84話 皇太子夫妻がアルビスを訪れています。
グレバー先生の家は、
町から少し離れた所にありました。
レイラは、市内で買った花束と
去年の夏に、
アルビスで摘んだ果物で作った
ジャムを持って、
グレバー先生の家を訪れました。
レイラを迎えたグレバー先生は
満面の笑みを浮かべながら、
そうでなくても、首を長くして
待っていたところだったと
告げました。
他の人は全員到着しているのかと
尋ねると、レイラは驚いた目で
腕時計を確認しました。
招待された時間まで、
まだ10分残っていました。
グレバー先生は、
遅れたわけではないので
心配しないように。
皆、ルウェリン先生に
皇太子夫妻の話を聞きたくて
早めに来ただけだと返事をすると
期待に満ちた笑みを浮かべながら、
レイラをダイニングルームへ
案内しました。
テーブルを囲んでいた若い教師たちは
グレバー先生にそっくりな目つきで
一斉にレイラを見つめました。
そして、
レイラが椅子に座るや否や彼らは、
皇太子に本当に会ったのか。
皇太子と皇太子妃はどうだったか、
とか、
新聞に記事が載っていたけれど、
二人の赤ちゃんも一緒に来たのか、
とか、
自分たちが
新聞記事でしか見られない皇太子に
直接会えたルウェリン先生が
本当に羨ましいと、
すさまじい勢いで話し始めたので
レイラは戸惑いました。
レイラは、唇に
少し照れくさそうな笑みを浮かべながら
遠くから通り過ぎる姿を見ただけ。
新聞に載った写真の方が
自分が実際に見た姿より
ずっと詳細だと答えました。
しかし、彼らは、
遠くからでも、
直接、目で見たことが重要だと
主張すると、新しい話題として、
ヘルハルト公爵と皇太子が
親しい友人なのかについて
レイラに確認しました。
レイラは、訳もなく
水の入ったグラスをいじりながら
目を伏せました。
ヘルハルト公爵とリンドマン侯爵、
そして皇太子を天秤にかける言葉が
慌ただしく交わされました。
食べ物をテーブルに並べた
グレバー先生は、
それでもやはり、自分は
ヘルハルト公爵が一番素敵だと思うと
断固として言うと、
レイラの意見を求めました。
彼女は「えっ?」と聞き返すと、
ようやく想念から覚めて
頭を上げました。
すると、今度は別の教師が、
三人を直接見たルウェリン先生は
どう思うかと尋ねました。
レイラの目がピクピク震えました。
つまらない冗談に過ぎないのに、
その名前が一体何なのかと思いました。
気軽に言葉を続けられない
レイラを見ていたある先生が
にっこり笑いながら、
当然ルウェリン先生は、
ヘルハルト公爵だろうと言いました。
その言葉にレイラは、
胸がドキッとしましたが、
続けて、その先生が、
ルウェリン先生にとって
ヘルハルト公爵は恩人なので、
その質問は公平ではないと
言ってくれたので
レイラは初めて、まともに
息を吐くことができました。
適当に頷いて同調している間に、話題は
庭師の過ちを寛大に許してくれた
ヘルハルト公爵の人柄に対する称賛に
流れました。
恩人。
胸を締め付けるトゲのような
その単語の前でも
レイラは笑いました。
その痛みの大きさほど、
公爵がさらに憎くなりました。
美味しい食事と楽しい会話をした後、
レイラはグレバー家を出て
家に帰る途中、
行きつけの食料品店に立ち寄って
買い物をしました。
レジの前には、いつものように
今日付けの新聞が並んでいて
思わずそれを見た
レイラの瞳が揺れました。
笑って握手を交わす
皇太子とヘルハルト公爵の写真が
彼らのそばに立っている
皇太子妃とブラントの令嬢と共に
大きく載っていました。
皇太子夫妻のために準備された
賑やかなパーティーと晩餐が続いた
数日間が過ぎると、アルビスの雰囲気も
落ち着いて来ました。
今日は晩餐会の前までは、
いかなる集まりや行事にも
出席しないという意思を明らかにした
皇太子は、昼食後、
マティアスとリエットと共に
ずっとヘルハルト家の書斎に
留まりました。
ソファーに横になるように座って
最近の大陸情勢に関する皇太子の話を
聞いていたリエットは、慎重な目つきで
それでも、まさか
最悪の事態にはならないでしょうね。
ああだこうだ言っても、
結局、大陸の数多くの王家は
血縁で結ばれているのだからと
丁重な口調で言いました。
向かい側に座った皇太子は
苦笑いをしながら
元々、家族間の争いが
一番卑劣で熾烈だということを
知っているはずだと返事をしました。
そして、
しばらく虚空を眺めていた皇太子の目が
マティアスに向かいました。
彼は椅子の奥深くにもたれかかって
暖炉の炎を眺めていました。
今、この書斎に流れている
ワルツのリズムに乗っているように
つま先を動かす姿が、まるで、
のんびりと音楽を鑑賞する人のように
見えたりもしました。
しかし、ヘルハルト公爵を
長い間見てきた皇太子は、
悩みが深ければ深いほど
彼は静かになるということを
知っていました。
腰を起こして座ったリエットは
もし全面戦争に発展したら、
皆の予想通り自分たちが勝利するのか、
海外戦線を経験した
ヘルハルト大尉の見解を聞きたいと
要求しました。
マティアスは、
ようやく彼らの方を向くと、
簡単ではないと答えました。
絶望的な返事でしたが、
その表情と話し方は
まるで楽観的な人のように平穏でした。
マティアスは、
ベルクとロビタの戦争なら
十分勝算はあるけれど、
もし開戦したら、
その程度の規模では済まないだろうと
言いました。
皇太子は、
「そうだろう」と返事をすると
心配そうにため息をついて頷きました。
大陸の王国間の対立は日に日に
深まっていました。
リエットの言葉のように、系図を遡れば
すべての王家が血縁と言っても
過言ではありませんでしたが
そのような感傷的な理由で和解するには
絡んでいる利権が過度に大きく、
数多くの同盟と条約が
中途半端に絡み合っている今の情勢では
両国間の戦争は、
すなわち全大陸の戦争と
変わりませんでした。
リエットは、
あまり心配しないように。
このような心配は、祖父の代から
ずっと続いて来たことだけれど
実際、
現実になったことはなかった。
もし運悪く、現実になったら、
この機会に、自分たち全員が、
戦争の英雄になってみるのも
悪くないだろうと、
丁重な口調で冗談を言いました。
皇太子は笑みを浮かべながら、
「確かに」と返事をすると、
リエットが、
そんなに丁重にしていると
不安になるので
いつも通りにするようにと頼みました。
リエットは、帝国の巡幸という
公的な業務を遂行中の皇太子に、
あえて私的な態度を
取るわけにはいかないと、
かけがえのない忠臣のような
言葉を吐き出しながらも、
いつのまにか
また半分横になっていました。
先程まで見せていた威厳を
忘れた皇太子が
しきりにクスクス笑うと、
とぼけていたリエットも
笑い出しました。
幼い頃から、彼らは
このように付き合ってきました。
歳月が流れて、ごたいそうな爵位を
一つずつ持つようになっても、
その本質が、大きく変わるわけでは
ありませんでした。
マティアスは、
少年のように笑う二人を見た後、
窓の外に視線を移しました。
朝遅くに、
どこかへ出かけるレイラを見ました。
端正な服装が美しく、
かなり気を揉んだ先程の会話を
しばらく忘れたほどでした。
贈り物を与えても喜ぶことを知らない
愛人だなんて。
愛人の効用と価値が
楽しみにあるとすれば、
レイラ・ルウェリンは
それこそ、ひどい愛人でした。
それでも捨てたくない理由を
マティアスは、あえて深く
覗きたくありませんでした。
長い間、切望して
とうとう手に入れた。
それで十分でした。
自分を憎んでも、
自分を酷いと思っても
レイラ・ルウェリンは自分の女、
自分のものでした。
マティアスは、笑顔を取り戻した顔で
茶碗を握りました。
自分の小鳥。
柔らかな羽のような金色の髪の感触と
彼の下で、パタパタする
仕草が思い浮かびました。
マティアスが、その体を知っていくほど
彼の鳥は、さらに美しく
鳴くようになりました。
そして、その泣き声を
聞かなくなってから、
もう数日経っていました。
その事実を思い出すと、
茶碗を握った手に
そっと力が入りました。
こんな欲望に狂っている自分が
理解できないけれど、
いつの間にか、
そうなってしまいました。
床でめちゃくちゃに絡み合った
最初の夜以降、
マティアスの全ての感覚は、
鋭敏に刃が立ったまま
レイラに向かっていました。
大したことでもない刺激にも
熱が上がり、頭の中が曇りました。
そんな時は、
まるで、あの小さな女が
世界の全てのようでした。
そのとんでもない考えは
あまりにも甘美なので、
あえて否定したくありませんでした。
美しい自分の小鳥。
鳥の目を隠して
小さな翼の羽を切ることは、
もう少しも難しいことでは
ありませんでした。
羽が落ちて床に届く頃、
ハンカチを片づけると、
鳥はブルブルと体を震わせました。
遠くに飛べなくなった翼を
パタパタさせながらも、
すぐにまた澄んだ優しい目で
彼を見つめて歌いました。
時々、マティアスは、
その瞬間の鳥を片手で
握り潰したい衝動に
駆られることがありました。
ただ自分だけのために、
鳥が最も美しく歌ったその瞬間を
永遠に
大切にすることができるように。
レイラを抱く時も、
度々、そのような気分になりました。
拒否して逃げるばかりだった女が
自分で満たされ、それによって
身悶えしながら、
ただ自分だけのために泣くその瞬間に
時間が止まって
永遠に留まることができればと
思いました。
焦点がぼやけた朦朧とした目で、
全身を赤くしたまま
揺れながら彼を受け入れるレイラは
恐ろしいほど美しく、
むしろ、その細い首を
絞めてしまいたいと思いました。
本能的な快感に飲まれ、
甘いうめき声を上げながら
しがみついて来る時は、
彼女を頭のてっぺんからつま先まで
飲み込んでしまいたくもなりました。
「マティアス?」と
急かすように名前を呼ばれたので
そちらへ目を向けると、
立ち上がっているリエットと
皇太子が見えました。
開かれたドアの前で待機中の
侍従たちを見て、マティアスは、
自分がしばらく他のことに
気を取られていたことに気づきました。
あまり喜ばしいことでは
ありませんでした。
茶碗を置いたマティアスは、
何事もなかったように
立ち上がりました。
そろそろ晩餐の準備をする時間でした。
書斎を出る前、マティアスは
無意識に窓の向こうを眺めました。
ふと、レイラが戻って来たのかが
気になりました。
この世に、あの女が
他に行く所なんてないということを
知りながら、
こんな無意味なことを考えるのは
滑稽なことでした。
雑念を消すように、マティアスは
そのくらいで背を向けました。
しかし、寝室に入ると、
再びその名前が浮び上がりました。
すでに手に入れたのに、
完全に自分の物とは思えない
妙な不安感を与える女でした。
もし戻ってこなかったら?
マティアスは着替えている間、
ずっとその不愉快な疑問を
反芻しました。
レイラが自分の命のように思っている
ビル・レマーを置いて
決して逃げられない女だということを
すでに知っていても、無意味でした。
彼女が自分から離れる?
カフスボタンを留めていた
マティアスの手が突然止まりました。
この仮定をした時、マティアスは
怒りや苛立ちを覚えるよりも、
むしろ呆れました。
とてもあり得ないことなので
多少、滑稽にさえ感じられました。
太陽のない昼と星を失った夜の方が、
それよりもはるかに
あり得そうでした。
そばに立っていた随行人が
慎重にマティアスに声をかけると
彼は、
ようやくカフスボタンを留めて
振り向きました。
随行人がイブニングジャケットに
ブラシをかけている間に、
マティアスは、鏡に映った自分の姿を
静かに眺めました。
最初にカナリアの翼を切った日のことが
その鏡の中に浮び上がりました。
適正ラインを誤って、
深く切ってしまった翼から血が流れると
鳥は苦痛にもがきました。
しかし、すぐに血は止まり、
彼のカナリアは無事でした。
マティアスは、
飛べなくなったその哀れで美しい鳥を
さらに大事にしました。
鳥が気兼ねなく彼に近づき、
歌い始めたのは、その後からでした。
切られた翼の羽が再び伸びても
鳥はもう彼から逃げませんでした。
彼の鳥は鳥かごと彼を愛しました。
ドレスルームを出たマティアスは、
寝室の鳥かごの前に近づきました。
止まり木に座っていた鳥は
首を傾げながら彼を見ました。
永遠に飛べなくなったら
もっと可愛がってあげることが
できただろう。
鳥かごなしで、より広い世界の中で、
はるかに多くのものを与えながら。
腕時計を確認した随行人が
「時間です」と告げると、
マティアスは窓の向こうに
目を向けました。
日が沈みかけても、依然として
レイラは見えませんでした。
レイラの体は
マティアスのものになったかも
しれないけれど、
レイラはマティアスに
心まで渡していないと思います。
レイラがマティアスのことを
好きだとしても、
ビルおじさんやカイルに
与えるような愛を
彼に与えていないので、
マティアスは
不安になっているのではないかと
思います。
マティアスはレイラを支配して
彼女から自由を奪っているので
二人の関係は対等ではないし、
レイラの性格上、
このまま愛人のままだったら、
彼女はずっと自分を許せず、
自分を嘲りながら
過ごすことになるので、
マティアスが望むような愛を
レイラは彼に与えないでしょうし
彼から離れることだけを
考え続けるのではないかと思います。
レイラが本当に耐え切れなくなって
行動に移す時、ようやくマティアスは
レイラがカナリアとは違うことに
気づくのではないかと思います。
ベルクとロビタが
戦争をするかもしれないと
ありましたが・・・
ベルクの皇女だった
オデットの母親は
ロビタの王太子と婚約していたけれど
ディセン公爵と駆け落ちしたので
結婚は破談になった。
そのため両国の関係が悪化して
とうとう戦争に突入しそうな
状況になったのではないかと
思いました。