帯を巻き続けるだけでした。
とうとう包帯を巻き終わると、
タッシールは、
しばらく包帯の端をつかんで
ためらっていましたが、
リボン結びをして仕上げました。
これで自分は、
確かに恩返しをしたと
何だか、すっきりした声で言いました。
それを聞いた瞬間、
皇女ラティルは、
タッシールが自分を騙すために
ここへ連れて来たのではなく、
本当に恩を返すために
連れてきたのだということに
気づきました。
そして、先ほど包帯を巻いたのを最後に
彼が恩返しの清算を
終えたということも。
◇軽い態度◇
恩返しの清算は終わったけれど
タッシールは、皇女ラティルが
無事に一行の元へ戻れるように
手伝ってくれました。
気絶した皇女を連れて、
覆面を避けて移動することは
難しかったけれど、動ける皇女は
彼の能力で、
十分に連れて行くことができました。
皇女が姿を現すと、
混乱に陥っていた人々は
どっと彼女に駆けつけました。
官吏は、皇女ラティルの頬の傷と
足に巻いた包帯を見て、
大丈夫か。怪我をしたのか。
これは一体どういうことなのかと、
ほとんど、泣き叫ぶように尋ねました。
皇女ラティルは、
奇襲されたと冷たく答えると
タッシールをチラッと見て、
彼に助けてもらったと説明しました。
人々の視線が集まると、
タッシールは投げキスをしました。
その軽い態度に、
人々は眉を顰めましたが、
このうちの誰かは、他の理由で
しかめっ面をしたはずでした。
タッシールが
自分たちの仕事を台無しにしたことを
おそらく、
恨んでいるだろうと思いました。
皇女ラティルは、
ここにいる一行の中で、
少なくとも5人が敵であることを
知っているので、
人々の心配する表情を見ながらも
心の中では、鼻で笑いました。
彼女は、今回のことが起こるまで、
父帝が自ら用意してくれたこの一行に
スパイがいるとは
想像もできませんでした。
襲撃者たちはどこにいるのかと
官吏が急いで尋ねると
護衛兵たちを見ました。
官吏から目配せを受けた
護衛兵たちが前に出ました。
命令されれば、すぐに
襲撃者を始末しに行く勢いでした。
皇女ラティルは、この一行の中に
敵がいるという事実を
すぐに話すべきどうか悩みました。
しかし、皇女ラティルは悩んだ末に
自分には、よく分からない。
覆面をかぶっていたし、
その上、気絶してしまったので
事がどうなったかは分からないと
同行者に敵が紛れている事実を
隠しました。
彼女は敵が誰なのか
分かりませんでした。
2人の敵の声を聞いたけれど、
まだ彼らが誰なのか
確認していませんでした。
それなら、自分が
どんな手札を持っているのか
先に出さない方が良いと思いました。
彼女は、隠れている敵が
誰なのか分からないので、
敵も知らないことがなければ
なりませんでした。
官吏は、皇女の言葉に
少しも疑問を抱かず、
今度は、すぐにタッシールに
襲撃者たちはどうなったのかと
尋ねました。
タッシールは妙な笑みを浮かべて
皇女をチラッと見ましたが、
これは、ほんの一瞬のことで、
彼はすぐに、
襲撃者たちは自分が全てきれいに
始末したと、軽く答えました。
過度に活力に溢れて、
全く信憑性がない言葉に、
官吏は眉を顰めて、
それで死体はどうしたのかと
再度、尋ねました。
タッシールは、
皆、逃げたと答えました。
その言葉に、
護衛兵たちの表情が歪みました。
官吏も、それほど良い表情では
ありませんでした。
皆、タッシールが運良く、
気絶した皇女を連れて来たと
思っている様子で、
本当に襲撃者たちを追い払ったとは
思っていないような雰囲気でした。
自分を救ってくれた人だと、
皇女ラティルが
警告するような口調で言うと、
人々は、タッシールを
これ以上睨みつけませんでした。
そんな中でも、タッシールは
気分を悪くしている素振りを見せず、
笑ってばかりいました。
官吏は、
タッシールから注意を逸らすと、
兵士たちに、襲撃者たちを
探させなければならないと
皇女ラティルに申し出ました。
以前なら皇女ラティルも
そうしろと言ったはずでした。
しかし、兵士たちが
散らばってはいけない。
残る兵士たちの中に、
敵がいるかもしれないと思うと、
皇女ラティルの警戒心は、
最高潮に達している状態でした。
皇女ラティルは、
足がすごく痛い。
今は早くここから抜け出したい。
護衛兵が多いから、敵もこれ以上
襲いかかることはできないだろうと
足を言い訳にして
捜査まで拒否しました。
そして馬車まで歩いて行くと、
官吏も、これ以上
言い張ることができませんでした。
タッシールに言ったように、
皇女ラティルが、
ここの最終決定権を
持っていたからでした。
官吏は速いスピードで出発の準備をさせ
まもなく一行は、再び森を進むことが
できるようになりました。
皇女ラティルは、
馬車の窓に頭をもたせて、
外から聞こえてくる声に
注意を払いました。
声を知っている敵2人でも
確実に把握しなければならない。
彼らを監視していれば、
他の敵が誰なのかも分かるだろうと
思いました。
◇恩返しは終わっていない◇
自分は昔から賢かったんだ。
ラティルは、皇女ラティルが
全集中力を発揮して、
声だけで2人の敵を見つけ出すと、
微笑ましくなりました。
それでも、下女は人数が少ないので
その中から、女性の声を
見つけ出すのは
容易なことでした。
しかし、近くにもいない
兵士と下男のうち、
1人の男性の声を見つけるのは
容易ではないはずなのに、
皇女ラティルは結局、
犯人を見つけ出しました。
いったん敵が誰なのか突き止めれば
その後は、楽でした。
彼らの行動を注意深く観察するだけでも
ある程度、自分の安全を
確保することができました。
皇女ラティルは、
サーナット卿がそばにいてくれれば、
彼に敵を監視させながら、
誰が、別の敵なのか
確認できただろうにと思いました。
しかし、確実に自分の味方だと
思える人がいないため、
これ以上、敵を探し出すのは
困難でした。
皇女ラティルが探し出した敵2人は、
他の人たちとまんべんなく
仲良くしていたため、
親交があるかどうかだけで
敵を見つけることが
できませんでした。
だからといって、タッシールを訪ねて
助けを頼むこともできませんでした。
タッシールは
自分を助けてくれたけれど、
彼も怪しいところが確かにある。
自分を見つけた経緯もそうだし、
誰も知らないうちに
治療道具を持ってきて
治療してくれたのもそうでした。
それに襲撃者たちが
覆面を脱ぐのを見たと言ったのに
自分に一言も話さなかった。
これ以上、
巻き込まれたくないのだと
思いました。
そのように、皇女と襲撃者たちが
互いに警戒し合いながら
移動している間、
ついに馬車は森を離れて
中規模の村に入りました。
下男たちが宿を取り、
医者を呼びに行っている間、
皇女ラティルは、馬車の中で
すべてが終わるのを待ちました。
彼女は、2人の犯人が
笑顔で人々と会話しているのを見て、
チラッとタッシールの方を見ました。
タッシールは荷車の前に立ち、
下男たちが降ろす荷物の数を
数えていました。
彼ともここでお別れだ。
そう考えながら、
皇女ラティルは、
自分の足を見下ろしました。
包帯を巻きながら、
タッシールが結んでくれた
足の上のリボンは
すでに消えていました。
皇女ラティルは、
訳もなくそわそわしました。
彼に助けられた日を最後に
一度も、特に話していないのに、
彼と別れるかと思うと、
ふと、自分が、あまりにも冷静に
振舞い過ぎたのではないかと
後悔しました。
彼が怪しいかどうかにかかわらず、
助けてくれたのは確かでした。
皇女ラティルは後悔するや否や
直ちに官吏に、
タッシールを呼びに行くよう
指示しました。
荷物の整理をしていたタッシールは
怪訝そうな顔で訪ねて来ました。
皇女ラティルは悩んだ末、
自分の前の席を指して、
「乗りなさい」と言いました。
タッシールは、
さらに当惑した様子で
馬車に乗り込みました。
彼が向かいに座ると、
皇女ラティルは
馬車の扉まで閉めました。
すると、タッシールは驚いて、
横に体をずらし、自分たちは、
ここに二人きりでいるような
仲ではないのではないかと
主張しました。
その態度に当惑した皇女ラティルは、
襲撃者たちを全員退けて
自分を救ってくれた人が
何をそんなに怖がっているのかと
尋ねました。
タッシールは、馬車の壁に
ぴったりくっつきながら
殿下が自分の口を塞ぐために
殺戮を計画しているのかもしれないと
思ったと答えました。
その返事に、皇女ラティルは
さらに呆れると、
あなたは自分を助けてくれたのに
どうしてそんなことをするのか。
自分を一体何だと思っているのかと
尋ねました。
タッシールは、
自分が殿下を救った後、
殿下は、ずっと自分を
避けていなかったか。
殿下の弱い姿を見た上、
殿下の失策も見たし、
それに怪しい点もあるので、
自分を避けているのだと思ったと
答えました。
タッシールの返事に
皇女ラティルは、頭を一発
殴られたような気がしました。
皇女ラティルは、
前の2つは、お話にならないと
言いました。
タッシールは、
「最後の1つは?」と尋ねると、
皇女ラティルは、
怪しい点があったから避けたと
率直に答えると、
タッシールは眉を顰めました。
しかし、彼は、
壁に完全に密着させていた背中を
少し離しました。
ラティルは、タッシールの表情に
また曖昧な気配が現れたかと思うと
すぐに消えたことに気づきました。
皇女ラティルは、
それではいけないと思った。
それでお礼を言って、
謝るために呼んだと言うと、
懐から小さな札を取り出して
タッシールに渡しました。
彼は札を渡された瞬間、
一瞬、表情が強張りましたが、
すぐに緩みました。
タッシールは、
これは何かと尋ねました。
皇女ラティルは、
自分はタリウムの皇女ラトラシルだ。
自分を救ってくれたのに、
ずっと正体を隠しているのは
無礼だからと答えました。
タッシールは、しばらく手の中で
札をいじくり回してから、
皇女ラティルに返しました。
そして、殿下が先に
自分をを助けてくれたので、
自分も殿下を助けてあげただけだと
言いました。
ラティルは、タッシールが
皇女ラティルと
これ以上関わりたくなくて
線を引いていることに気づきました。
笑顔ではあったけれど、
目には面倒くさそうな様子が
浮かんでいました。
タッシールは、
父親が自分を疑っていることを
知っている。
だから、自分と
あまり関わりたくないのだろうか。
それとも父親の命令で、
不純な意図を抱いて、
自分に近づいたけれども、
恩を返すと言われて困っているのかと
ラティルは考えました。
しかし、何も知らない人が
一番勇敢でした。
皇女ラティルは、
タッシールが暗殺者たちの
首長であることも知らないまま、
札をタッシールの手の中に
しっかり握らせました。
そして、
自分はバカではない。
自分があなたを助けたのは
確かだけれど、あなたのように
命を救ってあげたわけではない。
だから自分はあなたに、
もっと恩返しをしなければならないと
言うと、タッシールの目が
ぴくぴくと動きました。
タッシールは、
本当にそうしなくてもいい。
遠慮しているのではなく本当だ。
自分はこれ以上、高貴な人と
関わりたくないと言いました。
皇女ラティルは、
そんなはずがない。
じぶんと関わりたくない人が
どこにいるのかと尋ねました。
その言葉にタッシールが黙っていると
皇女ラティルは、
今、自分は
父帝のお使いに行く途中である上、
自分の状況が良くない。
だからこれを渡す。
これを持って
タリウム宮殿を訪ねてくれば
自分の所へ案内してくれるだろう。
その時、自分が恩返しをすると言った
その瞬間。 タッシールは、
もう耐えられないかのように
呟きました。
父帝は、
ラティルを亡き者にするために
お使いと称して、ラティルを
どこかへ行かせようとし、
同行者の中に暗殺者を
忍び込ませたのですね。
父帝はレアンに言われるがままに
そのようにしたのでしょうけれど、
どんな気持ちで、
部下たちにラティルの暗殺を命じ、
ラティルを送り出したのか、
それを考えると胸が痛みます。
そして、そのことを知らない
皇女ラティルを、タッシールは
どんな気持ちで見守っているのかと
思うと、こちらも胸が痛みます。