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180話 オデットは教師の妻に頼まれて子供を預かることになりました。
3人の子どもが現れると、家の中は
たちまち騒がしくなりました。
バスティアンは戸惑いを含んだ目で
戦場に匹敵するほどの大混乱を
見守っていました。
年子の2人の兄弟は
子馬のように飛び跳ねて、
家中を駆け回っていました。
到着してから1時間も経たないうちに
鉢植えが1つ壊れ、
廊下と階段は泥だらけになりました。
しかし、それ以上に困り果てたのは、
彼の顔を見るなり、
火がついたように泣き出した
末っ子でした。
抱き抱えていた子供を
なだめていたオデットは、
このままではいけないと、
深いため息をつきました。
転がるように階段を降りて来た
2人の兄弟は、今度は
応接室のカーペットの上を
転げ回っていました。
弟が兄のおもちゃを奪おうとして
始まった戦いでした。
問題を起こしている兄弟の横を
通り過ぎたオデットの視線が
バスティアンに向かいました。
彼女は、
あの子たちを連れて
外へ出て行って欲しいと頼みました。
バスティアンは呆れたような顔で
「どこへ?」と聞き返しました。
その声の方へ顔を向けた子供は、
辛うじて止めていた泣き声を
再び上げ始めました。
「ガォーッ」
子供は紅葉のような手を伸ばして
バスティアンを指すと、
意味不明な言葉を呟きました。
「やーやー!」
最後の叫びは、
非常に切迫していました。
オデットは、
まるで理解しているかのように頷き
懐の奥深くに潜り込んだ子供を
慰めました。
バスティアンは、
一体どういう意味なのかと
尋ねると、目を細めて、
悲しそうに泣く子供を
見下ろしました。
オデットはクスッと笑うと、
あなたがライオンのようで
怖いそうだと、
子供の意思を伝えました。
もともと人見知りが激しい子でした。
初めて見る大柄な男を怖がるのも
無理はありませんでした。
オデットは、
一緒にボールを蹴ろうが、
水遊びをしようが、 どんな形であれ
外に出て走り回らなければ
静かにならないと思うと告げると
目で窓の向こうの小川を指し示しながら
子供を抱き締めました。
「さあ、バスティアン」
最後のお願いをすると、オデットは
子供を抱えて裏庭へ出ました。
バスティアンが見えなくなると、
子供は、徐々に
落ち着きを取り戻しました。
うとうと眠っている子供を連れて
応接室に戻った時、家の中は
まるでネズミが死んだかのように
静まり返っていました。
子供をソファーに寝かせたオデットは
窓の前に近づいて、外を見ました。
バスティアンは小川の土手で
2人の兄弟と一緒に
ボール遊びをしていました。
末っ子とは違い、2人の兄は
彼によく従っていました。
嬉しそうにふざけたり、
甘えたりもしました。
しかし、それ以上に驚かされたのは
気負うことなく
子供たちと打ち解けている
バスティアンでした。
概して、様子見の態度でしたが、
子供たちが望めば
喜んで応じてやりました。
あの男に見られるとは思わなかった
一面でした。
オデットは、
奇妙な夢を見ているような気分に
囚われながら、
窓の前に佇んでいました。
弟が蹴ったボールが水に落ちると、
バスティアンは躊躇うことなく
ズボンの裾をまくり上げて
小川に歩いて入りました。
子供たちが後を付いて来たため、
あっという間に
水遊びが始まってしまいました。
歓声を上げながら
水遊びをする子供たちを
見守っていたバスティアンの顔に
水面の煌めきのような笑みが
浮かびました。
全身がびしょ濡れになっても、
彼は嫌な顔をしませんでした。
適度にリズムを合わせつつ、
巧みに秩序を保っていました。
子供の世話をしたことなど
あるはずもない男なので
おそらく生まれつきの気質なのだろうと
思いました。
爽やかな夏の日のように笑う
バスティアンから、オデットは、
なかなか目を離せませんでした。
チャプチャプと、
寄せる波のような悲しみの正体に
ふと気づいたのは、煌めく風景に
目が眩み始めた頃でした。
このような日常を送ることが
できたのかもしれない。
あなたと自分が、
それほど愚かでなかったならば。
もしも世の中が、
それほど非情でなかったならば。
幸運の女神が自分たちに、
たった一度でも微笑んでくれたなら。
もしも。もしかすると。
もはや無意味になった後悔の断片が
胸の奥深くに突き刺さりました。
夏と共に、この世に来ると言われた子は
永遠の冬の中で眠りにつきました。
何を失ったのかを痛感させる風景は
残酷なほど美しかったです。
もはや耐えられなくなったオデットが
背を向けたと同時に、
目を覚ました子供が泣き出しました。
「お母さん!」
子どもが大きな声で呼ぶ名前に、
もう一度心が沈みました。
むしろ気まずい沈黙の中で
お互いを耐える方が
良かったのではないかと
後悔しましたが、
もう取り返しのつかないことでした。
これまで繰り返して来た
数えきれないほどの愚かな選択が
そうであったように。
必死に感情を落ち着かせたオデットは
カーテンを閉めて背を向けました。

昼食の時間が近づくと、
元気に走り回っていた子供たちの勢いも
少し衰えました。
バスティアンは、
疲れておとなしくなった2人の兄弟を
両腕に抱き抱えて家に戻りました。
ソファーに深く腰を下ろしたオデットは
抱き締めている子供と一緒に
ぐっすり眠っていました。
一晩中、眠れなかったので、
さぞかし疲れているだろうと
思いました。
バスティアンは、
足音を極力立てないようにして、
2階へ続く階段を上りました。
子供たちは、彼の肩に
ぐったりと、もたれかかって
眠っていました。
まず寝かせてから
食事を取るのが良いと思いました。
オデットの寝室に行ったバスティアンは
自分が使っているマットの上に
2人の子供を寝かせました。
服を着替えて再び1階に降りると、
その間に目を覚ました末っ子が
周囲を見回していました。
目が合うと、子どもはビクッとして
警戒心を露わにしました。
今にも泣き出しそうな顔を
見つめていたバスティアンは、
急いでテーブルの上にある人形を
手に取りました。
幸いにも、子供は
それに興味を示しました。
オデットが目を覚ましたのは、
子供が初めてバスティアンに向かって
微笑んだ時のことでした。
眠気が残っている、だるそうな目で
彼を見つめていたオデットは、
今、何時なのかと静かに囁きました。
腕時計を確認したバスティアンは、
今、1時だと答えると、
そのくらいで、おもちゃを置いて
ソファーの端に座り込みました。
微かな熱気を感じさせるため息を
ついている間に、
オデットが席を立ちました。
抱き締めた子供を見つめる
オデットの眼差しには
優しい温もりが宿っていました。
子供たちが、とりわけ彼女に従うのは
その愛情を感じているからだろうと
思いました。
オデットは、きっと
良い母親になっていただろう。
ふと浮かんだ虚しい考えに
失笑が漏れました。
彼は、その場を離れようとして
立ち上がった瞬間、
食事の準備をしなければならないので
赤ちゃんを少し見てもらえないかと
オデットが、
予想外のお願いをして来ました。
バスティアンは
「私が、その子を?」と
聞き返しました。
オデットは、もう、ある程度、
あなたに慣れて来たので
大丈夫だと思うと答えると、
子供を抱いたまま近づいて来て、
「ほら、笑っているでしょう?」と
言いました。
バスティアンを
チラチラ見ていた子供が
ニッコリと微笑みました。
子どもが笑うとオデットも笑いました。
断るわけにはいかないお願いでした。
子供の世話の仕方を教えたオデットは
急いで台所へ向かいました。
バスティアンは困惑した目で
腕の中の子供を見下ろしました。
2人きりになると、
子供の表情が変わりました。
オデットを探すように周囲を見回し
すぐに涙を浮かべました。
色々なおもちゃを差し出してみても
無駄でした。
悩んでいたバスティアンは、
教わった通りに、
抱きかかえた子供と一緒に
台所へ行きました。
オデットは、
子供たちに食べさせる料理を作るのに
忙しく動いていました。
そんな中でも、
泣きそうな子供に向かって
笑顔で手を振ること忘れませんでした。
おかげで、
気分がすっかり良くなった子供は
再びニコニコ笑いながら
意味不明な言葉を呟きました。
裏庭に出たバスティアンは、
不思議なお喋りをする子供と一緒に
オデットの庭を散歩しました。
やがて子供は「花!」と
理解できる言葉を話しました。
花が咲いている花壇を
きちんと指す仕草が、
かなり、しっかりしていました。
バスティアンはクスッと笑いながら
子どもが指差した花を摘みました。
それを握らせると、子供は
世界をすべて手に入れたかのように
喜びました。
一輪。もう一輪。
花を摘んであげる度に
子供の笑顔は、
ますます明るくなって行きました。
いつの間にか、
色とりどりの花を片手いっぱいに
握りしめてニコニコしている子供を
じっと見つめるバスティアンの眼差しが
深くなりました。
花が咲く季節を知らずに旅立った
娘の記憶が、自分の手で埋めた、
最初で最後になるであろう子供の記憶が
その愛らしい顔の上に
浮かび上がりました。
ギュッと閉じた目を開けると、
澄み渡るように輝く子供の瞳が
見えました。
バスティアンをじっと見つめていた
子供が、そっと手を伸ばして
頬を撫でました。
ちょうどその時、
食事に来てと呼ぶオデットの声が
甘い風に乗って流れて来ました。
バスティアンは表情を整えながら
振り返りました。
永遠の別れを前にして
完璧な幸せを真似たこの日を
長く記憶することになりそうでした。
祝福のように、
あるいは呪いのように。

子供たちの母親は、
約束より少し早い時間に
帰って来ました。
オデットは、
家の前まで彼らを見送りました。
バスティアンも一緒でした。
「バイバイ!」
母の腕に抱かれた子供は、
あれほど怖がっていた
バスティアンにも、
優しく手を振ってくれました。
バスティアンはニッコリ笑って
応じました。
そのくらいで中へ入ろうとした時
「お茶を一杯いかがですか?」と
バスティアンが冷静に尋ねて来ました。
オデットは赤くなった目を上げて
その、底の知れない男を見つめました。
バスティアンの選択を理解して
尊重する。
それはオデットが切に願っていた
結末でもありました。
しかし、なぜ、このように
心が空っぽのような気持ちになるのか
自分自身を、
全く理解することができませんでした。
疲れたので、少し休むと
適当な言い訳をしたオデットは
急いで寝室に上がりました。
幸いにもバスティアンは、
追いかけて来ませんでした。
おかげで、ゆっくり横になって
休むことができましたが、
オデットの神経は、
鋭くなる一方でした。
結局、諦めたように
体を起こして座ると、
ドンドンと騒々しい音が
聞こえ始めました。
オデットは
急いで窓の前に近づきました。
倉庫に入っていた工具を見つけた
バスティアンが、
屋外用のテーブルと椅子を
修理していました。
レースの布とクッションで
巧妙に隠していましたが、
あまりにも古くて状態が良くないことに
気づいてしまったようでした。
オデットは、込み上げて来る
熱い感情を抑えながら
窓に背を向けました。
善意を施していることは分かっている。
だから、ただ感謝して受け入れれば
それで良いことも。
しかし、
ハンマーを叩く音が聞こえる度に、
ひび割れた胸が、
ぱっくりと裂けるような気がしました。
そうして、結局壊れてしまった
心の奥深くで、オデットは
必死に隠して来た愚かな本心を
見ました。
好き嫌いは別として、
バスティアン・クラウヴィッツは
人生で初めての男でした。
オデットの全ての最初は彼でした。
別れるからといって、
忘れられるとは思えませんでした。
だから傷だらけの始まりを、
もっともらしい嘘で
塗り固めたかったのだろう。
浅はかな自己欺瞞だとしても
構いませんでした。
復讐の手段である子供を得るために
手元に置き、役目を終えた後に
ただ哀れな女として残るよりは
良かったから。
同情されるくらいなら、むしろ
欲望の対象でありたかった。
昨夜、あれほど屈辱的だった理由を
オデットは諦めたように認めました。
すると自然に両足が動きました。
気がつくと、いつの間にか
裏庭に出ていました。
テーブルと椅子を全て修理した
バスティアンは、今度は、
固いポンプのハンドルを
直していました。
「やめて」
オデットは断固として命じました。
しばらく工具を置いたバスティアンは
目を細めて彼女を見つめました。
オデットは、
あなたの痕跡が残るのは嫌。
全く感謝していないので、やめてと
訴えました。
バスティアンは、
従妹殿の感謝のようなものは
最初から望んでいなかったと、
大したことではないという風に
返事を素ると
再びネジを締め直しました。
最後の忍耐さえ尽きたオデットは
荒々しく彼の手首を掴み、
あなたこそ、余計なことをしないでと
抗議しました。
バスティアンは、
無理を言うなと反論しました。
オデットは、
そんなに自分が可哀想なら
お金をくれるように。
全て新しい物に
変えてしまえばいいのだからと
ずっと抑え込んで来た憤りを
吐き出すと同時に、
ポンプが作動しました。
空高く吹き上がった水柱が、
向かい合う2人の頭上に
降り注ぎました。
そのくらいにしておけと、
冷ややかに吐き捨てたバスティアンは
とりあえず、
外れた接続部を締め直して
水を止めました。
びしょ濡れで、
荒い息を切らしていたオデットは
逃げるように台所へ向かいました。
仕事をざっと終えたバスティアンは
荒々しい足取りで家の中に入りました。
オデットは、
台所の調理台に寄りかかりながら
彼を睨んでいました。
施しなんてしないでと、
よろめきながら立ち上がった
オデットが冷たく叫びました。
「施し?」と聞き返す
バスティアンの口元が
斜めに傾きました。
これくらいで十分でしょう?
と告げるオデットの目が
赤くなりました。
そして、細かく震える声で
これ以上、自分を惨めにしないでと
懇願しました。
施しだなんて。
バスティアンは、
熱くなった唇を舐めながら
苦笑しました。
飢えた物乞いに、
施しをするかのように
振る舞っているのは、一体誰なのか。
とんでもないことを言うオデットが
滑稽でした。
しかし、それよりもっと滑稽なのは、
こんな瞬間にも、全ての五感が
あの女に向いている自分自身でした。
湿気のせいで、
さらに濃くなった体臭が
甘く感じられました。
濡れたブラウスの下に見える
体のラインを見るだけで、
昨夜の記憶が蘇り
息が苦しくなりました。
自分がどんな気持ちで、あなたを
守って来たと思っているのか。
結局は、自分をどん底へ突き落とす
オデットが恨めしいけれど愛おしい。
傷ついた心をどうすることもできず
八つ当たりでもせずにはいられない
オデットの狂おしい心情を、
バスティアンは、
ぼんやりと理解しました。
わざわざ深く考えなくても
直感的に分かりました。
今の自分も
同じ気持ちだったからでした。
従妹殿は何か勘違いしているようだと
告げたバスティアンは、
コツコツとオデットに近づき、
彼女の前で立ち止まりました。
2人の距離は、今や息が届くほど
近くなっていました。
本当の惨めさとはどういうことか
教えてあげようかと尋ねながら
意地悪く嘲笑う瞬間も、
バスティアンの眼差しは、
それほど冷酷ではありませんでした。
オデットは込み上げて来る涙を飲み込み
彼をギュッと抱き締めました。
その瞬間、唇が触れ、
熱い息が押し寄せて来ました。
激しく襲いかかる力に耐えられず
よろめくオデットを抱き抱えた
バスティアンは、廊下を通り
階段を上り始めました。
古い階段が壊れそうなほど軋む音と
互いの息を奪い合う音が
激しく混ざり合いました。
オデットは、
蔦のように彼を抱き締めながら
目を閉じました。
最後の最後まで行ってみようと
バスティアンは言いました。
それならば、オデットも、
一緒にその終わりに立ちたいと
思いました。
しっかり地面を踏みしめてこそ、
ようやく、再び立ち上がることが
できるはずだから。
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ディセン公爵が
入院している病院に
バスティアンがやって来て、
契約結婚の利点について
説明している時、オデットは
バスティアンが自分に
善意を施しているのかと尋ねると
バスティアンはそれを認めました。
それ以来、オデットは、
お金にしろ、物にしろ、
何かしらの助けにしろ、
彼が与えるものは全て善意の施しだと
思っていたのかもしれません。
バスティアンがオデットに
優しくし、あれこれ与えるのは
善意の施しではなく
彼女を愛しているからですが、
バスティアンは一度もオデットに
愛の告白をしていません。
オデットが、
善意の施しという考えに
囚われたままなのは
無理もないのだと思います。
一方のバスティアンも
オデットが自分のことを憐れんで
優しくしてくれていると思っている。
2人とも、親に恵まれなかった
可哀想な者同士。
人から憐れまれることも
多かったでしょうから、
人の親切は、
全て憐みから来るものだと
曲解しているのでしょうか。
この2人の誤解が解ける日が
待ち遠しいです。
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