674話 タッシールが密かに受け取った手紙の中身は?
◇倒れた青年◇
謁見の順番が来て
ラティルに近づいて来た青年が、
彼女の前で突然倒れました。
ラティルは、
彼が転んだと思い、
起き上がるのを待ちました。
しかし、時間が経っても
青年は倒れたままでした。
様子を見に、
青年に近づいた侍従は
気絶しています!
と叫びました。
侍従長は、彼を連れて行くよう
厳しい声で指示しました。
実際に皇帝を見て、感激のあまり
気絶する人は珍しくないので
彼は、全く
驚いた顔をしていませんでした。
二人の宮廷人が近づいて来ると、
青年を担架に乗せて外に出ました。
青年が出て行くと、ラティルは
次の順番の人に
あなたの順番が先に来ましたね。
と笑いながら話しかけました。
その言葉に、謁見に来た人は慌てて、
恐縮だと返事をしました。
ラティルは、その人に
何の用事で来たのかと尋ねました。
一人が倒れたことを除けば、
謁見は普段のように、
何事もなく終わりました。
今日は重苦しい事情を
伝えて来た人もいなかったので、
ラティルも、いつもより
気分が軽くなりました。
ラティルは玉座から立ち上がると、
先程、倒れた青年について、
侍従長に尋ねました。
侍従長は、
まだ目覚めていないようだと
答えました。
ラティルは、あの青年は誰なのか。
どこかの商団の話が
出ていたような気がすると言うと、
侍従長は、謁見申請人の
名簿を調べました。
すると、あの青年は、
タッシールのアンジェス商団の
ライバルであるアングル商団の
親戚の甥であることが分かりました。
ラティルは、
確か、そう言っていたと話すと、
なぜ、商団の頭の親戚の甥が
謁見を申請したのか。
アングル商団なら、
願い出れば、すぐに自分を
訪ねて来ることができるはずなのにと
不思議がると、侍従長は、
商団の頭でも後継者でもなく、
親戚の甥だからではないかと
意見を述べました。
確かに、親戚の甥は、
少し曖昧な立場なので、
ラティルも、
その意見に納得しました。
それでもラティルは
アングル商団の知名度を考え、
彼を客用宮殿へ連れて行き、
宮医に一度診てもらうよう
手厚い指示を出しました。
それから、ラティルは
タッシールに、
このことを知らせるべきかと
尋ねましたが、侍従長は
知らせなくてもいいのではないか。
タッシールと縁続きながら、
彼の元を訪ねて来たはずだからと
答えました。
ラティルは頷くと、
執務室に戻りました。
◇ヘイレンの治療◇
その後、ラティルは
その青年のことを
すっかり忘れてしまいました。
ラティルは一日に数十人、
多い時は、百人を超える人々に
会うからでした。
それに最近は、サーナット卿と
皇女とゲスターのことで
頭がいっぱいで、
謁見中に倒れた人のことを
ずっと考える暇はありませんでした。
ラティルはいつものように働き、
その晩タッシールに
会いに行きました。
約束通り、
ヘイレンを治療するためでした。
ラティルは明るく笑いながら
ヘイレンに近づきました。
彼は泣きべそをかき、俯きながら
今回は本当に、
大丈夫でしょうね?
と確認しました。
ラティルは、
自分を信じられないのかと
抗議しました。
ヘイレンは、
前は噛むだけだったからと
言い訳をしました。
ラティルは、
その時よりは、今回は
信頼度が上がったと告げると、
ヘイレンは、
さらに泣きべそをかきましたが、
それでも覚悟を決めていたのか、
彼から、石鹸の香りがしました。
ラティルは、
良い香りがすると呟きました。
その姿を見ていたタッシールは、
まるで皇帝に、
自分の部下を捧げるような感じだと
呟きました。
その言葉にヘイレンは、
泣きべそをかいて抗議しましたが
タッシールは腕を組んで
ラティルを
じっと見つめるだけでした。
ラティルは、これ以上何も言わずに
ヘイレンの首筋に口を近づけました。
慣れていないせいか、
ヘイレンは肩をすくめました。
ああ、見るに堪えられない。
と、タッシールは嘆きましたが、
ヘイレンは緊張しているのか、
彼を責めることもできませんでした。
ラティルは落ち着いて
ヘイレンの首筋を噛みました。
彼は悲鳴を上げましたが、
ラティルはアリタルが
落ち着いて吸血鬼を作った様子を
思い出しました。
私の首です。 私の首です。
噛むだけです。
噛みちぎらないでください。
とヘイレンは懇願しました。
タッシールは、皇帝が
ヘイレンの首を口にくわえたまま、
目をパチパチさせて
考え込んでいると、
手で口元を覆いました。
首を噛んだまま、キョトンとして
目を瞬かせる皇帝は、
初めて狩りに出て、何もできない
小さな虎のように見えました。
そして、ヘイレンが
この考えを聞いたなら、
心の中で自分に
罵声を浴びせるだろうと思いました。
しばらく、
その状態が続きましたが、
ついにラティルは
ヘイレンの首から口を離しました。
ラティルは
終わったようだけれど、
どう?
と満足げに尋ねました。
ヘイレンは、
首筋を手で擦りながら、
痛いと呟きました。
ラティルは、何か変化を感じるかと
尋ねると、ヘイレンは、
痛みしか感じないと答えました。
その言葉に、ラティルは
何も言えないでいると、
ヘイレンは、
魂が抜けたような皇帝の顔を見ながら
明日の朝、太陽が昇ったら
確認してみる。
そうすれば確実に分かるからと、
彼女を気遣いながら返事をしました。
ラティルは、
良かったら、明日の朝、
大丈夫だと言いに来て欲しいと
頼みましたが、
今回は、きちんとヘイレンを
治せたような気がしたので、
満ち足りた気分でした。
それから、ラティルは
今日の昼に、
アングル商団の頭の親戚の甥が
謁見中に倒れたけれど、
それについて聞いたかどうか
尋ねました。
タッシールは、
聞いたと答えると、ラティルは、
知り合いなら、
彼の居場所を教えるので、
彼に会いに行くかどうか尋ねました。
タッシールの口元に、
数多くの多種多様な策略を
仕掛けて来た者のような笑みが
浮かび上がりました。
それに気づいたラティルは、
親しくないのかと尋ねると、
ヘイレンは、
顔は知っているけれど、
アングル商団の頭と
アンジェス商団の頭の
仲が良くないのに、
若頭が、あちらの親戚と
仲が良いはずがないと答えました。
ラティルも、
本当に親しいと思って
聞いたわけではなく、
親交があるかという意味で
質問しただけでした。
しかし、ラティルは、
その言い訳をせず、
タッシールともう少し話をして、
椅子から立ち上がりました。
タッシールは
ラティルを見送ると言って
扉まで付いて来ると、
もし、その青年が
時間が経っても目を覚まさないのに
宮医は体に異常がないと言ったら、
ゲスター様に診てもらったらどうかと
提案しました。
ラティルは、
なぜ、ザイシンではなく
ゲスターなのかと理由を聞くと、
タッシールは、
ゲスター様は、そのような方面に
詳しいから。
体の具合が悪いのなら
ザイシン様が良いけれど、
そうでなければ
ゲスター様が一番詳しいから
と説明しました。
タッシールの言葉は、
一見、理にかなっているように
聞こえたので、
ラティルは頷いた後、
廊下を歩いて行きました。
皇帝が完全にいなくなると、
ヘイレンは扉を閉めながら、
なぜ皇帝に、
あのような提案をしたのか。
アングル商団の頭の親戚の甥は
イケメンで有名だし、
しかも二番目の坊ちゃんが
手紙で警告して来たではないかと
尋ねました。
数日前、
タッシールの一番目の弟が
手紙で警告して来たことによれば、
アングル商団の頭と父親が
大喧嘩をし、
そのことでアングル商団の頭は父親に
タッシールは平民だから
絶対に皇配になれないと
暴言を浴びせた後、
妙な話をしたということでした。
その言葉が気になった
アンジェス商団の頭は、次男に
アングル商団を調べさせました。
その結果、彼らは、
アングル商団の頭が、ここ数ヵ月間、
イケメンの親戚を探すために
あちこち探し回ったという話を
突き止めました。
ヘイレンは、
謁見室で倒れたという
イケメンの青年は、
きっと、アングル商団の頭が
皇帝を誘惑させるつもりで
送り込んだのだから、
皇帝に、そのことを
伝える必要があるのではないかと
言いました。
しかし、タッシールは
伝えてどうするのか。
イケメンに罪はないと反論しました。
それでも、ヘイレンは、
なぜ、ゲスターを
行かせるよう勧めたのか。
ゲスターが彼を引き受けたら、
皇帝が、彼の状態を確認しに行き
青年の顔を見るかもしれないと
心配しました。
ヘイレンの言葉の中には
皇帝に対する信頼が
少しもありませんでした。
その言葉を聞いたタッシールは
ニヤリと笑って、
皇帝が色々確認するのは
いいことだと返事をしました。
ヘイレンは、
色々確認するとは
どういうことなのか。
青年の顔や状態の他に
何か確認することがあるのかと
尋ねると、タッシールは
ゲスター様の性格とか。
と答えました。
◇元に戻らない◇
翌日、ラティルの命令により
謁見室で倒れた青年を診察した宮医は、
あの青年の体に、
特に異常は認められない。
それでも目が覚めずにいるのは
変なので、
もしかして魔術などの類が
原因ではないかと報告しました。
ラティルはしばらく悩んだ末、
タッシールの助言を
受け入れることにし、侍従に、
ゲスターを呼んで、
あの青年の状態を調べるよう伝えろと
指示しました。
その後、書類を見ていたラティルは
サーナット卿をチラッと見ました。
あの廃屋から戻って来た後、
元の状態に戻ったのは
ゲスターだけで、
サーナット卿は、まだラティルと
一線を画していました。
それでも、ラティルが
少しサーナット卿を見つめただけで
どうしたんですか?
と尋ねるのは、以前と同じでした。
ラティルは
何でもない。
サーナット卿が静かだったので
何をしているのかと思って見たと
答えました。
すると、サーナット卿は、
皇帝を見つめていたと答えたので、
ラティルは、
自分のことが好きだから
見ていたのかと尋ねると、
サーナット卿は
自分は皇帝の護衛だからと
答えました。
ラティルは肩を落として
前を向くと、
サーナット卿の口角が上がりました。
しかし、すぐに彼は、
自分の表情を引き締めました。
ラティルは後ろで
何が起こっているのか
分からないので、
膨れっ面でペンを取りました。
それから、
なぜ、ヘイレンから
連絡が来ないのか。
夜明けに確認してみて、
きちんと変化したかどうか
話してくれることになっていたのにと
思いました。
◇なぜ坊っちゃんに?◇
ゲスターは、ドレッサーの前に座って
トゥーリに髪を任せていた時、
皇帝の執事から、
謁見の途中で倒れた青年を
ゲスターに診て欲しいと
皇帝が頼んだという話を
聞かされると、目を丸くして
皇帝の執事を見つめ、
私がですか?
と聞き返しました。
ゲスターが黒魔術師であることを
知らないトゥーリは、
皇帝に命じられたから
仕方がないけれど、
なぜ、それをうちの坊ちゃんに
確認させるのかと戸惑いました。
執事は、
自分もよく分からないけれど
皇帝は、
その人の状態がおかしいと
話していた。
宮医によれば、
体の調子は良いとのことだけれど
一日経っても目が覚めないと
答えました。
トゥーリは
そうだとしても、
うちの坊ちゃんが
診る必要があるのかと
不平を漏らすと、執事は、
その青年は
タリウムで一番大きな商団の一つの
アングル商団の頭の親戚の甥なので、
皇帝は、
特に気を遣っているようだと
説明しました。
侍従が退くと、
トゥーリはさらに首を捻りましたが
ゲスターは、普段、自分が
変わった本を
たくさん読んでいるせいだと思うと
言い訳をしました。
それでも、トゥーリは、
大神官に任せた方が
いいのではないか。
なぜ、坊ちゃんを呼ぶのかと訝しみ、
本を読んでいることが
何の関係があるのか
理解できませんでした。
しかし、皇帝の命令を
拒否することはできませんでした。
ゲスターは何も考えずに
トゥーリを連れて
客用の宮殿に行きました。
道案内した侍従が指差した
小さな建物の中に入ると、
ベッドに横になっている
細長い人影が見えました。
ゲスターは、
照れくさそうな笑みを浮かべて
近寄りましたが、
目つきが冷たくなりました。
ベッドに横になっている青年は
目を閉じているのに、
目鼻立ちがはっきりしていました。
トゥーリは、
イケメンなので、
皇帝が治療してくれと言ったようだと
後ろから小さな声で呟きました。
侍従が扉を閉めて出て行くと、
トゥーリは、
もしかして、この人は
新しい側室候補ではないかと
心配そうに尋ねました。
ゲスターは、
そんなはずは・・・
と否定しましたが、トゥーリは、
そうでなければ、
わざわざ坊ちゃんに頼まないと
主張しました。
しかし、ゲスターは、
新しい側室候補を自分に治療しろと
皇帝が言うのも変だと
反論しました。
けれども、トゥーリは、
坊ちゃんが側室の中で一番弱いので
前もって顔を
覚えさせるのではないかと、
絶えず否定的な推測ばかりしました。
ゲスターは無理矢理微笑むと、
喉が渇いているので、
冷たいジュースを
持って来て欲しい。
自分がいつも飲んでいる物をと
頼みました。
ゲスターが
いつも飲んでいるジュースを
持ってくるためには、
ハーレムまで
行かなければなりませんでした。
少し時間がかかりますが、
トゥーリは、
すぐに飛び出しました。
扉が閉まると、
ゲスターは先ほどとは表情を変えて
ベッドに横たわっている
イケメンを見下ろしました。
そんなゲスターを、
ラティルは部屋の扉を少し開けて
見つめました。
ゲスターについて話して欲しいと
頼んだ時から、
タッシールは、少し変な返答を
繰り返していたし、
今回、ゲスターを推薦したのも
少し変だと思ったラティルは、
タッシールが自分に
知らせたいことがあるようだと
推測しました。
久しぶりに登場したアングル商団。
頭の娘を皇帝の側室にすることが
できなくても、
親戚の中から、
ラティル好みのイケメンな男を
選んで送り込んで来るなんて、
さすが、アンジェス商団と
肩を並べるだけあると思います。
確かにラティルの側室たちは
イケメン揃いだけれど、
ラティルは、顔さえ良ければ、
誰でもいいというわけではないので
この青年は、ネイトン同様、
ゲスターに酷い目に遭わされて
何の成果も出せないで
終わるのでしょう。
そして、タッシールの口から
ゲスターの本性を
明かすことはできないけれど
ラティル自身で確認できるよう
事を運んだタッシール。
さすがです。