116話 エルナはビョルンと昼食をとることになりましたが・・・
食器に触れる
カトラリーの音が止まると、
ガーデンルームは
静寂に包まれました。
手に持ったナプキンを
じっと見下ろしていたエルナは、
久しぶりに頭を上げました。
ビョルンは、頬杖をついて
エルナを見ていました。
どこまで話が進んでいたのだっけ。
エルナはイライラしながら
再びフォークを握りました。
小さく切った魚料理を
機械的に噛んでいるうちに、
乗馬用の馬について話していたことを
思い出しました。
ビョルンに、
今日一日のことを聞かれたので、
エルナは朝の散歩の話をしただけなのに
ビョルンは、
遠い所まで歩くよりは
乗馬を習った方がいいので、
馬を買ってくれると言いました。
エルナは食べ物を飲み込んで
水を飲んだ後、
再びビョルンと向き合いました。
彼女は、
ビョルンの好意はありがたいけれど、
自分は大丈夫だと、
何度も繰り返してきた答えを
優しく伝えました。
そして、ビョルンの気遣いに
感謝の言葉を伝え、
微笑もうとして上げた唇の先が、
ぶるぶる震えました。
花のように、
きれいに笑えなかったことは、
ビョルンの硬い表情だけ見ても
分かるような気がしました。
エルナは、習慣的に
謝ろうとしましたが、
唇をそっと噛みました。
ビョルンは、
ぎこちない笑いと同じくらい
謝罪の言葉を嫌っていました。
無理やり空にした皿が片付くと、
すぐにデザートが出てきました。
エルナは、今回も義務的に
自分の分を食べ始めました。
この1ヶ月間、
二人が共にした食事の時間は
平穏だけれど、
少しぎこちない雰囲気の中で
味がよく感じられない食べ物を食べて
無意味な話を交わしました。
ビョルンは、
よく何かを買ってくれようとしました。
一様に値段が高くて貴重だけれど、
エルナには不要のものでした。
沈黙が長くなると、エルナは、
水曜日にアルセン公爵家を
訪問することにしたと告げました。
ビョルンは目を細めて、
ここに祖母を招待した方が
いいのではないかと提案しました。
しかし、エルナは、
何度も公爵夫人が
お見舞いに来てくれたので、
今度は自分が会いに行きたいし、
エリクソン先生からも
外出の許可をもらったので、
大丈夫だと説明しました。
夏の社交シーズンが始まった頃の
ハイネ公爵家のピクニックから
帰ってきて以来、秋が深まる今まで、
エルナは、数か月間、
大公邸から出ていないことを
アルセン公爵家から来た招待状を見て
ふと気づきました。
すると、突然、エルナは
イライラし始めました。
シュべリン宮殿の敷地は、
バフォードの田舎町を
合わせたよりも広いけれど、
エルナは少しでも
ここを離れたいという、
自分でも驚くほど強烈な衝動を
感じました。
エルナは哀願するように
ビョルンの名前を呼ぶと、
彼は快く頷きました。
ボーッとしていたエルナが
お礼を言うと、
ビョルンの瞳が深くなりました。
彼は、
「ありがとうございます。」
「ごめんなさい。」「 大丈夫です。」
という、オウム返しのような答えは
少し飽き飽きしていると
柔らかい声で言うと、
軽く眉をひそめ、微笑みました。
エルナはびくっとして
息を殺しました。
適当な言葉で、ビョルンの気持ちを
和らげてあげたいけれど、
頭の中が真っ白になって
何の考えも浮かびませんでした。
毎日のように往診に来た主治医と
細心の注意を払って
世話をしてくれた使用人たち。
騒がしい外の世界と遊離したように、
穏やかで居心地の良い大公邸。
このすべてが、
夫の努力によるものであること、
そして、当然、自分も
努力しなければならないことを
エルナはよく知っていました。
ビョルンは
多くのものを与えてくれたのに
彼は、それほど大したものを
望んでおらず、エルナは、
ただ静かに自分の場所を守り、
夫に楽しさを与えさえすれば
良いだけでした。
エルナは、それ一つさえも、
まともにやり遂げられない
役に立たない妻に
なりたくありませんでしたが
心が思い通りに動いてくれないので
エルナは苛立ちました。
彼女は、
落としそうになったフォークを
握り直している間に、ビョルンは、
明日、新しいベッドが来ると
告げました。
エルナは驚いて目を丸くして
彼を見ました。
ビョルンは、
室内装飾家も呼ぶので、
エルナの好みに合わせて、
新しく飾ってみるように。
必要なものは
フィツ夫人に伝えるようにと
言いました。
その言葉の意味を理解した
エルナの顔の上に
狼狽の色が浮び上がりました。
血まみれになったベッドが
思い出させる苦しい記憶を避けて、
エルナは、
その部屋から逃げ出しました。
しかし、それは心の問題で、
新しい家具を入れて
部屋の中を一新したからといって、
一日で、
すべてが解決されるわけでは
ありませんでした。
エルナは躊躇いながら
ビョルンに話しかけましたが
彼は、まだ時間が必要なのかと
尋ねました。
そして、空のグラスを
ワインで満たしながら
「一体、いつまで?」と尋ねました。
彼の仕草に、急かすような気配は
見当たらなかったので、
もっと時間をくれと頼めば、
聞いてくれると思いました。
しかし、
一体、何が言えるのだろうか。
来週?来月? 次の季節?
そのどれもが、適当な答えには
ならなさそうでした。
ビョルンは、
新しいベッドが入って来たら
部屋を移せと、
落ち着いて命令しました。
そして、ビョルンは、
今週末までに終わらせるように。
エルナができなかったら、
自分がやる。
夫婦なら、居心地が悪くても
同じベッドを使わなければならない。
茨の道も一緒に歩けと言った
大司教の教えを、もう忘れたのかと
言いました。
ビョルンの唇の上に浮かんだ笑みには
若干の茶目っ気が含まれていました。
憎らしいほど厚かましく
投げかけられた夫婦という言葉を
繰り返し言うエルナの頬のあたりが
かすかに赤くなりました。
彼が話す夫婦と自分が夢見た夫婦。
同じ言葉でありながら異なっていて
永遠に一つになることができない
その言葉の前で、
エルナは限りなく恥ずかしくて
惨めになりました。
そのような意図ではないことを
知っているのに、
真心が踏みにじられ、
嘲弄されるような気分を
消すことが困難でした。
夫婦という言葉は、
ビョルンにとっては
きれいな造花一輪の名前だろうけれど
エルナにとっては、
自分のすべてを捧げた愛の名前でした。
「エルナ」と呼ぶビョルンの声は甘く
恋人を見つめるような視線は優しく
ゆっくりと浮かんだ笑顔は
魅惑的でした。
一時は愛を夢見させたものが
与える絶望の中で、
エルナは諦めるように頷きました。
幸いなことに、ビョルンは
満足そうな顔をしていました。
エルナはその事実に安心して
残りのデザートを食べました。
もう少し話をすると、
侍従がやって来て、ビョルンが
外出する時間になったことを
知らせました。
身なりを整えたエルナは
玄関の前まで夫を見送りました。
ビョルンは馬車に乗る前に
首を回して、エルナを長い間
見つめていましたが、
特別な言葉は加えませんでした。
彼を乗せた馬車が、
これ以上見えなくなると、
エルナは屋敷の中に入りました。
後ろに並んでいた使用人たちも
静かに大公妃の後を追いました。
その行列が、
玄関ホールの中央を通る頃、
床に飾られた王家の紋章の上を
通っていた大公妃が
突然足を止めました。
ざわめく使用人たちに向かって
厳しい視線を送ったフィツ夫人は
慎重に大公妃のそばに近づきました。
エルナは、
見知らぬ世界に投げ出された
子供のような顔で
邸宅を眺めていました。
フィツ夫人が、大丈夫かと尋ねると
エルナは驚いて、
そちらを向きました。
エルナの顔色は青ざめていて、
不安そうに震える目と
ぼんやりした表情も
心配するに値しました。
フィツ夫人は、
主治医を呼ぶと言いましたが、
エルナは、
目をぎゅっと閉じて開いた後、
首を横に振ると、
少し疲れているだけなので、
すぐによくなると思うと
返事をしました。
力なく笑って見せる顔が
妙に晴れやかでした。
フィツ夫人に淡々と謝ったエルナは、
再び歩き始めました。
赤いカーペットが敷かれた
大理石の階段を上る前、
エルナは途方に暮れた目で
高い天井を見つめました。
目に届く全てのものが
大きすぎて派手で、
息が詰まりました。
ニコニコ笑顔で訪ねて来た大公妃は
ビョルンは先約があって
一緒に来ることができなかったと
一番最初に、
夫の話を切り出しました。
ビョルンに
意味深い贈り物をしたいという一心で
毎週アルセン家を訪問していた時と
少しも違わない姿でした。
顔も見たくなかったので、
良かったと、アルセン公爵夫人は
生意気に答えました。
半分、冗談と本気が
混じった言葉でした。
大きく瞬きをしながら
彼女を見ていたエルナは、
しばらくして
静かな笑みを浮かべました。
以前より、はるかに良くなった
姿ではありましたが、
あまりにも平穏で違和感がありました。
この子は心の中が膿んでいるという
かすかな予感がしましたが、
アルセン公爵夫人は
知らんぷりをしました。
無邪気に笑っているように見えても、
かなりプライドの高い淑女なので
あえて傷をほじくりだして、
心を、へこませたくは
ありませんでした。
エルナは、
他に誰もいない応接室を
見回しながら、他のお客さんは、
まだ到着していないのかと
首を傾げながら尋ねました。
アルセン公爵夫人は、
とんでもないことを
聞いたかのように、
むっつりとした表情で
膝の上に座っている猫だけを
撫でました。
エルナは、
まさか客は自分だけなのかと
尋ねました。
アルセン公爵夫人は、
それではいけない理由でも
あるのかと尋ねました。
エルナは、
そうではないけれど、
晩餐を一緒にしようと
いうことだったので
王室の他の家族たちも
招待されたと思っていたと
答えました。
アルセン公爵夫人は、
質の悪いドナイスタの
何がきれいなのかと
首を横に振ると、
彼女の膝の上のシャーロットが
ニャーと鳴きました。
もちろん、エルナも
質の悪いドナイスタでは
あるけれどと、アルセン公爵夫人が
そっと付け足すと、エルナは、
薄っすらと笑みを浮かべました。
夕食の準備をしている間、
二人は数多くの水曜日のように
時間を過ごしました。
エルナは以前のように優しく喋り
アルセン公爵夫人も、
適当に親しみのある態度で
答えてくれました。
そのせいで、
エルナが夫の話をする時、
宝石のように輝いた彼女の瞳が
光を失ったという事実が、
より鮮明に感じられました。
必死に言葉を探しているような
エルナを、じっと見守っていた
アルセン公爵夫人は、
そんなに頑張らなくてもいいと
優しく舌打ちしました。
アルセン公爵夫人は、
ビョルンが自分の妻には
話していると思いました。
当然、そうすべきだと思いました。
しかし、そのような重大なことを
身近な家族にも隠したことを
非難する彼女に、イザベルは
エルナさえ知らなかった
徹底した機密だったと言いました。
ひどい人たちだという言葉を残して
アルセン公爵夫人は
王宮を立ち去りました。
ビョルンがどんな気持ちで、
何のために
そのような選択をしたのか、
頭では十分、理解しているけれど
心が受け入れるのは
容易ではありませんでした。
自分の気持ちがこうなのに、
エルナはどうなのかと考えると、
目の前がくらっとしました。
しばらく、自分の指先を
見下ろしていたエルナは、
自分は大丈夫だと
笑いながら言いました。
嘘をつく才能のない
子供であることは明らかでした。
その時、
他の客が到着したと
メイドが伝えに来ました。
「客?」と不機嫌そうに聞き返す
アルセン公爵夫人の前でも、
メイドは、当惑した様子を見せずに
ビョルン王子様だと答えました。
自分が賭けの対象だったことや
父親の事件、そして流産と
立て続けに辛い目に遭ったエルナ。
グレディスの正体がばれたことは
エルナにとって良いことのはずなのに
逆にエルナは、大公妃として、
そしてビョルンの妻としての
自分の存在意義を疑問視するように
なってしまった。
そんなエルナの悩みも知らず、
ビョルンは、
自分の欲望を満たしたいために
再び、ベッドを共にしようとしている。
ビョルンにとって
1か月は長かったでしょうけれど、
エルナには、まだまだ時間が必要。
ビョルンは、高価なものを
エルナに買い与えようとしているけれど
彼女が流産した日に、
彼がそばにいられなかった理由を
きちんと話し、ぬいぐるみも含めて、
ビョルンがエルナのために
購入した物を渡し、
失った子供のことを
一緒に悲しんであげれば
エルナの心は癒されたのではないかと
思います。
エルナのことをよくわかっている
アルセン公爵夫人が、
ビョルンにガツンと言ってくれれば
いいのにと思いますが、
自分至上主義のビョルンには
通じないでしょうね。