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139話 カイルを通して、レイラはマティアスからの書類を受け取りました。
レイラは長い間黙っていました。
喜ぶこともないし、そうかといって
驚くこともありませんでした。
落ち着いて書類を読み
頷きました。 それが全てでした。
カイルはふと心配になって、
レイラを呼びました。
もしかして、また病状が
悪化したのではないかと
心配さえしました。
幸い、レイラは
「あの人は?」と
淡々とした声で尋ねました。
カイルは、
公爵はいないと答えました。
レイラは「 いないの?」と
聞き返しました。
カイルは、
皇太子がいる後方部隊に、
ここでの状況を報告しに行った。
三日ほどかかるだろうと
答えました。
「三日」
レイラは、
言葉を習い始めたばかりの子供のように
カイルの言葉を真似して
繰り返しました。
カイルは、
その間に、ここを離れればいい。
公爵が許可したことなので、
誰も止めないと言いました。
レイラは
「そうですか」と呟きました。
カイルは、
だから心配いらない。
その書類も
公爵が直接した約束だと言いました。
「約束」と、
レイラは今度は声を出さすに
唇の動きだけで囁きました。
そして、カイルを通して渡された
彼からの書類を、再び見下ろしました。
公爵は、
レイラ・ルウェリンと彼女の子供が
不自由なく暮らせる基盤を用意すると
約束しました。
それは同情でも施しでもなく、
彼に許されることを願う
最小限の責任だということ。
レイラ・ルウェルリンが望まない限り
それ以上の介入は一切ないという
詳細な条項も
付け加えられていました。
レイラ・ルウェルリンが産んだ子供には
マティアス・フォン・ヘルハルトの
子供としての権利があることを
保障するけれど、
もし、ヘルハルトの名前とは関係のない
存在に育てたいなら、
その意思も受け入れる。
どんな選択をしても
レイラ・ルウェリンの決定を
全面的に受け入れると
述べていました。
そのために、レイラ・ルウェルリンが
履行しなければならない義務も
明示されていました。
子供と一緒に、今のところ最も安全な
ベルク帝国に行くこと。
戦争が終わった後、
生活の基盤を移すことを希望するなら
その時は、
その選択を尊重すると述べていました。
それ以外の全ては、
レイラ・ルウェリンの自由な選択に
委ねられていました。
ラッツへ行けば、
ヘルハルト家の弁護士が、
これらの約束を
履行してくれることになっていました。
選択。尊重。自由。彼と自分の間に
存在し得ないと思っていた、その単語を
レイラは、
しばらくじっと見つめました。
何が起こったのかを理解するまでに、
その後も、さらに
いくらかの時間が必要でした。
あの朝の会話は夢ではなかったと
レイラは、
ようやく分かった気がしました。
すると、また考えが止まりました。
カイルは、
今すぐ住む場所を変えるのは
どうしても無理だろうから、
明日あたりはどうかと、
焦点の定まらない
レイラの目を見つめながら、
催促するように尋ねました。
まだ完全に治っていないレイラを
追い詰めたくないけれど、
心が自然と焦りました。
公爵が、この種のことを
自分に言うなんて、カイルは
全く思ってもいませんでした。
レイラを解放するなんて。
信じられない決定でした。
実は今もそうでした。
だから、もっと
焦っているのかもしれませんでした。
あの男が心変わりする前に
全てを終わらせなければならないと
思いました。
彼がシエンを離れている間、
彼はレイラの住居を移すことを
指示しました。
爆撃で壊れた家の代わりに、
過ごせる場所を用意していました。
しばらくそこに滞在して健康を回復し
長い旅に耐えられるようになったら
レイラは、ラッツへ向かうことに
なっていました。
公爵は、その全ての責任を
カイルに委任しました。
カイルはレイラに
「大丈夫?」ともう一度促すと、
レイラはようやく目を上げて
彼を見ました。
カイルは、
レイラが驚くのも分かる。
自分もそうだったから。
それでも、これは明らかに現実だ。
だから、怖気づいたり
躊躇しなくてもいいと助言しました。
カイルは、なかなか、
心を落ち着かせられませんでした。
分別なく、
喜んだり浮かれてはいけないと
決意しても無駄でした。
レイラを取り戻した。
そう考えるだけで、カイルは
胸がいっぱいになりました。
19歳の夏。
全てが、ずれてしまったあの頃へ
時間を、
巻き戻せたような気もしました。
握っていた書類を
サイドテーブルに置いたレイラは、
慎重にベッドの下に降りました。
カイルは彼女を支えようとして
近づきましたが、
レイラは小さく首を横に振ることで
断りました。
よろめきながら歩くレイラの数歩後ろを
カイルは付いて行きました。
倒れそうになりながらも、
レイラは客室のドアの前まで
近づきました。
ドアはもう
鍵がかかっていませんでした。
目で見ても分かるその事実が、
レイラは、
すぐに信じられませんでした。
鎖と錠前が消えた跡を辿る指先が
細かく震えました。
しばらくしてレイラは、
そっとドアノブを回しました。
あちこちに、へこみがあり、
引っかき傷だらけのドアは、
何の抵抗もなく、すっと開きました。
ようやく現実感が沸いて来ると
レイラの瞳にも
焦点が戻って来ました。
彼から抜け出した。
レイラはもう自由でした。

ぬかるみから車輪が抜けた車が
再び止まりました。
もう何回目か分からない状況に
運転兵はもう諦め顔でした。
運転兵はマティアスに謝りました。
困った様子の運転兵に向かって
頷いたマティアスは、
ついに車から降りました。
この二日間、かなりの雨が降ったせいで
舗装されていない道路の状態は
滅茶苦茶になりました。
しかし近道である道路と橋は
占領地の民兵隊が破壊してしまったので
この泥道が今の最善でした。
続いて車から降りて来た少尉は、
もうすぐ日が暮れそうだけれど
夜間の移動はとても危険だと言って
心配そうな目で西の空を見上げました。
まもなく日が沈み始める時間でした。
マティアスは、
ここから一時間ほど移動すると、
自分たちの部隊の駐屯地があるので
今夜はそこで休もうと指示しました。
少尉は安堵した表情で、
そのように伝えると返事をすると
ぬかるみにはまった車を
押し出すことに成功した
二人の兵士のそばに駆けつけ、
指示事項を伝えました。
時間を確認したマティアスは
タバコを吸い始めました。
帰っても、もうレイラのそばには
いられませんでしたが、
だからといって、
このように時間を無駄にしたくは
ありませんでした。
もしかしたら、予想よりもう少し早く
レイラを手放さなければならないかも
しれませんでした。
ここの戦線は安定していました。
ゲリラが問題を起こしたとしても、
後方の兵力や補給線が安定しているので
進軍するのに無理はなさそうでした。
ただし、皇太子は、
あまりにも静かな南部連合軍のことを
懸念していました。
マティアスの見解も同様でした。
序盤の攻勢で押されはしたものの、
今、彼らは少し異常なほど簡単に
要衝地を明け渡していました。
味方の圧倒的な
勝利かもしれませんでしたが、
もしかしたら、敵軍が意図的に
後退しているのかもしれませんでした。
もし、このままベルク軍が
ロビタの奥深くまで進軍した状態で、
南部連合軍に合流した
参戦国の軍隊が上陸し、
退路と補給路を遮断したとしたら?
皇太子は、
その最悪のケースを想定して
懸念を表明していました。
もちろん、これ以上、南部連合に
力を貸す国は残っていないと
確信しているフォン・デルマン将軍は、
進軍の意思を曲げないだろうけれど。
この状況の鍵を握っているのは
海の向こうの王国エタールでした。
ロビタが最も信頼していた
同盟国だった彼らは、
すでに数ヶ月間、
遅々として進まない態度を取り、
参戦を回避していました。
このままずっと裏切り者として
残ってくれればいいけれど、
ロビタは胸ぐらをつかんででも
彼らを戦線に引きずり出そうと
必死になっているだろうから、
楽観視してはいけませんでした。
万が一、反撃が始まれば、
シエンは最も激しい戦場に
変わるだろうから、
その前に、レイラをベルクに
送らなければなりませんでした。
出発準備を終えた兵士たちが
「終わりました、少佐」と
声を上げて彼を呼びました。
タバコを消して
そこへ向かっていたマティアスは、
突然眉を顰めて立ち止まりました。
素早く周りを見回す彼の目は
鋭く落ち着いていました。
「少佐、何か問題でも・・・」
怪訝に思いながら
近づいてくる部下たちを、
マティアスは片手を静かに上げて
制止しました。
もう片方の手は、
すでに銃口に触れていました。
妙な気配を感じた彼らも、
急いで戦闘態勢を整えた瞬間、
茂みの向こうに隠れていた民兵隊が
奇襲して来ました。
高い銃声が、のどかな田舎道を
揺るがし始めました。

三日目になっても
彼は帰って来ませんでした。
窓の前にいたレイラは、
背後から聞こえて来た物音に驚き、
慌てて振り返りました。カイルでした。
彼は微笑みながら、
準備は終わったのかと
明るく尋ねました。
公爵が去った後、
レイラは暇さえあれば、
窓際をうろうろしていることは
考えないことにしました。
カイルは、
まだ動くのが少し大変だと思うけれど
住む所は、
ここからそんなに遠くないので
もう、行こうと促し、
荷物は、あれで全部かと尋ねると
まるで何も聞こえていないかのように
平然と
ベッドの端に置かれているカバンを
準備しました。
「私は・・・」と
レイラが口を開くと、カイルは
あの男の元から
去らなければならないと言いました。
彼の顔から笑みが消えました。
ここ数日間、カイルは
雲の上を歩いているような気持ちで
楽しい想像をしてみました。
嘘のように、一夜にして戦争が終わり
レイラと一緒にラッツに戻る。
そこで結婚式を挙げ、レイラが夢見た、
美しい家庭を築く。
レイラが産む子供は、
喜んで自分の子供として受け入れ、
そして、いつか
自分とレイラの間の子供も生まれ、
みんなで幸せな家族になる。
カイルは、
自分の元へ戻ってくれと、
強要しようとしているのではない。
それは、できないことを
分かっていると言いました。
結局、実現できないことを
分かっていたからこそ、
より美しく、あれほど美しかった
童話のような想像。
その滅茶苦茶な望みを想像するのを
止めたカイルの目つきが
厳しくなりました。
レイラが熱病を患いながら
自分を探した理由は、
叶えられなかった愛に対する
未練などではないことを
カイルは知っていました。
自分はレイラの恋人である前に
大切な友達であり、
家族でもありました。
レイラが懐かしがっているのは、
アルビスで一緒に過ごした
幼い頃の彼でした。
知らないふりをして、
甘い錯覚に陥りたいと思いましたが、
そうするには、
レイラと一緒に過ごした年月が
あまりにも長過ぎました。
そして彼は、その年月の中のレイラを
誰よりも、よく知っていました。
レイラは、
他の男の子供を身籠ったまま、
彼の所に来てくれるような女では
決してありませんでした。
彼が何百回も理解し、
受け入れたとしても、同じでした。
しかし、恋人にはなれないとしても
レイラ・ルウェリンは
依然として彼の友人であり妹でした。
そんなレイラが不幸になる姿を
彼は絶対に見たくありませんでした。
カイルは、
自分は君が幸せになることを
望んでいる。
でも、あの男は絶対に、
君と子供を幸せにすることはできない。
公爵が君に何をしたか
考えてみるように。
君は今、あの男に苦しめられて、
まともな判断ができないでいると
力を込めて言いました。
言おうとしていたことを
言い切ることができないまま、
レイラは、
つま先を見つめました。
カイルは正しいことを
言っていました。
あの男は、
無闇に自分を苦しめたり、
踏みつけたりして、
数えきれないほどの消えない傷を
つけた男でした。
あれは、
ただの歪んだ欲望と執着に過ぎず、
愛ではありませんでした。
愛であるはずがありませんでした。
近づいて来たカイルが
レイラの手を握りました。
そして、ゆっくりと、
しかし、断固とした足取りで
客室のドアに向かって行きました。
レイラは雲の上を歩いているような
ぼんやりした気分で、
そんなカイルの後を追いました。
リンドマン侯爵に出くわしたのは、
ちょうどドアを開けて
廊下に出た時でした。
本当に去るつもりなの?
客室と向かい合っている
廊下の壁に
斜めに寄りかかっていた彼が
投げかけた質問が
鋭い破片のように飛んで来ました。
カイルは強張った顔で、
ヘルハルト公爵が許可したことなので
侯爵様が気にすることではないと
言うと
レイラに近づいて来たリエットの
前に立ちはだかりました。
リエットは目を細めて
カイルを見つめながら
自分が第三者だというなら
君も同じではないかと指摘しました。
しかし、カイルはリエットに
そこを退いて欲しいと要求しました。
リエットは
マティアスを庇うわけではない。
あの狂った奴にうんざりして
ぞっとしていることは
理解しているし、自分も分かっている。
しかし・・・と言ったところで、
長いため息をついて
額を手で押さえました。
レイラはカイル・エトマンの後ろで、
澄んだ目を上げて
彼を見つめていました。
リエットは、
それでも、彼は
ここまで来たではないか。
結局、結婚も放棄して、
最も、危険な戦線に志願して、
ルウェリンさん一人を取り戻すために
あの狂人が、
ここまで来たと言いました。
リエットは、
自分の髪の毛をかきむしるように
握っていた手に力を込めました。
レイラは、
ようやく焦点が合った目で
彼を見ました。
当惑するような顔をしていました。
彼女は、
今、何て言ったのかと尋ねました。
リエットは、
偉大なるヘルハルト公爵が、
一方的に婚約者に婚約破棄を宣言し
皆が引き止めたにもかかわらず、
危険な戦線へ向かう部隊に志願して、
シエンまでやって来たことを
知らなかったのかと尋ねました。
リエットも、
レイラのように当惑しました。
自分の全てを投げ捨てる勢いで
この女を熱望しながら、
そのような言葉一つも
まともに伝えられなかった愚か者を
一体どう理解すればいいのかと
悩みました。
もうレイラとヘルハルト公爵は
何の関係もない間柄だと、
カイルが冷たく吐き出した言葉が
明るい日差しで満たされた廊下に
響き渡りました。
カイルはレイラに
動揺しないように。
結婚しなかったからといって、
あの男は依然として、
マティアス・フォン・ヘルハルトに
過ぎない。
もし、子供のためと思うなら、
なおさら君は、
公爵から離れなければならない。
あんな男が
いい父親になれると思うのかと
訴えました。
子供という言葉が、
揺らいでいたレイラの瞳を
落ち着かせました。
レイラは、自分の膨らんだお腹を
見下ろしました。
レイラと子供に対する彼の感情は
何一つ正常ではありませんでした。
もしかしたら、彼も
そのような自分をよく知っていて、
このような決断を
下したのかもしれませんでした。
「ルウェリンさん」と
訴えるように名前を呼びながら
リエットが近づいて来ましたが、
カイルは固い壁のように
レイラの前に立ちはだかりました。
奇跡のような最後のチャンス。
カイルは頭を下げてレイラを見つめ
「行こう、レイラ」と声を掛けました。
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自分の願いがかなわなくてもいい。
とにかく、レイラが幸せならと
ひたすらレイラのことを想うカイル。
マティアスに
カイルの爪の垢を煎じて
飲ませたいくらいです。
レイラはカイルの気持ちに
応えてあげることはできなかったけれど
それにもかかわらず、
レイラのことを考え、
無償の愛を彼女に捧げるカイル。
そんなカイルがいたからこそ、
レイラはアルビスで
幸せな時を過ごすことができたのだと
思います。
いつの日か、カイルの心の傷が癒えて
彼を支えてくれる女性が現れることを
心から願っています。
そして、リエット。
婚約を破棄したことさえ伝えない
マティアスのために、
よくぞ、言ってくれました。
クロディーヌのために、
レイラにちょっかい出そうとしたことは
忘れます。
今は、従兄のためを思って、
全てを打ち明けてくれた彼に
拍手を送ります。
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