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64話 グレディスはビョルンに王冠を返したかったと言いました。
レチェンの人々も、
それを切に望んでいた。
ビョルンの一挙手一投足を注視し
憎むのは、言い換えれば
未だにビョルンを愛しているという
証だから。
皆、内心、ビョルンが
再び王太子の座に戻ることを
望んでいた。
自分たちがよりを戻すのを
熱烈に望んだ理由もそこにあったと
言いました。
エルナは青ざめた顔で、
なぜ自分に、こんなことを話すのかと
震える声で尋ねました。
ぼんやりとエルナを見つめていた
グレディスは、
静かにため息をつきました。
ようやく、状況が
思い通りに動き始めましたが、
あまり満足できるものでは
ありませんでした。
おそらく、
ビョルンへの心配のせいでした。
グレディスは、
特別な意味はない。
ただ、そうだったという、
つまらない過去の話だと答えました。
大切な妻。
こんな女を、そう呼んで
自分を傷つけたビョルンのことを
グレディスは恨めしく思いました。
もう少しだけ
自分を理解してくれていたら
自分は決して、一瞬たりとも
彼を欺いたことがなかったということが
わかっていたはずなのに。
そうしていれば、
自分たちはこのように壊れず
相変らず自分たちの場所で、
煌びやかに輝くことができたのにと
思いました。
グレディスは、
この全てを水泡に帰す結婚をしたので
大公妃は、自分よりずっと優れたものを
ビョルンに与えることが
できるのではないかと言いました。
それからグレディスは、
エルナとの距離を一歩縮めて
近づきました。
エルナの赤くなった目を見ると、
気分が、随分楽になりました。
グレディスは、
まさか、あのすごい男を、
実家の借金を返して、
身分を上げるというつまらない目的で
利用するはずがないだろうと
信じていると言いました。
この女が傷つけばいい。
そのような卑劣な考えをする自分が
憎くても、
グレディスは止められませんでした。
ビョルンの隣の場所を取り戻せなくても
少なくとも、こんな女に
譲り渡すのは嫌でした。
そろそろ、席に戻りましょうと言って
背を向けようとしたグレディスを、
深く考え込んでいたエルナが
呼び止めました。そして、
一つ聞きたいことがあると尋ねました。
グレディスは、
話すようにと促しました。
エルナは、
貞淑な淑女なら、
自分の夫ではない男性の名前を
気軽に呼んではいけないことを
知っているけれど、もしかして
ラルスの礼儀作法は違うのかと
まっすぐな目で、
グレディスを見つめながら尋ねました。
エルナは、何十回と悩んでも
何が最善なのか、
まだ、よく分かりませんでした。
しかし、このまま一生、王女の影で
生きるわけにはいかないということは
明らかでした。
エルナは、
自分が見知らぬ世界の中に、
引き返せない一歩を踏み出したこと。
だから、どうしても
この見知らぬ世界の中に、
自分の居場所を
作っていくしかないという事実を
今日、この場所で痛感しました。
一年だけ耐えた後、
バフォードに戻る夢を見ていた
頃のように、世間との間に
壁を作って生きていくわけには
いきませんでした。
エルナは、
もしラルスの礼儀作法が
レチェンと違うとしても、王女には
レチェンの礼儀作法に従って欲しいと
要求しました。
グレディスは、
「何ですって?」と言い返しました。
ずっと余裕があった
グレディスの目つきが揺れました。
エルナはもう、その目を
避けることはありませんでした。
エルナは、
実は自分は王太子時代の夫のことを
よく知らない。
自分の故郷のバフォードは、
そんなニュースがあまり届かない
辺鄙な田舎だから。
自分は今年の春になって
外の世界に出たので、
自分が知っている
ビョルン・デナイスタの姿も
その日から始まったと言うと
首をまっすぐにして、
乱れた呼吸を整えました。
そして、エルナは、
夫が過去に享受した栄光を
取り戻す力が、
自分にはないということは
よく知っている。
王女の言葉のように、
家門の借金を背負ったまま
結婚した自分が、一体、ビョルンに
何を与えることができるだろうか。
しかし、夫が自分を選んだのは、
自分が与えることのできる何かが
きっとあるという意味ではないかと
信じている。
だから、自分は、
自分が知っているビョルンのために、
自分にできる最善を
尽くしていこうと思うと話しました。
グレディスは、
今、自分に歯向かっているのかと
尋ねました。
エルナは、それを否定し、
ただ率直な自分の気持ちを
話しているだけだと
断固として答えました。
そして、
ピンクのスズランが咲き乱れる
花壇を見た後、
さらに強固な目つきで、再び、
グレディスと向き合いました。
エルナは、
貴重な花を分けてくれるという
申し出はありがたいけれど遠慮する。
自分は、
やはり白が好きだと言いました。
エルナは、手が冷たく固まっていくのを
感じましたが
頑なに自分の意志を表明しました。
そして、
帽子の飾りを減らすつもりはない。
このままでも十分きれいだからと
言いました。
エルナの言葉は、
一つ一つはっきりしていて、
降り注ぐ秋の日差しのように
澄んでいました。
グレディスは何も答えませんでした。
赤くなった目でエルナをじっと見つめ
虚ろな笑みを浮かべただけでした。
話が終わったと判断したエルナは
これで失礼すると、
礼儀正しく挨拶した後、
背を向けました。
遠ざかっていくエルナの背中を
見つめていたグレディスは
「大公妃!」と慌てて叫びました。
足を止めたエルナは、
半分だけ振り返って、
続く言葉を待ちました。
グレディスは、
夫のことを、全部知っていると
思っているのか。
ビョルン・デナイスタが
どれほど恐ろしくて残忍な男なのか、
本当に全て知っているのかと
尋ねました。
彼女の眼差しには、
露骨な嘲笑が込められていました。
淡々とその視線を
受け止めていたエルナは、
よく理解できないと言わんばかりに
首を傾げると、
ビョルンが本当にそんな男なら、
王女は、なぜ、
その恐ろしくて残忍な男を
取り戻したいのかと、
落ち着いた口調で聞き返しました。
グレディスは、
何の返事もできませんでした。
短く黙礼をしたエルナは、
声を詰まらせているグレディスを
一人残して背を向けました。
小さな体を包む花とリボン、
繊細なレースの装飾が
柔らかくて力強く、温室を舞う
蝶の羽ばたきのように揺れました。

興奮したメイドが、
早く、馬車を止めてと
大声で叫ぶ声が、
ひっそりとした道を揺るがしました。
驚いた御者が馬車を止めるや否や、
突然ドアが開き、
大公妃とメイドが飛び出して来て、
あっという間に草が生い茂った道端に
走って行きました。
苦しそうに嘔吐する音を聞いて
ようやく御者は、
この状況を理解しました。
汽車の汽笛と競っても
負けないくらいの声で、
メイドは「水!水!」と
再び彼を急き立て始めました。
御者は慌てて水筒を手に取り
二人のそばに駆けつけました。
大公妃は口を何度もすすいだ後、
よろよろと体を起こしました。
元々、肌が白かったけれど
今は白どころか青みがかかるほど
顔色が悪くなっていました。
御者は、
大公妃を助けようとして近づくと、
彼女をしっかり支えていたメイドは
目を見開き、
今どこを触ろうとしているのか。
生きていられると思っているのかと
猛々しく睨みつける目で訴えました。
ぎょっとした御者は急いで退き、
馬車のドアを開けました。
大公妃を支えて馬車に乗せたリサは、
雲に乗っているように
ゆっくり馬を走らせてと
繰り返し頼みました。
雲だなんて、狂気の沙汰だ。
一体、なぜ自分は、
この若いメイドの命令に従っているのか
分かりませんでしたが、御者は、今回も
うっかり頷いてしまいました。
何か変だと思ったのは、
すでに手綱を握った後でした。
雲のように動く馬車の音が
マンスター宮殿へと続く道沿いに
流れ始めました。
エルナは、リサが当ててくれた
クッションにもたれて横になり、
窓の外を流れる風景を眺めました。
氷のように冷たかった手と足に
温もりが感じられるようになると
ようやく、現実感が湧いてきました。
リサは、大丈夫かと尋ねると、
泣きそうな目で、
ぐったりとしているエルナを見ました。
ラルスの王室の貴婦人たちと
ティータイムを共にした後から、
ずっと顔色が悪かったけれど、
とうとう、しっかり、
具合が悪くなってしまったようでした。
静かにリサを見ていたエルナは、
自分が本当におかしくなったみたい。
自分が何をしたのか分からないと
ぼんやり呟きました。
リサは、
社交界だとか、
王室だとかいう所にいる人たちは
皆、少しずつ狂っているので
一緒におかしくなってしまえば、
かえって気が楽になると呑気に返事をし
もう一つクッションを当てました。
温室で何があったのか分からないけれど
リサの基準では、
無条件にエルナが正しく、
彼女が間違っていても、そうでした。
客観性なんて、
ラルスの犬にでも聞けでした。
リサは、
メイド長がグレディス王女と
共謀したのではないか。
そうでなければ、
こんな汚い・・・いや、
汚ならしい偶然が起こり得るのかと
主張しました。
先程の出来事を繰り返し思い起こす
リサの眼差しが鋭くなりました。
よりによってメイド長が
外出を勧めた日に、
ラルス王室の女性たちが乗馬に来て
その時間に、
あのように出会う確率が
一体どれだけあるというのか。
リサの胸の中で火柱が噴き上がり、
本当に許せない。
王子に告げ口するようにと
エルナに勧めましたが、彼女は
頑として首を横に振りました。
リサは、
どうして、そんなにもどかしいのか。
王子の心も掴んだのだから
この機会に・・・と言いましたが、
エルナはリサの手をつかんで、
今日湖畔であったことは秘密にしてと
頼みました。
リサは、こんな目に遭って、
悔しくないのかと尋ねました。
エルナは、悔しいと答えました。
リサは、
それなのに、どうしてと尋ねました。
エルナは、
あまりにも悔しいから、
秘密にしておきたいと答えました。
リサは、エルナの言うことが
少しも理解できませんでした。
悔しかったら、泥まみれになって、
髪の毛を全部抜かれてでも、
戦って勝たなければならないと
思いました。
しかし、結局リサは、
今回もエルナの意思に
逆らえませんでした。
哀願するように見つめる、
その大きな目に向き合うと、決まって
心が弱くなってしまうためでした。
エルナはリサにお礼を言いました。
ニッコリ笑うエルナの顔を見ると
リサは、さらに心が痛みました。
どうして、このような妻に
無関心でいられるのか。
毒キノコ王子の心臓は
鋼鉄でできているのだろうか。
何となく嫌な気分になったリサは
窓から外を見ました。
道の向こうに、
早く去りたいラルスの離宮が
見え始めたところでした。

カレンは、普段とは違って、
落ち着かない足取りで
玄関ホールをうろうろしていました。
もう取り返しのつかない状況では
あるけれど、
もうすぐ大公妃が戻って来ると思うと
どうしても気が休まりませんでした。
ビョルンは一度も声を荒げず、
怒りと呼べるほどの感情を
表に出しませんでしたが、
そのせいで、さらに
息が詰まりそうな気分でした。
しばらく黙って
カレンを見つめていたビョルンは、
ぞんざいに評価したのでなければ、
メイド長が、
この程度の人間だったという意味だと
言うと、妻のノートを撫でながら、
そっと首を傾げました。
懸命に守ってきたカレンの平常心が
崩れた瞬間でした。
そのノートを作成する間、
カレンは、
ずっと大公妃のそばにいたので、
そのノートに何が書かれているか、
カレンは、誰よりも
よく知っていました。
そのため、ビョルンが、
何を指摘しているのかも
すぐに気づくことができました。
グレディス王女を排除して
まともな社交活動をすることが
難しいのは明白な事実でした。
しかし、カレンは、
この家門は
グレディス王女と親しいけれど
その家門の夫人はそうでなかったり、
ラルス王室と
友好的な関係を維持していても
心の溝ができていたりという
細かな事柄を、すべて排除しました。
気に入らない大公妃が、
孤独な境遇に転落することを
願ったためでした。
ノートを下ろしたビョルンは、
二つのうち、どちらがいいかと
尋ねました。
夕食のメニューを決めるかのように
尋常な態度でした。
カレンが選べる選択肢は、
どうせ一つしかなかったので、
彼女は、自分が至らなかったことを
謝りました。
机にもたれかかっていた体を
起こしたビョルンは、
ゆっくりとカレンの前に近づきました。
どうしても顔を上げることができず
カレンは足元に映る
王子の影だけを見つめました。
しばらく、その場にいたビョルンは
カレンにお茶を一杯頼むと
妻の寝室を離れました。
その場に座り込んでしまわないために
あらん限りの力を
振り絞らなけばなりませんでした。
そのように、カレンは、
辛うじて窮地を脱したものの
もし帰って来た大公妃が
夫に告げ口でもしたら?
そう考えるだけで、
再び、足が痺れて来るようでした。
もし、そのような状況に置かれたら、
しらを切ることにしましたが、
はたして王子を欺くことができるか
確信が持てませんでした。
日差しが赤みを帯びたころ、
大公妃を乗せた馬車が
帰って来ました。
その音を聞いたカレンは、
慌てて玄関の外へ駆け出しました。
ちょうど馬車から降りた
大公妃の視線が彼女に向けられました。
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ジェラルドの子供を妊娠したまま
嫁いで来たことは
娘狸自身も知らなかったから
もう少しだけ
自分を理解してくれたらというのは
ビョルンと婚約した後のことを
言っているのでしょうか。
ラルスの唯一の王女として、
両親と兄たちから溺愛され
大事にされ、
父親は体の弱い娘狸のために、
常春の温室まで作ってくれた。
それなのに、ビョルンは婚約しても、
今までと態度が変わらず、
恋人同士のような語らいもなければ
優しくしてもくれない。
求婚書(内容は分かりませんが)には
あんなに素敵な言葉を
書き連ねていたのに、
口では何も言ってくれない。
大事にされ、溺愛されることに
慣れている娘狸は
ビョルンの冷たさに耐えられず
もっと構って欲しいと思った。
でも、ビョルンが
そんな自分のことを
少しも理解してくれなかったから
娘狸に優しくしてくれて、
愛の言葉を囁いてくれて、
詩まで書いて娘狸を讃えてくれる
ジェラルドのことを
好きになってしまった。
それで、妊娠して、
自分でも気づかないうちに
ビョルンを欺くことになってしまった。
だから、ビョルンさえ、
自分のことを理解してくれたら
欺いたりしなかったのよと、
娘狸は言いたかったのではないかと
推察してみました。
もし、そうだとしたら、
本当に自分勝手な理屈だと思います。
そして、他の女なら良いけれど、
ビョルンの隣にいるのが
エルナでないことを願うのは、
ビョルンがエルナを好きなことに
気づいていたからではないかと
思いました。
エルナの反撃。
マンガでは唐突に始まった感が
ありましたが、その裏には、
見知らぬ世界に自分の居場所を作り
世間と壁を作らないという決意が
あったことを知ることができて
良かったです。
おそらく娘狸は、エルナのことを
田舎者だとバカにしていたから、
自分が反論できない言葉で
反撃して来るとは
思っていなかったでしょう。
エルナは頑張って
グレディスと対峙したけれど、
ずっと緊張していて、かなり神経が
参ってしまったのではないかと
思います。
ビョルンの前ではなく、
リサの前でしか
弱みを見せられないのが悲しいです。
狸娘がビョルンのことを
恐ろしくて残忍な男だと
思っているのは本当だと思います。
使用人たちの手前、家の中では、
食事を一緒に取っていたけれど
娘狸は針の筵に座っているような
気分だったと思います。
けれども、公の場では体面を保つために
ビョルンは
仲の良い夫婦を演じていてくれたし
民衆に歓呼されるのが心地よかった。
だから、家の中では、
どんなに冷たくされても、
王太子妃としてちやほやされ、
煌びやかに輝ければ、
ビョルンの残酷さに耐えられると
思ったのでしょう。
もしかして、
カールがいなくなった後なら、
ビョルンの態度が変わるのではないかと
期待していたかもしれません。
ラルスにとってカールは邪魔者。
さすがにグレディスは
関わっていないと思いますが、
midy様のカールの暗殺説。
もしかしたら、
本当にあったのではないかと
思いました。
ビョルンは、
カレンがエルナに意地悪をしたことに
気づいていたけれど、
それを、あからさまに咎めるのではなく
笑顔で追い詰めることで、
カレンにどうするか選ばせていたのが
すごいと思います。
まさか、カレンは、
自分がエルナに意地悪をしたことを
認めるわけにはいかなかったので、
この程度の人間だったということに
したけれど、カレンにとっては
屈辱的だったと思います。
けれども、率先して
大公妃であるエルナの悪口を言ったり、
意地悪をしたカレンは、
まさに、この程度の人間だったのだと
思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
今回は、娘狸やカレンのことで
言いたいことがたくさんあって、
つい考察も長文となってしまい、
大変失礼しました。
パル様
そうなんです。
ビョルンはラルス王に
本心を言っているのに、
なぜ、グレディスは当てつけだと
思っているのか、
理解に苦しみます。
「生涯の初恋」という言葉。
すっかり忘れていました。
思い出させていただき
ありがとうございます。
DUNE様
実は、私もネタバレ見ています。
それを励みにして、
早く、そこまでたどり着かなければと
せっせと文章を
パソコンで打っています。
midy様
他の方々の考察を読みながら、
ますますご自身の考えを膨らませ、
それが、他の方々の新たな考えを
引き出していく。
さすが師匠です。
メロンパン様
夜空に星、地面に赤い砂。
とても見てみたいです。
今朝、庭を見たら、
鈴蘭が顔を出し始めていました。
kumari様
私は学生の時に
国語の読解問題が嫌いでした。
同じ文章を読んでも、
人には、それぞれの感じ方があり
どれが正解でどれが間違いか、
決めることはできないのに、
問題の作成者の感じ方に合わせて
回答しなければ
ならなかったからです。
金子みすゞの詩のように、
みんなちがってみんないい。
私はkumari様の表現豊かで
奥の深い文章が大好きです。
だから、どうぞ
気になさらないでください。
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