89話 マティアスの出張先で、レイラは彼と一緒に過ごしています。
あの目を初めて見た日の記憶が
今、公爵の顔の上に蘇りました。
再び不思議な気分になって
視線を避けましたが、彼は素直に
レイラを離しませんでした。
大きな両手が顔を包み込むと
怯えたレイラの目が
ブルブル震えました。
しかし、昨夜のようなことは
起こりませんでした。
マティアスは、
自分と向き合っているレイラを
ただ見つめていました。
両手は依然として
レイラの頬に触れていましたが、
力が入らず柔らかでした。
息遣いだけが静かに響く
静寂の中で視線は、ますます強く
絡み合って行きました。
一体・・・なぜ?と
怪訝に思ったレイラは
小さく首を傾げましたが、
マティアスは
何の反応も見せませんでした。
何かを探すかのように、
レイラの顔を
深く見つめるだけでした。
しばらくは、
いたずらに彼を刺激したくなくて
我慢していましたが、ある瞬間から
レイラの目つきも真剣になりました。
探求するように、
お互いを見つめている間に、
いつの間にか夜が明けました。
カーテンの隙間から入ってきた日差しが
当たるレイラの顔を、
マティアスは静かに撫でてみました。
彼を映している大きな目が
美しく輝きました。
漠然とした恐怖と純粋な好奇心が
共存する、
生まれたばかりの幼い獣のように
澄んだ瞳でした。
なんとなく虚しい気分になり、
マティアスは、
ため息をつくように笑いました。
少し上気した頬を離れた彼の手は、
今や金糸のような髪の毛を
撫でていました。
レイラは疑問を示すかのように
目を細めました。
懐の中で、もがいている小さな体が
耐え難いほど柔らかでした。
マティアスの手が、
露わになっている肩に触れると、
レイラは、お腹が空いたと
慌てて叫びました。
軽く眉を顰めたマティアスは
「えっ?」と聞き返しました。
後になって恥ずかしくなったレイラは
視線を下げながら、
とてもお腹が空いていると、
小さく呟きました。
しかし、マティアスを押し出す手は
かなり断固としていました。
レイラは、
本当にお腹が空いていました。
無論こんなことを、
こんな姿で言うのは馬鹿げているけれど
もう一度、この男と、
あのとんでもないことをするよりは、
この方がずっとましだと思いました。
じっと見つめている
マティアスに向かって、レイラは
朝食を食べなければと、
もう少し力を入れて話しました。
恥ずかしくて、
顔が真っ赤になりましたが、
表情は、この上なく真剣で切実でした。
無駄にあの男を刺激するミスを
犯したのではないかと、
マティアスの沈黙が怖くなった頃、
彼らしくない愉快な笑い声が
聞こえて来ました。
レイラは当惑して目を上げました。
仰向けで横になっているマティアスは
頭を下げたまま、
大声で笑っていました。
そこまで馬鹿みたいだったのか。
耳たぶまで赤くしたレイラは、
布団を引き上げ、
露わになった胸と肩を覆いました。
その間にマティアスは起き上がり、
ヘッドクッションに
もたれかかりました。
笑みを浮かべながら、
髪の毛を撫でている彼を
青白い冬の日差しが包み込みました。
すらりとした男の体は、
公爵邸で見た大理石の彫刻と
非常に似ている感じがしました。
目が合うと、
彼はクスクス笑いながら
「そうか」と答えました。
そして、「そうしよう」と告げると
マティアスは、
再びくすくす笑い始めました。
視線を避けるべきだと思いましたが
レイラは途方に暮れて彼を見ました。
だるそうに開いた青い目の下に
長いまつげの影が
美しく映っていました。
この男は、
こんなに笑ったりもする人なんだ。
それに気づくと、レイラの気分は
さらに、おかしくなりました。
世の中を自分の足の下に置いた
高潔な貴族ではなく、普通の、
その年頃の青年のように見えました。
レイラが物思いに耽っている間に、
マティアスはベッドから降りました。
二、三回瞬きしたレイラは
はっと息を吸い込むと、
布団を頭のてっぺんまで
引き上げました。
マティアスの意地悪そうな笑い声が
布団の中まで聞こえて来ました。
不思議。
すでに布団をかぶっているのに
レイラは目をギュッと閉じました。
あまりにも不思議なことでした。
カイルは深呼吸を繰り返した後、
ドアマンが開けてくれた扉の向こうに
入りました。
カルスバル市街地の中心部に位置する
豪華なカフェは、
余暇を楽しむ紳士や貴婦人たちで
賑わっていました。
クロディーヌは、
高級店街と公園が見渡せる
二階の窓際の席で
カイルを待っていました。
一階よりは、
やや閑散としていましたが、
決して人目を避けるような場所とは
言えない所でした。
テーブルのそばに近づいて来た
カイルを見たクロディーヌは、
座ったまま頷いて挨拶すると、
約束の時間になっても来ないので、
すっぽかされたと思っていたと、
笑顔とは裏腹に、
辛辣な口調で話しました。
なぜ、自分を呼びだしたのかと
尋ねるカイルの声は、
今の表情と同じくらい、
強張っていました。
クロディーヌは向かいの席を
指差しながら、
人目につくので、まずは座るようにと
促しました。
カイルは、
それを知っている人が、
こんな所を約束の場所に決めたのかと
呆れて尋ねましたが、
クロディーヌは、
眉一つ動かしませんでした。
クロディーヌは、
こここそ最適な場所だ。
将来、公爵夫人と主治医になる
自分たちが、市内のカフェで
お茶を一緒に飲むくらいなら、
大した事ではないけれど、
目立たない場所で密かに会っていたら
それは、かなり汚らしい
スキャンダルになりそうだからと
唐突に言うと、
カイルは乾いた失笑を漏らしました。
昨日の午後、
ブラントの令嬢のメイドが持ってきた
手紙には、謎めいた言葉と
一方的な約束が書かれていました。
レイラ・ルウェルリンが変わった理由が
気にならないか。
自分たちはこのことについて、
たくさん話し合うことがあると思う。
明日の午後一時、
市内の中央駅の向かい側のカフェで
会おう。
幼い頃から、
ずっとレイラを蔑視してきた
ブラントの令嬢が、そのように
レイラの名前を口にしたので、
カイルは不愉快でした。
だから、約束に応じなければならない
理由もありませんでした。
それなのに今、ここで、
クロディーヌと向かい合って立っている
自分が情けなくなりました。
彼は、そうするつもりだったと
自嘲気味に言いました。
カイルが向かいの席に座ると、
クロディーヌは一層華やかな笑顔で、
残念ながら、未来のエトマン先生は、
自分の提案を無視するには、あの子を
愛し過ぎていると言いました。
カイルはクロディーヌに、
本題から話すよう促しました。
しかし、クロディーヌは、
それはあまりにも品がない。
変に見えるだろうしと返事をすると
そっと手を上げました。
遠く離れた所で待機中だった
ウェイターが近づいて来ました。
カイルの分のコーヒーが
テーブルに運ばれるまで、二人は、
何の言葉も交わしませんでした。
ウェイターが再び遠ざかると、
カイルは、
もう話をしても、令嬢の品位が
損なわれることはなさそうだと
声を低くして言いました。
クロディーヌは快く頷きました。
マティアスとレイラのことを
誰にも口外できないけれど、
間違いなく
レイラの心を砕くことができる人。
カイル・エトマンは、その条件を
完全に満たしていました。
もちろん一番確実なのは、
あの庭師だろうけれど、
それはあまりにも残酷なことでした。
クロディーヌは、
カイルがレイラを取り戻すために
故郷に戻って来たと思うけれど、
思い通りに行かなかった。
それは、レイラが拒否したから。
ここまで、自分の推測は
合っているかと、
声を低くして静かに話しました。
カイルは何も答えませんでしたが、
クロディーヌは、
それが確実な肯定だということが
よくわかりました。
クロディーヌは微笑みながら、
レイラは、当然そうするしかなかった。
いくら恥知らずだとしても、
同時に二人の男を手にするほど
図々しくない子だからと、
冷酷な言葉を口にしました。
そして、クロディーヌは、
レイラは今、他の男の女という意味だ。
その男は、まさに自分の婚約者、
ヘルハルト公爵だ。
これなら、
自分たちは、この件について
たくさん
話し合うことがあるのではないかと
凍りついたカイルを直視しながら
はっきりと言いました。
マティアスが望んだ通り、
レイラと一緒に過ごした一日は、
特に変わりなく平凡に流れました。
念願の朝食を
共にすることもできました。
レイラは、
何がそんなに恥ずかしいのか
ほとんど頭を上げませんでした。
その代わりに、
しっかり食べ物をモグモグ食べる唇が
可愛くて、マティアスは、
かなり、ゆったりとした気持ちで
見守りました。
小さな口で少しずつ噛んで、
しっかり噛む姿が、極めて
レイラらしいという気がしました。
レイラらしいなんて考えたことが
情けなくて失笑しましたが、
気分が、それほど
悪くはありませんでした。
彼の視線を感じたのか、
やがて、レイラは
そっと頭を上げました。
かなり警戒しているような
表情でしたが、
口の端についた小さなパンくずのため
それほど脅威的に見えませんでした。
適当に、
知らないふりをしようとしましたが
気が変わり、マティアスは、
意地悪な目つきで
レイラの左唇の端を指しました。
首を傾げながら、
そこに手を触れたレイラの頬が
赤くなるのを、マティアスは、
かなり楽しく鑑賞しました。
ナプキンで唇をこすったレイラは、
しばらく慌てましたが、
再び食事を続けました。
ティースプーンを力いっぱい握って
エッグカップに入った
卵の殻を叩きました。
なんて慎重なのか。
それも、やはり
レイラらしいという気がして、
マティアスは声を出して笑いました。
丁寧に殻をむいた卵を握ったレイラは
当惑した顔で彼を見ました。
しばらく悩んだ末、
慎重に一口かじるレイラの姿を
見守っていたマティアスは、もう一度
今度は、もう少し大きな声で
笑いました。
そして、朝食後は、のんびりとした
ひとときを過ごしました。
もちろん、それは
マティアスに限ったことで、
レイラは何がそんなに忙しいのか
休むことなく、せかせかと歩きました。
一緒にいるのが嫌で気づまりで、
むやみに
歩き回るのかもしれませんでしたが
自分の目の前にいさえすれば、
どうでもいいことでした。
マティアスが出かける準備を終えた時
レイラは窓枠に座って
彼が置き忘れた新聞を読んでいました。
近づいても気づかないほど
集中しているようでした。
一体、何を読んでいるのか
気になったマティアスは、
レイラの肩越しに
彼女が広げている新聞を
チラッと見ました。
突拍子もないことに
レイラは連載中の推理小説を
読んでいました。
マティアスが一度も
注目したことのないページでした。
後ればせながら、
人の気配を感じたレイラは、
びっくり仰天して立ち上がりました。
その拍子に、逃した新聞が
二人の間に落ちました。
おとなしそうな顔で、
血まみれの犯罪小説を読み耽るのが
また面白くて、
マティアスは笑ってしまいました。
その頃になると、レイラは、
本当に狂った人を見るように
彼を見ましたが、
その見解は、
大きく間違っていないかも
しれませんでした。
マティアス自身も、
そう思っていたからでした。
しかし、それもまた、
大して悪くはないと思いました。
そして正午近くになる頃、
二人は一緒にホテルを出ました。
レイラは気乗りしませんでしたが、
マティアスは決定を覆しませんでした。
随行人が持って来た
彼のコートは返され、
マティアスは、自分のコートで
レイラを、しっかり包み込みました。
彼女には、あまりにも大きくて、
床を引きずりそうでしたが、
マティアスは、
それもとても気に入りました。
ホテルの入り口を出ると、
レイラは、どこへ行くのかと、
不安そうに尋ねました。
返事の代わりに、マティアスは、
随行人が教えてくれた方向へ
足を向けました。
洋装店の前に到着して、
目的地を知ったレイラの顔が
固まりました。
レイラは眉を顰め、首を振りながら
「要りません」と言いましたが
マティアスは断固としていました。
彼はついにレイラを店に案内しました。
チャイムの音と共に、
洋装店の中にいたすべての客と
店員たちの視線が集中しました。
夜、人目を忍んで、
こそこそ離れのベッドの上で
過ごすのではなく、
日の当たる場所で、
普通のカップルのように、
平凡な一日を、
レイラと一緒に過ごすことを
マティアスは
心から望んでいたのだと思います。
アルビスは、
どうしても人の目があるので、
マティアスの出張は
絶好のチャンスだったのでしょう。
けれども、レイラは
マティアスの愛人で日陰の身。
明るい場所で、
彼と過ごしたらからといって、
後ろめたい気持ちが
なくなるはずがないと思います。
それでも、普段は声を出して
笑うことなんてないマティアスが
レイラのやることなすことが
可愛くて、笑ってしまうのを、
馬鹿にされたと思うのではなく
不思議に思うようになったのは
レイラの心が、少しずつ
変わって来たのではないかと
思います。
それにしても、
クロディーヌの仕打ちには
腹が立ちます。
ビルおじさんにレイラのことを
話さなかったのは
残酷だと思ったからではなく
アルビスの女主人になる前は
使用人に、いい顔を
しておかなければならないと
思っただけだと思います。
クロディーヌの犠牲になったカイルが
本当に可哀想です。