11話 オデットとバスティアンはワルツを踊っています。
オデットは、
足の甲を何度か踏まれる
覚悟をしていましたが、
ワルツは完璧だったので、
少し驚いた目で
バスティアンを見ました。
平然とその視線を受けた男は、
多少傲慢な印象を与えるほど
余裕がありました。
オデットは、
本音を読まれて当惑しましたが、
すぐに平常心を取り戻しました。
バスティアンのワルツが
とても上手だと、
オデットが淡々と褒めると、
バスティアンはクスッと笑い、
ラペンの先生たちは、
猿でも紳士の踊りを
踊らせることができるだろうと
言いました。
ラペン。
聞き慣れないその単語を
繰り返していたオデットの目が
丸くなりました。
有名な名門家の子弟たちも
簡単に敷居を越えることができない
帝国最高の私立学校でした。
野卑で卑賎だという理由で
排斥されている男の口から
出てきそうな名前では
ありませんでした。
適当な返事が見つからず、
躊躇っている間に、
ターンが続くところになりました。
そのおかげで、不快な視線から
解放されたオデットは、
再び今この瞬間に集中しました。
これは最初で最後の舞踏会でした。
二度と来ない美しい夜に
馬鹿な踊りを踊ってしまったと
後悔を残すことはできない。
そう決意を固めたオデットは
バスティアンの巧みなリードに
喜んで自分を委ねました。
母親が世を去った後、
初めて踊るワルツでしたが、
幸い体は、その時の厳格な教えを
忘れていないようでした。
オデットが緊張を解くと、
二人の踊りは、次第に
自然な流れを取り戻して行きました。
満足する皇帝と皇后。
泣き顔でテラスに逃げ込んだ
問題の皇女。
そして、しきりにこちらを
チラチラ見ている
サンドリン・ドゥ・ラビエル
あるいはラナト伯爵夫人。
バスティアンは、
オデットが起こした波紋を
順番に鑑賞して行きました。
予想通りの結果でした。
そこに意外なプレゼントまで
加わったので、
期待以上だと評しても
無理がなさそうでした。
フランツは、オデットから
一瞬も目を
逸らすことができませんでした。
あれほど誇りに思っていた
婚約者と踊っている瞬間にも、
両目は執拗に
オデットを追っていました。
その事実に気づいた
クライン伯爵の娘は
泣きべそをかいていましたが、
フランツは、それさえ
気づいていないようでした。
バスティアンは、
満足そうな笑みを浮かべた顔で
オデットを見つめました。
慌てて視線を避ける瞬間にも、
オデットは、
完璧にバランスの取れた姿勢を
維持しました。
羽のように軽くて
優雅な動きをする女性でした。
今夜が過ぎれば、オデットの評判は
取り返しのつかないほど悪くなる。
その事実をよく知っているけれど、
バスティアンは気にしませんでした。
豪華な宝石とドレスを身にまとい
この場に現れた女が
それを知らないはずがない。
お茶一杯も、
ただでは飲まないと言って、
孤高のふりをしたけれど、
結局、俗物的な欲望に
屈服したのだろうと考えました。
もちろん、その打算的な考えを
理解できないわけでは
ありませんでした。
くだらないプライドだけを守って
奈落の底に落ちてしまう
愚かな女ではないという点が、
ある程度は幸いでもありました。
それなら、それぞれの目的通り
お互いを利用した後、
各自が望むものを手に入れれば
済むことでした。
自分自身を映している澄んだ瞳と
滑らかな象牙色の頬を過ぎた
バスティアンの視線は
青い血管が透けて見える首筋に
届きました。
この女のものであるはずがない
華麗なダイヤモンドのネックレスの
輝きが目を刺しました。
まっすぐな鎖骨に沿って流れている
その光の軌跡を追っていた
バスティアンの視線は、
深く切り込んだ
ドレスのネックラインの上で
止まりました。
胸が特に強調されて見えるのは、
この服が、女性の体にきちんと
合っていないためのようでした。
腰はピンを差して縮めているけれど
身幅を広げる時間は
足りなかったようでした。
そのおかげで見所が増えたので
彼にとっては悪くないことでしたが。
非難するような視線を送っている
オデットを見たバスティアンは、
口の端をやや曲げながら、
美しい宝石とドレスだ。
令嬢とよく似合っていると
褒めました。
そして、もう一度体の線を見ると
女の頬の辺りが微かに赤くなりました。
ドレスの下が、
もっと気になる色でした。
オデットは毅然として、
褒めてもらったことにお礼を言うと
そっと体を離して、
バスティアンとの間隔を空けました。
しかし、どのみち
この男の腕の中にいるので、
ダンスが続く間は
抜け出す方法がありませんでした。
背中を包み込む大きな手に
力が入るのと同時に、
今夜が過ぎたら返却するのかと、
明らかに嘲笑のこもった質問が
聞こえて来ました。
懸命に広げた間隔を崩しながら
近づいて来たバスティアンは、
頭を下げて
オデットと目を合わせました。
傾いた顔に流れ落ちる光が作り出す
陰影が、
すらりと伸びた鼻筋と顎の線を
さらに際立たせました。
下品極まりない言動でしたが、
オデットは、
あえて指摘しないことにしました。
名門私学と王立軍事学校を経て
将校に任官するまで、どの貴族よりも
貴族的な教育を受けてきた男でした。
決して無知の所産ではないという
意味でもありました。
オデットは棘のように刺さった恥辱を
消した顔で、
「はい、一日分の料金を払って
借りたものだから」と答えました。
すでに自分の人生の底を
さらけ出した男でした。
何も隠すことができないなら、
むしろ、
堂々としていた方がましでした。
オデットは、
あまり心配しないように。
他のものを用意する費用は
十分に残っているからと
付け加えました。
バスティアンは、
オデット嬢は、自分の想像よりも
はるかに裕福な女性だったようだと
言いました。
オデットは、
すべて大尉の思いやりのおかげだと
返事をしました。
バスティアンが
「思いやり?」と聞き返すと、
オデットは、
お茶代を節約したおかげで、
大きな得をした。
この芝居が終わるまで、
宝石やドレスの心配を
しなくてもいいと思うと答えると
にっこり微笑むオデットの目が
冷たく光りました。
棘のある冗談を理解したバスティアンは
大笑いしました。
あの日に受けた恥辱に対する
報復のようでしたが、
悪くない挑発でした。
ただし、望んだ結果を
得られなかったようだけれど。
バスティアンは、
あのお茶代が、公爵閣下の賭博よりも
はるかに価値のあるところに
使われていて良かったと言いました。
オデットは、
大尉に世話になった代価として
得たお金なので、
大尉のために使おうと思っていると
返事をしました。
バスティアンは、令嬢が
もっとお金を節約できるように
今度は素敵な食事を
ご馳走しなければならないと
言いました。
しかし、オデットは、
申し訳ないけれど、
その提案は断ると返事をしました。
事もなげに
冗談で応酬していたバスティアンは
そっと眉を顰めて、
その理由を尋ねました。
オデットは、
返済できない借金をするのは困るからと
答えました。
バスティアンは、
まさか自分が、こんなに高貴な淑女を
借金の代わりに売り渡すようなことを
するだろうかと尋ねました。
オデットは、
大尉に初めて会った日の記憶を鑑みれば
あまり信頼できない言葉だと
答えました。
くだらないことを
ぺちゃくちゃしゃべるオデットを
見下ろしていたバスティアンの唇から
新たな笑みがこぼれました。
貴族の血筋は、一様に
首がコチコチだけれど、
オデット嬢はその一つだけでも
誰にも負けないようでした。
実際、女は、
とても長くてまっすぐな首を
持っていました。
二人は互いに見つめ合ったまま
踊り続けました。
時々オデットが視線を避けても
バスティアンは
静かに見つめ続けました。
ダンスが終わる頃、
ホールの向こうから始まった騒ぎが
彼らに届きました。
バスティアンは、
そちらへ顔を向けました。
驚愕してダンスを止めた客の間を
ムカつく縁談の元凶である皇女が
よろよろと歩いて来ていました。
「この乞食!」と
絶叫に近い叫び声が響いたと同時に
皇女が二人の間に入り込みました。
あっという間の出来事でした。
そして、
バスティアンに背を向けて立った
イザベルは、
オデットがドブネズミのような
人生から抜け出すために、
こんなことをしているのを
皆知っている。
オデットは乞食だ。
プライドのない乞食だと言って
彼女に飛びかかりました。
そして、バスティアンには、
この女はお金のために
バスティアンを誘惑している。
クルチザンヌと変わらないと
悪態をつきながら、
手に持っていた髪飾りを
投げつけました。
少し前まで、オデットが
身に着けていたものでした。
そして、
その程度では怒りが解けないのか
イザベルは、
さらに激しくなった勢いで
オデットの髪をつかみました。
その姿を見るバスティアンの口元に
苦笑いが浮かび上がりました。
呆れた醜態だけれど、
酔いに勝てず体をよろめかせながらも
死力を尽くして飛びかかる
その根性だけは
高く評価するに値しました。
難なくイザベルを押し退けた
バスティアンは、
オデットの前に立ちはだかり、
イザベルに、
落ち着くようにと言いました。
怒りが収まらないイザベルは、
まさか、この女を愛しているのかと
尋ねると、ついに泣き出しました。
その間に息を整えたオデットは
壊れた宝石の破片が散らばっている所に
ゆっくりと近づきました。
宝石を拾うオデットを発見した
イザベルは、
今も宝石にだけ目が眩んでいる
あの俗物を見て!と悪態をつきました。
それでもオデットは、落ち着いて
自分のやるべきことだけに
没頭しました。
身の毛がよだつほど冷静な姿でした。
イザベルは「よくも・・・」と
再び、罵倒しようとしましたが、
バスティアンは、
イザベルが酔っぱらっていると指摘し
より断固とした態度で
イザベルを阻止しました。
ぼんやりと彼を見上げていた皇女は
「愛しています」と囁きました。
酔っ払いの定義に
完全に合致する体たらくでした。
イザベルは、
いっそのこと、世界中に
この愛を知らしめたい。
このまま、
バスティアンを奪われるより、
その方がましだと言うと、
イザベルは再び熱い涙を流しながら
バスティアンを抱きしめました。
酔っ払ってくだを巻いている
皇女から、頭が痛くなるほど
ひどい酒の匂いがしました。
口元に浮かんだ冷ややかな笑みを
消したバスティアンは、
まず自分にしがみついている皇女を
丁重に押しやりました。
しかし、イザベルは、
崖っぷちに立っている人のように
必死でした。
力いっぱい背伸びをした皇女は
無謀にも、
バスティアンの首の付け根と顎、
下唇の周辺に
唇を押さえ付け始めました。
その醜態を避けるために顔を背けると
皇座が見えました。
衝撃を受けた皇后が倒れたため、
そこでも、大騒ぎが
起きているところでした。
結局、皇帝夫妻は
予定より早く退場しました。
右往左往していた楽団が
演奏を止めると、宴会場は
冷ややかな静寂に包まれました。
この春の皇宮舞踏会は
不名誉な結末を迎えたようでした。
様々な面で印象的な
社交界デビューでした。
バスティアンは、
密かに見下ろした目で、
皇女が引き起こした騒ぎを見ました。
他人の不幸を見物しているように
無感情だった顔の上に
静かな笑みが浮かんだのは、
死んだ人のような顔色の
クラウヴィッツ夫妻を
発見した瞬間でした。
彼らは、このことで、自分たちの方へ
火の粉が飛んで来るのではないかと
心配で、途方に暮れていました。
婚約者の家の顔色を窺っている
フランツの事情も
大きく変わりませんでした。
怒りに満ちた父親と
目が合ったバスティアンは、
軽く目礼することで
薄っぺらい慰労と激励を伝えました。
そして再び、そう急ぐ様子もなく、
顔を背けました。
皇帝の娘は、
依然として酔いつぶれた状態で
愛を乞うていました。
涙ぐましいほど品のある惨劇でした。
バスティアンはオデットのことを
馬鹿にしているけれど、
彼女の美しいところに目が行くのは
少しは彼女のことを
意識しているからではないかと
思います。
マンガでのイザベルは、
オデットを平手打ちしただけでしたが
原作のイザベルは、
オデットに飛び掛かり、髪飾りを奪って
それを投げつけて、
髪までつかむという乱行。
自分の娘が大勢の人々の前で、
そんな醜態を晒せば
皇后が気絶するのも
無理はないと思います。