179話 外伝27話 季節は春。エルナの陣痛が始まりました。
大公妃の陣痛が始まったという知らせが
レチェンの首都ベルネの王宮に
伝えられた時、ビョルンは、
臨月を迎えた大公妃を除く
王室一家全員で、翌月に迫った
皇太子の結婚式について話し合うための
昼食会に出席していました。
しばらくぼんやりしていたビョルンは
主治医が告げた予定日は
来週ではなかったかと、眉を顰めて、
その知らせを伝えた侍従に
問い返しました。
イザベル・デナイスタは、
予定日より早く生まれることも
遅く生まれることもある。
王室の新しい双子は
父親に似て性急のようだと、
罪のない主治医に向けられた
息子の怒りを鎮めました。
そして、
依然として現実感のないビョルンに、
いつもと違って興奮している
フィリップ・デナイスタが
これ以上に重要なことはないのだから
早く行くようにと、
一番先に息子の背中を押しました。
その後、あちこちから、
同意の声が聞こえて来ました。
ビョルンはコップの水を一口飲むと
ゆっくり立ち上がりました。
ジャケットのボタンを留め、
丁寧に黙礼をしたビョルンが
背を向けると、あちこちで
ざわざわし始めました。
その後まもなく、アルセン公爵夫人が
考えてみたら、今日は水曜日だと
謎めいた言葉を残し、
ビョルンの後を追って行くと
自分たちも、
シュベリンに行ってみると言って
レオニートとロゼットが
立ち上がりました。
二人の結婚を話し合うために
設けられた席だということを、
まさか忘れてしまったのかと
あちこちから叱責の声が
聞こえて来ましたが、
レオニードとロゼットは屈することなく
了解を求めると、
アルセン公爵夫人の後を追いました。
今日の主人公たちまで去ってしまうと
昼食会の離脱者は
一人二人と増えていきました。
どうせ、皇太子の結婚式は
決められた礼法と手続きに従って
順調に進められるだろうし、
新しい生命の誕生は、
退屈な春の日の午後に、より大きな
楽しみをもたらすからでした。
いつのまにか、息子と同じくらい
焦った顔をしている国王は、
イザベルに、
自分たちも行ってみなければ
ならないのではないかと
それとなく質問しました。
じっと夫を見ていたイザベルは、
勝てないふりをして、
陛下の意思が正しければ
従うべきだろうと返事をして
頷きました。
列をなして走ってくる
華やかな馬車の行列を見たリサは
王室が攻め寄せて来たという考えしか
思い浮かびませんでした。
ただでさえ、
大公妃の陣痛が急に始まって
気が気でないのに、
とんでもないことだと、
大公邸の使用人たちは混乱し、
右往左往している間に、
ビョルンが姿を現しました。
突然の出来事に驚き、
フィツ夫人とリサが
最初に彼を出迎えました。
夢中で走ってくると思っていた王子は
意外にも落ち着いた様子でした。
リサが悲しくなるほど、
その口調と足取りは
とても冷徹でした。
まず、産室に行ったビョルンは、
待機中の医師や産婆、看護師たちを
じっくり観察しました。
万一の事態に備えて、王立病院にも
連絡をしておくようにと
伝えられた侍従は、
急いでシュベリン宮を発ちました。
そして、空気を読まずに集まった
王室の招かれざる客を
接待するための使用人の配置も
王子の指示に従って行われました。
妻の産室に足を踏み入れないことが
紳士の礼儀だと、エルナはビョルンに
断固として釘を刺しておいたため、
彼が動ける範囲は
産室の敷居の外に制限されました。
ビョルンは
そのように落ち着いて
自分の管轄下の世界の秩序を
整えて行きました。
一見すると、
ひたすら自分の仕事に没頭し、
今、産室で陣痛を経験している
妻の夫には思えませんでした。
間違いなく、
デナイスタだという一言で
アルセン公爵夫人は、
冷たい孫の態度を定義しました。
しかし、「もうすぐ始まるよ」と
彼女が予言して間もなく、
ビョルンはイライラしながら
応接室の窓の前を
うろうろし始めました。
自分の役目を完璧に果たしたので、
後は待つしかない。
デナイスタの狼たちを最も狂わせるのは
まさに、このような瞬間の
無力感でした。
しかめっ面で
双子の兄を見るレオニードに
アルセン公爵夫人は、
あれは君の未来なので、
よく見ておくようにと
意地悪な冗談を言いました。
そして、
最後の瞬間に涙まで見せれば、
完璧なフィリップ3世の息子だと思うと
婿である国王にも、
適切な配慮することを
忘れませんでした。
反論しようとしたフィリップは、
咳払いをしながら沈黙することで
最小限の体面を守る道を選びました。
子供の誕生の前に涙を見せたのは
初めての子供である
双子の王子の時だけでしたが、
よりによって、
その姿を見られた相手が
アルセン公爵夫人でした。
彼はこっそりと首を回して
自分の前轍を踏む息子を
見つめました。
一瞬も、じっとしていられなくて
ウロウロしていましたが、
自分の縄張りを悠々と視察する
狼の親分のように完璧に背筋を伸ばし
優雅な姿勢と歩き方を
維持していました。
その実体は、妻のことが心配で
非常に苦しんでいる
悲しい狼に過ぎませんでした。
陣痛が始まって半日が過ぎた夕方頃
慌ただしい足音と共に、
産室にいたフィツ夫人が駆け付けると
鳴り響くビョルンの足音に
神経症になりかけていた人々の視線が
一斉に彼女に集中しました。
ビョルンも足を止めて
首を回しました。
丁寧に挨拶したフィツ夫人は
可愛い女の子と男の子を
無事に出産したと、
興奮した声で告げると、
ビョルンにお祝いの言葉を述べました。
ベッドから数歩離れた所で
立ち止まったビョルンに
先にエルナが挨拶をしました。
今すぐに倒れてしまっても
おかしくないほど疲れた姿でしたが
エルナの笑顔は、いつにも増して
美しく温かでした。
ビョルンは、
タイの結び目を少し緩めて
エルナに近づきました。
陣痛が始まったという知らせを
聞いた瞬間、麻痺してしまった意識が
ようやく蘇って来ました。
ベッドサイドに座ったビョルンは、
一気にエルナを抱きしめました。
ほんの数歩を
ゆっくり歩いて来ただけなのに、
とても長い道を走ってきたように
荒い息が溢れ出て来ました。
エルナは、大丈夫だと言うと
怯えた動物をあやすように
ビョルンの背中を撫でました。
そんなエルナの目を
静かに見つめていたビョルンは、
しばらくして、
長い安堵のため息をつきました。
やつれて青白いエルナの顔を
包み込んだ両手は、
細かく震えていました。
二人が互いに見つめ合って
微笑むことができるようになった頃
おくるみに包んだ子供を抱いたリサが
近づいて来ました。
まず、最初に生まれたビビ坊ちゃんを
ビョルンの胸に抱かせたリサは、
次にナナお嬢さんを
エルナの胸に抱かせました。
ビョルンは目を細めて、
息子を見つめました。
生まれたばかりの赤ちゃんの顔を
見分ける目利きのようなものは
ないけれど、息子が
自分と同じ色の髪の毛を持っていて
エルナの胸に抱かれた娘は
この世で一番きれいな茶色の髪を
持っているということくらいは
分かりました。
両親に公平に似ている双子の兄妹を
少しぎこちなく抱いている大公夫妻の
互いに深く見つめ合っている
二人の視線は、
穏やかで甘いものでした。
フレデリック・デナイスタを見た
人々の意見は、
エルナがビョルンを産んだ。
アリエル・デナイスタを見た
人々の意見は、
エルナがエルナも産んだ、でした。
しかし、
父と同じプラチナブロンドの髪の
フレデリックは、母の青い目を譲り受け
母と同じ茶髪のアリエルは
父の灰色の目を譲り受けたので
双子が目を覚ますと、
少し意見が変わりました
その顔立ちも絶妙でしたが、
二人とも、親の一番きれいな部分を
要領よく選んで似ているというのは
確かでした。
息子と娘、
それも両親によく似た兄妹を
一度に産んだ
ビョルン・デナイスタのことを、
レチェンの金融家たちは
やはり効率がいいデナイスタと
評しました。
生まれる確率の低い双子。
しかも、息子と娘という確率。
それに絶妙なシャッフルが加わった
双子について、
シュベリン社交クラブのカードルームは
確率のデナイスタと評しましたが、
ビョルンは耳にもしませんでした。
フレデリックとアリエル、
王室では、概してビエルナと呼ばれる
大公家の双子の兄妹を見た
老婦人たちの反応は、
今まで見た中で、この子たちが
一番可愛いと、今日も熱烈でした。
エルナは、
照れくさそうな笑みを浮かべたまま
二人の子供への賞賛に耳を傾けました。
努めて
落ち着いた表情をしていましたが
キラキラ光る目と上気した頬が
誇らしげな気持ちを
表わしていました。
じっとエルナを見守っていた
アルセン公爵夫人は
愉快そうな笑みを浮かべながら
茶碗を下ろしました。
彼女の向かいに座っていた
ビョルンの視線も、
すぐに妻に向けられました。
熱烈な声援を送った老婦人たちが去ると
エルナは次の親戚に近寄りました。
赤ちゃんを抱いた大公妃がそばに来ると
人々は双子の兄妹に関心を示し、
称賛を浴びせました。
静かに注目を浴びるのを
楽しむ一面がなくはない彼の妻が、
可愛い赤ちゃんたちを
自慢するやり方でした。
エルナが、とても興奮していると
アルセン公爵夫人は指摘しました。
それは当然のことだと、ビョルンは
大したことはないといった口調で
答えました。
自分の目にだけ可愛い子を
あちこち自慢する間抜けな親は
苦手でしたが、ビョルンの双子は
客観的にも
可愛い赤ちゃんだという点で
例外でした。
じっとビョルンを見つめていた
アルセン公爵夫人は
呆れたため息をつきながら
頷きました。
こんなに人が多いと、エルナは、
とても忙しくなるだろうと
アルセン公爵夫人は指摘しました。
大公家の双子と皇太子の結婚、
それに建国祭と、
相次ぐ慶事が重なったレチェンの5月は
毎日がお祭りのようでした。
今日は、毎年、建国祭で行われる
王室伝統のバルコニー挨拶が
ある日なので、王室一家が
首都の王宮に集まっていました。
今頃、王宮の外は、大公家の双子と
新しい皇太子夫妻を見るために
集まった人々で
溢れかえっているはずでした。
結婚後初めて迎えた建国祭の時は
バフォードを訪れていたし、
去年の今頃はロルカを歴訪していたので
エルナとビョルンが
バルコニー挨拶をするのは
今年が初めてでした。
初めてのことに
非常に大きな意味を与えるのが好きな
彼の妻は、今日のために、
数日間、夜も眠れませんでした。
祖母との短い談笑を終えたビョルンは
妻と双子たちのいる所へ
近づき始めました。
もうすぐ、
バルコニーの外に出る時間でした。
祝 双子の赤ちゃんの誕生!
前回の流産や、エルナが小さな体で
双子を妊娠していることで、
ビョルンは、エルナの妊娠中
ずっと心配していたと思います。
そして、
陣痛で苦しんでいるエルナのそばに
いてやりたいとも
思ったでしょうけれど、
エルナの言いつけを守り
よく耐えました。
無事に出産したと聞いた時は
ホッとし、嬉しくて
仕方がなかったでしょうけれど
人前では、そんな様子を見せないのが
ビョルンだなと思いました。
ビョルンは出産したエルナに
労いの言葉をかけることなく
ただ彼女を抱きしめて
見つめるだけでしたが、
それだけで、ビョルンの気持ちは
エルナに十分伝わったと思います。
ビョルンの涙は
見られませんでしたが、
心の中で喜びの涙を流していたと
思います。
銀行の仕事と賭け事に
類い稀な才能があるビョルンでも
子供の性別や、
一度に生まれて来る人数を
操作することはできないし、
今回、たまたま
男女の双子が生まれただけなのに
効率と確率という表現で、それを
父親であるビョルンの功績にする
周りの人たちに笑えました。
エルナが毎週水曜日に
自分を訪ねて来たことを思い出し
今日は水曜日だからと言って
エルナの所へ向かうことにした
アルセン公爵夫人。
おそらく、王妃が出産する度に
王の様子を観察して来たので
同じデナイスタである
ビョルンの行動を予測し、
レオニードも同じ行動をすると
予言するアルセン公爵夫人。
ビョルンとレオニードが生まれた時に
国王が泣いたことを当て擦る
アルセン公爵夫人。
彼女の言葉は辛辣ですが、
家族を愛するからこそ、
出て来る言葉だと思います。
レオニードの結婚式の相談よりも
エルナの出産を優先し、
子供が可愛いと思ってくれる
アルセン公爵夫人は、
双子のひ孫を溺愛しそうな予感。
私個人の考えですが、
今回のお話の主役は
アルセン公爵夫人ではないかと
思うくらい、彼女の存在感は
大きかったと思います。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
私が楽しくてやっていることに
感謝の気持ちをいただき、
恐縮しながらも
嬉しく思っております。
次回は最終話。
土曜日に更新いたします。