8話 オデットはホテルを出て家に向かっています。
橋を渡ると、
街の風景が変わりました。
古びた建物が立ち並ぶ通りは、
きちんと整備されておらず、
割れた歩道の敷石の間から
雑草が生え、
ゴミが無造作に捨てられ、
日雇い労働者とメイドを募集する
人材派遣会社のチラシが、
風に舞っていました。
オデットは、
食料品の入った袋を抱きしめながら
しばらく息をつきました。
ズキズキする腕の痛みが治まると、
オデットは再び歩き始めました。
今朝は、胸がいっぱいになるほど
美しかった春の花々が
今はとても悲しく感じられました。
汚いショーウィンドウと
活気のない通行人たち、
そして、どこからか
微かに聞こえてくる悪口と怒鳴り声も
そうでした。
オデットが角を曲がると、
誰かと思ったら乞食公爵の娘かと
クスクス笑いながら皮肉を言う声が
聞こえて来ました。
オデットは、
あえてそちらを向かなくても、
その声の持ち主に気づきました。
その建物の一階にある食料品店を
経営している男でした。
初めて引っ越して来た頃は
その店を利用しましたが、
低劣な冗談を言いながら
しつこく話しかけてくる主人のせいで
足を運ぶのを止めました。
肥大した体を引っ張って
店の前まで出て来た男は、
ギラギラした目でオデットを探りながら
そんな重いものを持って大変だ。
この町の食べ物は、
そのきれいな口に入れるのも
嫌だということかと
皮肉を言いました。
ここを通るたびに起こることでした。
オデットは、ただ前だけを見て
黙々と足を早めました。
あんな虫けらのような男のでたらめは
聞き流せば済むこと。
気にするようなことでは
ありませんでした。
それでも、以前にはなかった
幻滅が湧き起こったのは、
おそらく過度に疲れた一日を
過ごしたせいのようでした。
次第に薄れて行く男の声が
聞こえなくなる頃になると、
借家のある建物が現れました。
オデットは疲れた足取りで
敷居をまたぎました。
入口にかかっている古い鏡に映った
自分の姿を見て、
自分でも知らないうちに
長いため息が漏れました。
自分の現状に合わない身なりが、
まるでピエロのようで、
あの男の見解も
違わなかっただろうと思いました。
できることなら、
心を込めて着飾って出かけた
今朝の記憶を消したい気分でした。
鏡から目を逸らしたのと同時に
オデットは、
ちょうど、ここにいたんだと
管理人の妻のパルマー夫人に
声をかけられました。
続けて、パルマー夫人が、
また、家で喧嘩をしているようだ。
どうも尋常ではないので、
早く上がってみてと、
とんでもないニュースを伝えると
オデットは顔を真っ青にして
夢中で階段を駆け上がり始めました。
落とした品物が散乱しましたが、
そのようなことを気にする余裕は
残っていませんでした。
最上階に到着したオデットは
鍵のかかっていない玄関のドアを
急いで開けました。
粉々になったガラス瓶と、
ダメになった野花の残骸が
居間の床に転がっていました。
数日前、ティラが姉のために
持って来たものでした。
早くよこさないかと
二人の姉妹の部屋から流れ出た怒声が
家中いっぱいに響き渡りました。
続く鋭い悲鳴が何を意味するのか
直感的に気づいたオデットは、
慌てて騒ぎの現場へ駆けつけました。
開いたドアの向こうに広がる光景は
予想よりはるかに衝撃的でした。
オデットを見つけたティラは
悲鳴を上げるように泣き出しました。
クローゼットと壁の間に
うずくまって座っていたティラは、
姉妹が非常用の金を貯めていた
小さなチョコレートの箱を
全身で守り抜いていました。
ティラの乱れた髪と腫れ上がった頬、
裂けて血が流れている唇を
順に観察したオデットの視線が
父親に向かいました。
酒に酔って赤くなった顔の
ディセン公爵は、今すぐにでも
再びティラを殴る勢いで
腕を上げていました。
オデットは躊躇うことなく駆けつけ、
ティラを抱きしめました。
それと同時に、打撃音が響きました。
装飾が壊れた帽子が
部屋の片隅に飛んでしまうほど
激しく叩かれましたが、
オデットは小さなうめき声一つ
漏らしませんでした。
「お前が一体なぜ・・・」と
当惑したディセン公爵は
後ずさりしました。
ティラを胸の奥深くに抱きしめたまま
息を整えたオデットは、
ゆっくりと顔を上げ、
怒りと軽蔑が込められた瞳で
父親と向き合うと、
今すぐこの部屋から出て行ってと
力を込めて命令しました。
気勢をそがれたディセン公爵は
これはすべて、
あの生意気な女のせいだ。
日に日に下品になっていくのを見ると
あの母親の血を
ごまかすことはできないと
乾いた唾を飲み込んで、
苦しい言い訳をしました。
その瞬間も、両目は
お金の入った箱を見つめていました。
しかし、さっと頭を上げたティラは
自分が下品なのは、
すべて父の血のせいだと
怒りに満ちた声で叫びました。
その言葉に、再び興奮した父親は
ティラに荒々しく罵声を浴びせ、
彼女も負けずに言い返しました。
ギュッと閉じた目を開けたオデットは
お願いだから止めてと鋭く叫びました。
ようやく口をつぐんだ二人が
息を殺している間、オデットは
ゆっくりと立ち上がりました。
オデットは、
二度とティラに手を出さないように。
もう一度こんなことが起こったら、
もう我慢しないと言いました。
ディセン公爵が
「我慢しないって?」と聞き返すと
オデットは、
父親が一番恐れていることが
起こるだろうと脅しました。
ディセン公爵は
この父を脅迫するつもりなのかと
荒々しい叫び声を上げましたが、
オデットは、
何の感情も動揺も見せませんでした。
皇室との最後のつながりまで
失ってはいけないので、
年金がある限り、父親は決して
自分を手放せないことを
オデットはよく知っていました。
それを知った日、オデットは
自分が父親の
最大の弱点になりうるという
もう一つの事実に気づきました。
長い間、オデットを睨んでいた
ディセン公爵は「酷い奴だ」と、
軽蔑のこもった一言を吐いた後、
背を向けました。
荒々しい足音が遠ざかると、
めちゃくちゃになった部屋の静けさが
さらに深まりました。
オデットは、
ようやく緊張が緩んで振り返ると
全身で守り抜いたお金の入った箱を
抱きしめているティラが、
まだ悲しい涙を流していました。
まずオデットは、ティラを助け起こして
ベッドに座らせました。
オデットは、
次からは、そのまま渡すように。
ティラが怪我をするより
その方がましだと言いました。
しかし、ティラはさっと頭を上げ、
怪我をした自分の顔を確認する
オデットの手を押し出すと、
嫌だ。自分は父親のような人に
一銭も奪われない。 いっそのこと
何回か殴られてしまえば良かった。
自分にお姉様のように
高尚なやり方を強要するな。
メイドが生んだ私生児が、
どうして皇女の娘と
同じ考えができるだろうかと、
涙声で叫びました。
そして、
お姉様は何も知らない。
それでも皇室のおかげで
きれいな服を着て
お姫様ごっこもできるお姉様が、
どうして自分の気持ちが分かるのかと
刃を立てて皮肉を言うと、
早足でオデットの横を通り過ぎました。
倉庫のドアが閉まる音が
騒々しく鳴り響くのを見ると、
家の外には出ていないようでした。
オデットは窓の向こうの川を
じっと見つめました。
海軍省の船着場に向かう軍艦が
跳ね橋の下を通っていました。
そっと閉じていた目を開けた
オデットは、そのくらいで
似合わない服を脱ぎました。
そして、
母親の遺品である水色のドレスと
大事にしている靴と手袋、
父親がダメにした帽子を、
思い出したくない記憶と共に、
クローゼットの奥深くに
幽閉しました。
そして、古びた綿のワンピースを着た
オデットは、
まず父親に殴られて乱れた髪形を
整えました。
めちゃくちゃになった家を片付け、
階段のあちこちに散らばっている
食料品を持って来る間に、
日が沈みました。
ティラが隠れた倉庫のドアは
まだ固く閉ざされていました。
どうやら一人だけの時間が
もう少し必要なようでした
割れたガラスの破片で切った傷を
止血したオデットは
台所へ行って夕食を準備し始めました。
お姫様ごっこは終わり。
もうディセン家のオデットに
戻る時間でした。
執事のロビスは困った様子で、
これは皇宮からの手紙だと
最後の報告をしました。
小切手帳にサインしたばかりの
バスティアンは、
まだ火をつけていないタバコを
くわえたまま
ロビスから渡された手紙を開けました。
香水の香りが濃く染み込んだ
便箋を広げると、
まさに予想した名前が見えました。
イザベル皇女。
平穏だった彼の人生に波風を起こした
あの世間知らずでした。
その縁談が与えた衝撃。 謝罪。
しかし、依然として変わらない
一人だけの愛。
バスティアンは無情な目で、
予想と変わらない手紙を読みました。
皇女は、姫と騎士が出てくる
昔々の宮廷恋愛詩を真似る愛に
心酔していました。
娘を心配するあまり、
理性を失った皇帝を理解することが
できるような気がしました。
執事は、
受け取るのを断ろうとしたけれど
必ず渡すよう、
皇女が厳命を下したと謝りました。
タバコに火をつけたバスティアンは、
何でもないように笑いながら
気にすることはないと返事をすると
机の前から立ち上がりました。
皇女は数年間、自分のメイドを通じて
手紙を送って来ていました。
もう形式的な返事さえしなくなって
久しいけれど、彼女の執念は
依然として衰える気配を
見せませんでした。
バスティアンは
暖炉の火の中に手紙を投げ入れました。
バスティアンは、風に当たりながら
ゆっくりタバコを吸った後、
運動着に着替えて家を出ました。
都市の中心部にある公園を
一周走っているうちに、
いつの間にか暗くなっていました。
バスティアンは、
タウンハウスの裏口から続く
小道を通って帰宅しました。
普段より長いシャワーを終えて
出て来ると、
切羽詰まったノックの音が
聞こえて来ました。
バスティアンは、
ガウンの紐を結びながら
入室を許可しました。
早足で近づいて来た執事は
震える声で、
皇宮からの手紙だと告げました。
一日に二通の手紙だなんて。
皇女が与えたイライラが
限界に達した頃、執事は、
皇后の誕生記念舞踏会の招待状だ。
ついに皇宮の客になることができたと
予想外の知らせを伝えました。
感激している老執事の目が
赤く染まりました。
バスティアンは何の感情もない顔で
華麗な封筒を開けました。
皇宮の舞踏会の招待状には
彼らの世界から
徹底的にそっぽを向かれてきた
文字が鮮明に刻まれていました。
あの縁談に応じた代償のようでした。
天国にいる母親も大変喜ぶだろうと
涙を拭ったロビスが
そっと囁きました。
バスティアンは頷いて
招待状を置きました。
母親の気持ちは分からないけれど
継母の心情は
十分に推し量ることができました。
おそらく、夜眠れないだろうし
怒りに耐えられずに寝込んでも
おかしくないことでした。
満足げな笑みを浮かべたバスティアンは
庭へ顔を向けると、近いうちに
再び会うことになる女性の顔が
咲き乱れた春の花の上に
短く浮かび上がり、消えて行きました。
これくらいなら、
悪くない褒賞と言えました。
ティラの母親を下品だと罵るなら
なぜ、ディセン公爵は
彼女に手を出したのか。
メイドが雇えるくらいなので
今よりはるかに
お金に余裕があった時でしょうが、
おそらく、ろくに仕事もしないで、
酒ばかり飲んで、
財産が目減りしていく中、
きっと、ディセン公爵は
ヘレネに愛想をつかされて
相手にされなくなったからではないかと
思いました。
そして、
マンガでは割愛されていた
ティラの痛烈な皮肉。
姉のことは好きだけれど、
母親の生まれのせいで、悉く、
父親から差別されていることで
姉に対する妬みも
少しはあるのではないかと思いました。
一人の男性を好きになると、
その人のことしか見えなくなり
一途になる点について、
ヘレネとイザベルは
よく似ていると思います。
妹に続いて、娘にまで悩まされる
皇帝の気持ちが理解できました。
金貸しの孫と呼ばれて
蔑まされてきたバスティアンが
皇室から舞踏会に
招待されるということは、
相当な栄誉なのだと思います。
マンガではロビスは
若く描かれていましたが、
原作では老執事となっていて、
バスティアンの祖父の代から
仕えていたとしたら、
親子三代に渡る苦労を見て来たので
喜びも、ひとしおなのだと
思いました。