12話 イザベルは舞踏会で騒ぎを起こしました。
皇女が引き起こした騒ぎを
目撃したトリエ伯爵夫人は
どうやら、
自分は長生きし過ぎたようだと
呆れて失笑しました。
イザベルは、
明らかに正気を失った様子で
飛びかかっていました。
あまりにも残酷な光景に、
とても目を開けて
見ていられないほどでした。
ずきずきする額を撫でているうちに
あの尊大な目つきを見てと
周りがざわつき始めました。
トリエ伯爵夫人は、ようやく目を上げて
古物商の孫を見ました。
バスティアンは
皇室に対する尊敬の念が、
まったく感じられない、
冷たい軽蔑の目で
イザベルを見ていました。
もちろん、
このような状況ではあるけれど、
恐れげもなく、皇帝の娘に
本音をさらけだすなんて、
不敬極まりない者でした。
こうしているうちに、古物商の孫が
皇女を投げ飛ばすような姿を
見ることになるのではないかと
真剣に心配し始めた頃、
深いため息をついたバスティアンは
頑なに皇女を押し退けました。
最後の体面すら捨てても、
諦められなかったイザベルは
再びしがみついて来ましたが、彼は
これ以上の寛容を示しませんでした。
再び惨めに拒絶されたイザベルが
泣き出したのと同時に
皇太子が現れました。
皇女が兄に引っ張られて行く間、
バスティアンは、
揉み合いの最中に乱れた服を
整えました。
まるで汚いものを払い退けるような
無情な仕草が、
さらにイザベルを滑稽に見せました。
死人のような顔をした皇室の老婦人が
むしろ、ヘレネ皇女の方がましだった。
それでも、あんな恥ずかしいことを
したわけではないと、
声を低くして囁きました。
そして、
少なくともディセン公爵は
名門貴族だった。
どうして帝国の皇女が、
あんな卑しい男に目が眩んで、
こんなことをしたのか、とか、
たとえそうであっても、
能力や財力では、
クラウヴィッツ大尉の方が
はるかに優れている、など、
口論が続いている間に
宴会の終了が公式に宣言されました。
しかし、客は
なかなか帰る気配を見せませんでした。
皇女は去ったけれど、
まだクラウヴィッツ大尉と
オデット嬢が残っていました。
帰ってきた皇太子と話している途中の
古物商の孫をチラッと見た
トリエ伯爵夫人は、
まだ最初の場所に残っている
オデットを見ました。
破けたドレスと乱れた髪が、
彼女が受けた災難を代わりに
物語っていました。
トリエ伯爵夫人の心が
限りなく重くなった瞬間、
オデットが振り返りました。
それと同時に、
皇太子との話を終えたバスティアンも
振り返りました。
二人の目が合いました。
黒い髪が波打つように流れ落ちました。
バスティアンは深呼吸を繰り返した後、
目の前に広がる光景を理解しました。
オデットは髪を解いて
ピンを1本ずつ抜き、
細長い指を櫛にして
乱れた髪を整えました。
ゆっくりとして柔らかい
その動きは、
一見、ダンスの一つの動作のように
感じられたりもしました。
バスティアンは目を細めて、
非現実的な光景を見守りました。
きちんと整えた髪を
片方の肩の下に垂らしたオデットは
ようやく彼と、
正面から向き合いました。
皇女が破いたドレスと
肌に残った爪痕を、髪が
跡形もなく隠していました。
まだ大勢の見物人の視線が
集中していましたが、
オデットは、
その全てを忘れた人のように
見えました。
いや、最初から何事もなかったような
滑稽な錯覚をしたりもしました。
最後にドレスを整えたオデットは、
ゆっくりと、しかし躊躇することなく
誇り高い女王のように、
バスティアンに向かって
近づいて来ました。
バスティアンは、
興味と疑問が共存する目で
オデットを見つめました。
近くで見た彼女の顔は、
すぐに意識を失っても
おかしくないほど青ざめていました。
それでも依然として、まっすぐな姿が
最初の出会いを思い出させました。
父親の賭博の借金のカタで
売られたにもかかわらず、
大胆だった女は、皇宮の屋根の下でも
一貫した態度を見せました。
この程度になれば、
空威張りではないと信じても
無理がなさそうな気迫でした。
最後の一歩を残して立ち止まった
オデットは、無表情の顔を上げて
美しい大理石のホールと
夜の庭を見回し、そして
バスティアンを見ました。
あのような恥辱と侮辱を経験しても、
このように
超然とすることができるという事実に
改めて驚いた瞬間、
オデットが頭を下げました。
その仕草が意味することに気づくまで
それほど
長い時間はかかりませんでした。
オデットは、
ワルツを最後まで踊ることを
求めていました。
丁重なお願い、あるいは傲慢な命令。
どちらにしても、
呆れたのは同じでした。
バスティアンは、少し虚しい気分で
口元を上げました。
貴族の血筋。
情けないと思っていた、
その単語の意味と
この女の何が皇女を狂わせたのか
初めて、
理解できるような気がしました。
皇室の名誉を泥沼に突っ込んだ皇女が
連れ出された大宴会場の入り口。
刺激的な興味を求めて集まった
社交界の好事家たち。
不倫と殺人の代償として
栄誉を享受している父親の貴族の妻。
じっくり辺りを見回したバスティアンは
再びオデットと向き合いました。
そして、
この場にいる誰にも負けない、
しかし、その血管を流れる血は、
最も高貴に見える女に向かって、
喜んで頭を下げました。
あれは一体何をしているのかと
息を殺していた見物人たちが
ざわめき始めました。
大々的に恥さらしになった境遇と
そぐわない行動が、
どれほど厚かましくて、
もっともらしいことなのか。
まだ、この舞踏会が続いているような
錯覚を覚えるほどでした。
手遅れになる前に
オデットを連れて来ようとした
トリエ伯爵夫人は気が変わり
妙な笑みを浮かべた顔で
その光景を見守りました。
ワルツの最後の
退場する場面になりました。
手を握った二人は
自分たちを取り囲んでいる
群衆の存在を、
きれいに消してしまったかのように、
悠々とホールを横切りました。
ただ前へ、前へと
一歩を踏み出しました。
当惑した見物人たちは、
結局、躊躇いながら退いて、
彼らが進む道を開けてくれました。
オデットをエスコートしてきた
バスティアンに向かって、
トリエ伯爵夫人は、
オデットと一緒に過ごした時間は
楽しかったかと、
わざと挑発的な質問をしました。
バスティアンは、
美しい淑女と、
特別な日を共にすることができて
光栄だったと、
礼法書の一節のような挨拶で答えて
微笑みました。
生まれて初めて
皇宮の敷居を跨いだ者とは思えない
余裕でした。
トリエ伯爵夫人は、
探るような鋭い視線で、
目の前に立っている
若い将校を見ました。
出世のために自尊心も捨てて、
犬のように
這いずり回っているという評判が
支配的だけれど、どうだろうか。
むしろ彼は、
一生涯、屈従を知らずに
生きてきた者の傲慢さを
鎧のようにまとった男のように
見えました。
その荒涼な光に魅せられた
世間知らずたちを
理解できそうな気もしました。
だからといって
皇女が正気ではないという事実が
変わるわけではありませんが。
トリエ伯爵夫人は、
また会いましょうと挨拶しながら
オデットの手を受け取りました。
意外にもオデットは震えていて
細く吐く息の音も不安定でした。
トリエ伯爵夫人が呆然としている間に
シャペロンに対する礼儀を尽くした
バスティアンが背を向けました。
オデットの状態を知りながらも、
眉一つビクともさせない古物商の孫に
改めて驚嘆しました。
このような状況になっても
屈せずに耐えているオデットと、
喜んで同調しているバスティアンの
どちらが、より酷いと
言うべきだろうか。
優劣をつけがたい好敵手であることは
明らかでした。
ヘレネは娘をかなり立派に育てた。
男を見る目は無茶苦茶でも
良い母親ではあったらしいと
トリエ伯爵夫人は、
心からの称賛の言葉で
慰めの代わりをしました。
人を呼ぼうとしましたが、
この子が望まないと思い
それも止めました。
トリエ伯爵夫人は、
慈愛に満ちた笑みを浮かべながら
オデットはよくやった。
完璧だったと褒めると。
オデットの瞳が揺れました。
安堵感と喜び。いくらかの幻滅。
あるいは悲しみ。
両目に溜まった涙とともに輝いた
その豊かな感情は、
まもなく姿を消しました。
オデットは、
震える唇に笑みを浮かべながら、
落ち着いてお礼を言いました。
トリエ伯爵夫人は、何も言わずに
オデットを連れて行きました。
もう、この子には
休息が必要なようでした。
深いため息をついたデメル提督は
君の言うことを信じると、
声を低くして囁きました。
数回に渡って、
皇女との関係を追及した後に下した
結論でした。
当分は自重するように。
オデット嬢と、もう少し接近するのも
悪くないだろうと、
脅迫に近い頼みを残し、デメル提督は
宴会場を離れて行きました。
彼女を利用すること。
言いたかったのは、
結局それだけでした。
その後も何人かの小言をいう者が
やって来ては去ることを
繰り返しました。
やがてバスティアンが
宴会場を抜け出した時は
夜が更けていました。
例年と同じなら、舞踏会が
盛り上がっている時間でしたが、
今夜の皇宮は重い寂寞の雰囲気に
包まれていました。
待機中の車に乗ったバスティアンは
後部座席に深く寄りかかって
目を閉じました。
蝶ネクタイの結び目を
ゆるく引っ張ると、
疲れ切ったため息が漏れました。
もしかしたら、
今日起こった事件の余波が
収まるまでに、
長い時間がかかりそうなので
皇帝のための演劇の上演日を
増やさなければならないかも
しれないという気がしました。
決意を固めて目を開けた時、
車はラッツ都心の
フレべ大通りを走っていました。
車の窓の向こうに、
ラインフェルトホテルの夜景が
見え始めると、ふと、
あの女が思い浮かびました。
最後の瞬間まで、オデットは
頑固な意志を貫きました。
誰も彼女が
真っ青になって震えているとは
思わないほど孤高な姿でした。
あの夜も彼女は、
再びベールをかぶり、
体をまっすぐにし、優雅な歩き方で
裏通りの賭博場を離れました。
透き通るような白い首筋に沿って
流れていた髪の毛の記憶を
消したバスティアンは、
このくらいで窓から目を逸らし、
再び目を閉じました。
髪を引っ張られて、
ドレスを破かれて、
爪の痕が残るほど引っ掻かれても
平然と、身だしなみを整えた
オデット。
本当によく頑張りました。
偉いです。
母親のヘレネ皇女は、
いつか皇室に戻れる日を夢見て
オデットを
厳しく教育したのですね。
でも、ピンチを乗り越える力は
貧しい生活をしている中で
身に着いたものではないかと
思います。
舞踏会に来た人たちは、
最初は、オデットのことを
あまりよく
思っていなかったでしょうけれど
今回の彼女の姿を見て、
トリエ伯爵夫人のように
彼女の良さを認めてくれた人が
何人か出て来たと思います。
それに比べてイザベルは、
たとえ酔っていたとしても、
ここまで醜態をさらしてしまうと
評判はがた落ちだと思います。