140話 この新エピソードは、エルナの誕生日パーティーと、翌朝ビョルンが、いったん、シュベリンへ帰るシーンの間に入ります。
21歳になって迎えた
最初の日が始まりました。
エルナは、
いつもより少し早い時間に
目を覚ましました。
ベッドを整えてカーテンを開けると
まだ夜明け前の空が見えました。
澄み切った闇に包まれている
バフォードの風景を
じっと眺めていたエルナは、
静かに体を回して
浴室へ向かいました。
散歩へ行く支度が全て終わるまで、
他の人の気配は
聞こえて来ませんでした。
リサもまだ、
目を覚ましていないようでした。
最後に、マントのフードをかぶった
エルナは、
そっと部屋を出ました。
廊下を通って階段を下りる間、
足音を立てないように
慎重を期しました。
毎日、一緒に散歩をしてくれる
リサがいて良かったけれど、
今日は一人で歩きたいと思いました
自分でも、
理由は分かりませんでしたが、
なぜか、そんな気分がする
朝だということだけでした。
誰も起こさずに、
家から抜け出すことに成功した
エルナは、慎重に玄関のドアを
閉めました。
安堵のため息をついて
背を向けたと同時に、プッと
軽い笑い声が聞こえてきました。
「おはよう、21歳のエルナ」と
馴染みのある挨拶が、
その後に続きました。
エルナは丸く見開いた目で
穏やかな声が聞こえて来た方を
見ました。
軽く腕を組んだビョルンが、
ポーチの柱に背中をもたれて
立っていました。
エルナはビクッとして
一歩後ろに下がりました。
もうすぐ、ふざけた冗談が
聞こえてくるだろうと思って
しっかり備えましたが、
ビョルンは何も言いませんでした。
その代わりに、
ゆっくりエルナに近づきました。
家の玄関を照らしている
外灯の明かりが、
向かい合った二人を
静かに照らしました。
ようやくエルナは、ビョルンの姿が
いつもと違うとことに気づきました。
警戒心をやや緩めたエルナは、
目を凝らして、
見知らぬ王子を観察しました。
ビョルンは
格式のある服装をしていました。
おしゃれに結んだタイとコート、
手袋とマフラーまで、
完璧に揃えた姿でした。
きれいに梳かした髪も、
バーデン家の招かれざる客として
過ごしていた時とは
全く違っていました。
ビョルンは、
「行きましょう」と言って
ゆっくり手を差し出しました。
エルナは眉を顰めて、
ビョルンを見つめました。
エルナは
「どこへ?」と尋ねました。
ビョルンは、ニッコリ笑って
「散歩」と普通に返事をしました。
ぼんやりしている
エルナを見ていた彼は、
妃の朝の散歩の時間ではないかと
再び、平然と
エスコートを要請しました。
エルナは、反論しようと思って
唇を開きましたが、
きっとまた言い争いをすることに
なるだろうと思い
何も言えませんでした。
21歳の最初の日を、
この男のせいで台無しにしたくは
ありませんでした。
ニッコリ笑っていた唇を
ギュッと閉じたエルナは、
何気なく王子の横を
通り過ぎることで、
拒絶の返事の代わりとしました。
しかし、ビョルンは平気で
エルナの後を追いました。
昨夜降った雪を踏みしめる
二人の足音が、
冷たく澄んだ夜明けの空気の中に
静かに染み込んで行きました。
一体なぜ?
エルナは、必死で
好奇心を抑え込みながら
裏庭に向かいました。
ビョルンは、
一定の距離を保ちながら
後を追って行きました。
まるで、歩く大きな影を
付けて行くような気分でした。
どんな心境の変化なのだろうか?
野原へと続く柵のドアを
開ける頃になると、エルナの唇が
むずむずし始めました。
しかし、ビョルンは依然として
のんびりエルナの後を
追うだけでした。
その余裕のある態度が、
少し憎たらしいと思いました。
あの男の手に巻き込まれては
いけないということを
知っているのに、
心をコントロールするのが
大変でした。
雪に覆われた野原を横切ったエルナは
凍った小川の前で
しばらく足を止めました。
ビョルンは一歩の間隔を保って
立ち止まりました。
いつも自分勝手な男が、
今日は、今さらのように
紳士らしくなりました。
本当に気に入るものが一つもないと
思った瞬間、
ビョルンが低く笑いました。
そして最後の一歩を踏み出し
二人の距離を縮めました。
薄暗い夜明けの光が、
並んで立った二人を照らしました。
エルナはゆっくりと首を回して
ビョルンを見ました。
ビョルンも
エルナを見つめていました。
疑問を呈すように首を傾げると、
彼は、いけずうずうしく
肩をすくめました。
話さないので、
ますます憎たらしい男でした。
こうなるくらいなら、
むしろ言い争いをした方が
良さそうでしたが、
だからといって、
今になって態度を変えるのは、
何となくプライドが傷つきました。
静かにため息をついたエルナは、
止まっていた足を再び踏み出して、
小川を渡りました。
手を握ろうとするビョルンの好意は
断固として拒絶しました。
フードの外に流れ落ちた髪が
飛び石を踏みしめる
慎重な足取りに合わせて
波打ちました。
小川を通って野原へ、銀色の森へ。
エルナは、大好きな散歩道を
悠々と歩きました。
並んで歩いている男の存在は
忘れることにしました。
せっせと呪文を唱えたおかげか、
ある瞬間から、
ビョルンを意識しなくなりました。
その場所に
足を踏み入れてしまったのは
そのためでした。
ぱっと気が付いた時には、
森の中の空き地にいました。
夏になるとスズランが満開になり、
飲み過ぎた酒に酔って
とんでもないことをしてしまった
まさにその場所。
当惑したエルナは、
反射的に首を回して、
ビョルンの顔色を窺いました。
彼が気付いていないかも
しれないという希望は、
すぐに絶望に変わりました。
ビョルンは依然として
沈黙を守っていましたが、
その目つきだけでも、同じ記憶を
思い出しているということを
感じ取れました。
マントをしっかり握ったエルナは
逃げるように、
その空き地を立ち去りました。
その時、ビョルンは
堅固な沈黙を破りました。
「エルナ」
淡々と名前を呼ぶ声が
冷たい風に乗って流れて来ました。
エルナは口を固くつぐんだまま、
足を速めました。
逃げるエルナの後ろ姿を
見守っていたビョルンは、
「あなたがくれた約束の証。
あの鈴蘭」と再び口を開きました。
ピタッと立ち止まったエルナの上に
痩せこけた冬の木の間を通って来た
朝の日差しが降り注ぎました。
ビョルンは、
青いマントに包まれた
妻の背中を見つめながら
実は捨てたと、
真実を告白しました。
灰皿に無造作に投げ捨てられ、
タバコの灰と共に捨てられた
あの小さくて愛らしい花が
か細い背中の上に
浮かび上がりました。
今さら後悔したところで、
あの日の選択を覆す方法は
ありませんでした。
だから、適当に揉み消すのが
最善だと思いましたが、
それは、結局、卑怯な欺瞞に
過ぎないということを、
今や、謙虚に
受け入れることができました。
今さら、真実を告白することに
一体何の意味があるだろうか。
ビョルンは、
夜が過ぎて夜明けが来るまで
考えに考えてみましたが、
明確な答えを見つけることは
できませんでした。
ただ、再び虚像の影に隠れて、
エルナを欺き
騙したくありませんでした。
一瞬一瞬、
真心を尽くしていた彼女に、
彼も真心で
近付きたいと思いました。
不利な手札を握ることになっても
構わない。
誇張や欺瞞で得た勝利は
どうせ無意味だから。
夜明けの闇の中で
エルナを待ちながら下した
結論でした。
ゆっくり体を回したエルナは
そうかもしれないと思ったと
落ち着いて返事をしました。
がっかりした様子もなく、
ただ淡々とした表情をしていました。
ビョルンは、少し驚いた目で
妻を見つめました。
エルナは、
あの花について話しても、
一度も確答してくれなかったから
そうかもしれないと思ったと
答えました。
雪に覆われた鈴蘭の群生地を
通り過ぎたエルナの視線が
ビョルンの顔に届きました。
冬の森を染めている朝焼けが
向かい合った二人の間に
静かに降り注ぎました。
そこまで考えていなかった
エルナの返事を
繰り返し考えていたビョルンは
なぜ、聞かなかったのかと
尋ねました。
エルナは
「何を?」と聞き返しました。
ビョルンは、
あなたの贈り物を捨てた理由だと
答えました。
エルナは、
どうせ、それは重要ではないからと
返事をすると、
口元に微かな笑みを浮かべました。
そして、
それなら、無理に尋ねることで
もう一度、傷つきたくなかった。
結局、そうなってしまったけれど。
もう全て無意味なことなので、
あえて不要な真実を
明らかにする必要はないと、
頼むように伝えると、
再び振り向いて歩き出しました。
走るようにして森を抜けると、
朝の日差しに輝く雪原が
広がっていました。
目を刺すその光に耐え切れず
目を閉じると、
いつの間にか背中の後ろまで
近づいて来たビョルンの声が
聞こえて来ました。
「きれいだった」と、
再びエルナを傷つけた男が
甘美に囁きました。
そして、世界中が
グレディスの象徴のように
考えていた花だけれど、
それでも、きれいだったと
打ち明けました。
幸い、その声は、
一歩離れた所で止まりました。
エルナはゆっくり目を開けて
雪原の向こうを見つめました。
ビョルンは、
それで捨てた。
その花がきれいだと思う自分が
嫌だったからだと説明しました。
ビョルンの視線も、
エルナと同じ方へ向けられました。
あの花を差し出していた
エルナの姿が、
煌めく風景の上で蘇りました。
無垢な信頼を込めた、
あの澄んだ目がきれいでした。
はにかむような笑顔もそうでした。
ビョルンは、
もう一度チャンスをくれれば
大事にすると、自分の最後の手札を
淡々と出しました。
勝率が著しく低いことは
分かっていましたが、
気にしませんでした。
だから、エルナ・・・
と言いかけたビョルンの言葉を
エルナは、聞きたくないと拒絶し
断固として首を横に振りながら
遮りました。
そのため、脱げたフードが
背中の後ろにずり落ちました。
「やめてください、ビョルン」
細かく震える声は、
微かに涙に濡れているようでした。
そして、
「お願いします」という言葉を最後に
再びエルナは歩き始めました。
遠ざかっていく妻を
じっと見つめていたビョルンは、
白い雪の上に残った足跡を
ゆっくり追いかけ始めました。
この後、ビョルンが
シュベリンへ戻るシーンに
続きます。
今になって、ビョルンが
エルナに貰った造花の鈴蘭を
捨ててしまったことと、
捨てた理由を打ち明けたのは、
そのことが、ずっと
ビョルンの心の棘と
なっていたからなのでしょうけれど
ビョルンは正直に話すことで
すっきりするかもしれませんが
今のエルナに話したら、
自分は賭けのトロフィーに
過ぎなかったと
ダメ押しされているような
気がするのではないかと思います。
でも、エルナを騙したくない、
欺きたくないと
思えるようになっただけ、
以前より、ビョルンは
はるかにマシになったと思います。