46話 オデットはバスティアンと噴水台で待ち合わせをしています。
海軍省はフレベ大通りの起点に
立っていました。
背後には海へと続くプラター川が流れ
前方には
大聖堂と官公庁が並んでいる
首都の中心部でした。
オデットは首を後ろに反らせて
壮大な建物の頂上を見上げました。
空高くそびえる金色の尖塔の先端には、
海神の権能を象徴する
三叉槍が飾られていました。
この辺りは、
数えきれないほど通ったけれど、
それをじっくり見たのは
今日が初めてでした。
ゆっくりと息を整えたオデットは、
海軍省の正門前に設置された
大理石の噴水台に向かいました。
半人半魚の戦士たちと
海神を象った彫刻の下から
力強い水流が湧き上がっていました。
ベンチを兼ねている噴水の縁は
誰かを待っていたり、
休憩中の人々で賑わっていました。
オデットは、
新聞を読んでいる老紳士と、
制服を着た女学生たちのグループの間に
座りました。
海軍省の入口と向かい合う位置でした。
身なりを整えたオデットは
腕時計を確認しました。
約束の時間まで、
まだ30分ほど残っていました。
他に何かをするには
中途半端な時間なので、
ここで少し長い待ち時間を過ごすのが
一番合理的なようでした。
オデットは
手提げカバンから取り出した
文庫本を開きました。
心が乱れて本が
読めそうにありませんでしたが、
止めどもなく、あの男だけを
待っていたように見えるのは
嫌でした。
あと20分。オデットは、
規則的にページをめくりながら、
どんな楽譜を買うべきか悩みました。
おそらく、実力が
かなり衰えているだろうから、
当分は、練習曲を中心に弾いて
手を解した方が良さそうでした。
いつの間にか15分経っていました。
開いた跳ね橋の向こうから
軍艦が現れました。
見物人たちが、
どっと川辺に押し寄せたおかげで
噴水台が閑散としました。
好奇心に満ちた目で
そちらを見ていたオデットは、
しばらくして、
再び本に視線を戻しました。
その時、
「こんにちは、オデット」と
嬉しくない声が聞こえて来ました。
あまりにも明るくて
親切そうな声に導かれて顔を上げると
予想していた、
まさにその顔が見えました。
オデットは思わず本を閉じると
立ち上がりました。
「こんにちは、ラナト伯爵夫人。
お久しぶりです。」
品定めするように自分を見つめる
サンドリンの視線の前でも、
オデットは落ち着いて
礼儀正しい挨拶をしました。
オデットの視線が向いていた方を見た
サンドリンは目を細めながら
海軍省にいる誰かを
待っているようだと確認しました。
オデットは、
昼食の約束があると答えました。
サンドリンは、
ちょうど自分も、
海軍省で会う人がいるので
今入ろうとしていたところだった。
一緒に行こうと誘いました。
しかし、オデットは、
約束の場所がここなので、
自分はここにいる。
よい一日をお過ごしくださいと
簡潔に断り、
再び噴水台に座りました。
サンドリンは、
礼儀作法が最も厳しいことで有名な
ベルグ皇室の血が流れる淑女が、
このように無礼だなんて
本当にがっかりだと、
反感を隠すことなく皮肉を言いました。
両手を膝の上にそっと重ねたオデットは
少しも憚る様子のない顔を上げて
サンドリンと向き合いました。
サンドリンは、
いつから、このベルクの空の下で、
一介の将校の妻が
伯爵夫人を軽蔑するような態度が
容認されるようになったのかと
尋ねました。
サンドリンを凝視していた
オデットは小さく首を傾げると、
自分がクラウヴィッツ大尉の妻で、
あなたがラナト伯爵夫人ならば、
確かに、これは、
大変無礼なことだと思う。
しかし、自分たちの関係は
少し違っていなかったかと
逆に尋ねました。
そして、
これまでの言動から判断すると、
あなたは自分を
思っていないようだ。
その座が、すでにあなたのものだと
思っているようだけれど、
一人の男に対して、同時に二人の妻が
存在することはできないので、
必要な時が来たら、自分が一時的に
妻の座を退くことにしたと
話しました。
サンドリンは、
何が言いたいのかと尋ねました。
オデットは、
クラウヴィッツ夫人の席を譲った時は
再び以前の自分に戻るのが
適当だと思う。
それならば、今の自分は
あなたの言う通り、
皇室の血が流れる公爵家の淑女なのに
どうして、そんな自分が、
あなたの前で
頭を下げなければならないのかと
声を一度も荒げることなく、
不埒な詭弁を並べ立てました。
そして、オデットは、
何を望んでいるのか
はっきり言うように。
自分が将校の妻であることを望むなら
そうする。
身分の高い貴婦人に犯した欠礼も
謝罪する。
しかし、自分の前で
クラウヴィッツ夫人のように
振る舞うつもりなら、
このようなことに
慣れるようにして欲しいと
要求しました。
呆れるサンドリンを前にしても
オデットは、
一様に超然としていました。
オデットは、
どうですか?
立って謝罪すべきかと尋ねました。
頭を上げたオデットの両耳に
豪華なダイヤモンドのイヤリングが
輝いていました。
他人のものを奪っても、
良心の呵責を知らない
その図々しい顔を見つめる
サンドリンの唇の上に
妙な笑みが浮かびました。
サンドリンは、
とても涙ぐましい心遣いだ。
それなら、ゆっくり座って
読書を楽しむようにと言いました、
オデットは、
サンドリンが了承してくれたことに
お礼を言うと、
噴水台に置いた本を再び開きました。
まだ目の前に立っている
サンドリンの存在を
きれいに消してしまったような
態度でした。
サンドリンは、
それ以上、何も言わずに
背を向けました。
氷のように冷たい怒りと侮蔑感に
満ちていましたが、
それでも、天下の
美しい馬鹿に
捕らわれたわけではないという
事実だけは幸いでした。
おかげで事が複雑になりそうでしたが、
あの男がつまらなくなるよりは
その方が良いと思いました。
サンドリンは、
海軍省の正門に続く道の入り口で
ふと立ち止まって振り返り、
「そうだ、オデット」と
声を掛けました。
きちんとした姿勢で座って
本を読んでいたオデットは、
ゆっくりと目を上げて
サンドリンを見ました。
彼女は、
思った以上に待ち時間が
長くなるかもしれないので
読む本が十分用意してあることを願うと
おそらく最後になるかもしれない
親切心からアドバイスをしました。
丁寧な黙礼で返事をしたオデットは、
すぐに再び開いておいた本に
目を向けました。
晩夏のだるい日差しが
静かに本を読む女性を包み込みました。
時間を止めたくなる程、
美しい風景でした。
「ダメだ、サンドリン。
バスティアンは今、非常事態だ」と
ルーカスは先手を打って
断固とした拒絶の意を伝えました。
サンドリンが、突然電話をかけてきて
一緒に昼食を食べようと誘った時、
ルーカスは、彼女の下心が何なのか、
早いうちに気づきました。
バスティアンに会うための口実。
サンドリンは、その目的を
隠す努力さえしませんでした。
サンドリンは、
何か悪いことでもあったのかと
尋ねました。
ずっと関心がなさそうだった
サンドリンの眼差しが揺れました。
一瞬怯えた子供のような顔になった
従姉をじっと見つめていたルーカスは
諦めのため息をつきました。
毎回、自分を利用するサンドリンに
イライラするものの、
彼女の気持ちを知っていたので
最後まで冷酷になることは困難でした。
その方法は、
多少間違ってはいましたが、
サンドリンは心から
バスティアンを愛していました。
初めてあった瞬間から
ずっとそうだったということを
ルーカスは、
誰よりもよく知っていました。
一生誰も愛さない男に
心を捧げるなんて。
サンドリンの愛はひどく一方的で
盲目的でした。
しばらくは引き止めようと
努力しましたが、ある瞬間ルーカスは
サンドリンが、
自分の愛が報われることを
望んでいるわけではないということに
気づきました。
ただ所有したい女とただ利用したい男。
誰も損をしない関係でした。
ある意味、
完璧にお似合いのカップルでした。
ルーカスは、
皇宮から急な連絡が来た。
ベロップ使節団の海軍祭参加のために
議論すべきことがあるらしい。
直接皇帝に謁見するようだと
話しました。
サンドリンは、
バスティアンの昼食はどうなるのかと
尋ねました。
ルーカスは、
この状況で何が食事だ。
今すぐ皇宮に
駆けつけなければならないのにと
答えると、本当に情けない言葉も
全て聞くよと言うように
眉を顰めました。
そして、
今日は余計なことを考えずに
おとなしくお昼でも食べろと言うと
手に持っていた将校帽をかぶり、
先に本部建物のロビーの外に出ました。
どうせ、また
出て行かなければならないのに、
サンドリンはあえてここに来ると
意地を張りました。
そんなことをしてまで
バスティアンに会おうとする努力に
ルーカスは涙ぐみました。
後から付いて来る人の
気配がしなくなると、
ルーカスは、突然不安感に襲われて
後ろを振り返りました。
彼はサンドリンに
何をしているのかと尋ねましたが、
彼女は物思いに耽った顔で
空中を見つめていました。
サンドリンは
もうバスティアンは皇宮に行ったのかと
尋ねました。
悩むのを終えた彼女の目が輝きました。
ルーカスは、それを否定し、
もうすぐ出発するだろうと告げた後
あそこに車が来たと言って、
本部ビルの階段の下に停まっている
黒い車を何気なく指差しました。
サンドリンは、
お昼は今度食べることにしよう。
謝罪の意味を込めて
豪華な食事をご馳走すると言いました。
ルーカスは、
それはどういう意味なのか。
一体何をするつもりなのかと
尋ねました。
サンドリンは、
あなたを困らせるようなことでは
ないので、心配しないでと答えると、
意味深長な笑みを浮かべました。
そして、
ロビーにつながる中央階段の下に
ゆっくり近づきました。
その後、まもなく、
デメル提督が階段に姿を現しました。
「誰かと思ったら、
ラナト伯爵夫人ではないか」と
デメル提督は声を掛けました。
バスティアンも一緒でしたが、
サンドリンは、
彼に目を向けませんでした。
サンドリンは、
「こんにちは, 提督閣下」と
力なく震える声で挨拶をしました。
予想通り、デメル提督は
とても心配そうな目で
サンドリンを見ました。
どうしたのかと、
デメル提督が尋ねると、サンドリンは
エヴァルト大尉と昼食を共にしようと
訪問したけれど、
突然、頭が痛くなったので、
これで帰ろうと思っていた。
気を遣うことが多いせいか、
度々このようなことが起こり、
周囲に迷惑をかけていると答えると
悲しそうな顔で
静かにため息をつきました。
デメル提督は名高い紳士でした。
困っている淑女を
無視できない部類の男。
バスティアンとは
明らかに異なる面がありました。
デメル提督は、
それほど長く悩むことなく、
それでは自分たちの車に
一緒に乗ればいい。 時間がないので、
自宅まで送って行くのは
難しそうだけれど、ラナト家は
皇宮に向かう途中にあるので
近くで降ろすのは問題ないと
サンドリンが待っていた
まさに、その提案をしました。
このような時は、
噂が広まったことに感謝しました。
男を愛人として囲っている夫のせいで
離婚を準備している
可哀想な女という評判は、
かなり有用な使い道がありました。
サンドリンは
デメル提督がとても親切だと
お礼を言った後、
厚かましいけれど、
お世話になると告げました。
サンドリンは迷うことなく
チャンスをつかみました。
チラッと見たバスティアンの顔には
特別な表情は
浮かんでいませんでした。
もしかしたら、すでに妻に
事情を説明したかも
しれませんでしたが、
そんなことは、
どうでも良いと思いました。
サンドリンの願いは、
小さな疑いの種一つを
彼女の胸に落とすこと。
今はその程度で十分でした。
その種を育てるのは、
どうせオデットの役目でした。
驚愕しているルーカスの横を
通り過ぎたサンドリンは、
本部のロビーを出ました。
階段を下りると、待機中の運転手が
車のドアを開けてくれました。
デメル提督とサンドリンを乗せた
後部座席のドアが閉まると、
バスティアンが助手席に乗りました。
運転手が運転する車は
まもなく海軍省を出発しました。
背の高い木々が並ぶ進入路を通ると、
検問所のある正門が現れました。
サンドリンは目を細めて
柵の向こうの噴水を見ました。
人の顔を確認するのは
難しい距離でしたが、
それでも、難なく、
まだ、その場にいる女性を
見つけることができました。
風に舞う黄色いシフォンドレスの裾。
間違いなくオデットでした。
サンドリンは
バスティアンに一目惚れし、
その後、一途に彼を
愛して来たのですね。
その愛を貫くためなら、
たとえ彼から愛されなくても
手に入れられればいいという考えは
健気だと思いますが
バスティアンがオデットと
先に結婚したことで彼女に嫉妬し、
意地悪をするのは酷いです。
今回は、オデットが
サンドリンをやりこめましたが
すぐに復讐されてしまい
オデットが気の毒です。