108話 ビルおじさんは、レイラが小屋を抜け出して森へ向かうのを見ました。
約束の時間が来る前に到着した離れは
静かな暗闇に包まれていました。
レイラは、
カーディガンのポケットの中に
入れておいた鍵を取り出して、
ドアを開けました。
いつものように、
明かりは点けませんでした。
暗闇が問題にならないほど、
この離れの隅々まで、
もうレイラは慣れていました。
とても遠く離れても、
この全ての記憶を消すことは
できないだろう。
レイラは落ち着いた目で
応接室をのぞき込みました。
公爵が育てている、
あの小さなカナリアが住んでいる
格子の中の世界のように、
美しい鳥かごのようでした。
ソファーの端に座って
つま先を見下ろしていたレイラは
衝動的に立ち上がって
バルコニーに出ました。
向かいの川岸から吹いてきた風は
涼しくて穏やかでした。
たった一つの季節が過ぎただけなのに
ビルおじさんとのことで、
公爵と取引をしたあの寒い冬の夜が
とても遠い昔のように感じられました。
レイラは、
シュルター川を見下ろす
バルコニーの手すりの前に
ゆっくりと近づきました。
冬の間中、凍りついていた川は、
今や悠々と流れていました。
月が明るいせいか、
水面がひときわ光っていました。
「きれい・・・」と
レイラは思わず呟きました。
あの水の流れのように
心も流れれば本当に良いのにと
思いました。
くだらない考えに浸っていたレイラを
我に返らせたのは、
いつの間にかそばに近づいて来た
公爵の気配でした。
ギョッとして顔を上げると、
手すりに背中をもたせかけて
立っている彼が見えました。
向かい合った視線が、
この夜の風のように
ひんやりとして穏やかでした。
マティアスは、先に、
花が咲いたと話し始めました。
意外な言葉に、
彼を見るレイラの目が丸くなりました。
「花?あっ・・・」と
自分がした約束を思い出したレイラは
少し気まずそうに視線を避けました。
手すりを握る手に、
そっと力が入りました。
マティアスは、
来週末あたりがいいと思うと
提案しました。
レイラが「えっ?」と聞き返すと
マティアスは、
君が見せてくれると言った所に
行く日だと答えると、
川風になびくレイラの金髪を
撫でました。
何を話せばいいのか分からず、
レイラは、ぼんやりと
彼を眺めていました。
クリーム色のテニスセーターに
フランネルのズボンをはいた公爵は
いつもより、
リラックスしているように見えました。
そのためか、まるで
見知らぬ男と一緒にいるような
気分になったりもしました。
レイラは、
今週末はどうか。その頃も、
結構花が咲いているはずだからと
答えると、急いで
明るい笑みを浮かべました。
今さら心が弱くなるのは
馬鹿げている。
ここまで来るために、
どれだけ努力したことか。
もうすぐ終わるのに
馬鹿みたいだと思いました。
マティアスは、
今週末は、ラッツに
出発しなければならないと答えると
風で乱れた自分の髪の毛を
撫で下ろしました。
いつもはポマードで
きれいに整えていた髪が、今は
自然に額の上に垂れていました。
そのためか、
いつもより若く見えるその男の中に
レイラは、ふと記憶の中の
あの少年の顔を見ました。
学校に通っていたという公爵。
一人で世の中をさすらっていた子供が
見出した天国の主人の顔を。
レイラは、
「ラッツですか?」と
聞き返しました。
マティアスは、
皇后の誕生パーティーが開かれる。
首都で処理することまで
終わらせるためには、
来週末近くまで帰って来ないと
答えました。
その間は
婚約者と一緒に過ごすんだと
レイラは思いました。
頷いたレイラは、
手すりの向こうの川に
視線を移しました。
夏が近くなると、あちこちで
公爵家の結婚式の話が
持ち上がり始めました。
今日の昼休みの主な話題も、
次期公爵夫人になる
ブラント令嬢への賛辞と憧れでした。
レイラは、いつものように
ニコニコしながら、
皆の意見に同意しました。
その結婚式は、間違いなく
盛大で美しいだろうと思いました。
レイラは、
ここから見る川が本当にきれいだ。
まるで星が流れているようだと
感嘆しました。
思わず、
この風景を思い浮かべてしまう日が
多くなるだろうという
予感がしましたが、
レイラは、その事実まで
淡々と受け入れました。
マティアスはニッコリ笑いながら
微かに茶目っ気を含んだ声で、
女王陛下は水を恐がらないのかと
尋ねました。
レイラはしかめっ面をして
彼を睨みつけながら、
そんな風にからかわないでと
抗議しました。
マティアスは、
自分が紳士なら君は女王だと、
君が言ったのではないかと言うと
悔しがっているかのように
肩をすくめました。
レイラは、
それは公爵が紳士だった時の話だと
言い返しました。
レイラは、自分を斜めに見下ろす
マティアスの視線を避けませんでした。
少年を男に成長させた時間の流れを
改めて感じました。
骨格がしっかりして、
成熟した雰囲気が漂っていても、
彼は依然として美しいままでした。
あなたは全く、
紳士のようには見えないので
自分は、ただのレイラにすると言うと
彼女は、慌てて頭を下げました。
しかし、マティアスは、
急にレイラに近づき、
彼女の頬を包み込みながら、
星のように流れていく気分を
感じられるように、
夏が来たら水泳を教えてあげると
言いました。
全く予想できなかった言葉に
レイラは戸惑って、目を瞬かせました。
「嘘」と、
思わず震える声が漏れました。
レイラは、
夏が来れば、自分はここにいないと
主張しました。
マティアスの彼女を見る目が
細くなりました。
レイラは、
あなたは結婚し、自分はアルビスを
去らなければならないのだから
もう二度と一緒に、
ここにいられないではないかと
主張しました。
マティアスは「・・・そうだ」と
答えました。
レイラは、
やはり嘘ではないかと非難すると、
彼のあっさりした返事に
虚しくなってしまい、
クスッと笑ってしまいました。
マティアスは、
この世にある川は
シュルター川だけではないので
教えてやると言いました。
レイラは、
あなたは全てを、
本当に簡単に考えていると
指摘しました。
マティアスは、
簡単なことを、
あえて難しく考える必要はないと
答えました。
レイラは、自分もそうなのかと、
衝動的に尋ねました。
欲しければ手に入れる。
愛人として、陰に隠れて生きていく
自分の人生がどうなっても、
あなたは婚約をして、結婚をして、
輝かしいあなたの人生を
平然と生きていけば、それでいい。
簡単に。とても簡単に。
レイラは沈黙を守る彼に、
自分もそんなに簡単だったのか。
それとも、自分に対して、
少しは、すまない気持ちがあるのかと
切実な気持ちで尋ねました。
骨折ったこの芝居を
台無しにしてはならないという考えは
今は何の力も発揮できませんでした。
レイラは、
馬鹿げた未練だと知りながらも、
自分にしたことを、
ほんの少しは後悔しているかと
慎重に尋ねました。
彼の元から去るという決心は
少しも揺るぎませんでした。
どんなことがあっても、
高貴なヘルハルト公爵夫妻の人生から
消えるつもりでした。
でも、ほんの少しの真心でも
見せてくれれば。
彼と自分の間に、
欲望と執着、憎悪と涙以外に
何かが輝いていたと
信じさせてくれるなら、
自分の心にも傷を残す、この復讐を
止めることができるのではないかと
考えました。
長引く沈黙の中で、
二人は息を潜めたまま
見つめ合いました。
マティアスは、
レイラをまっすぐ見下ろしながら
いや、自分は何も後悔していないと
静かに答えました。
罪悪感の影すら見当たらない
その高慢な顔は、この瞬間も
相変わらず美しいものでした。
あなたらしい答えだと指摘すると
ぼんやりしていたレイラの顔に
静かな笑みが浮かびました。
マティアスは、低い声で
レイラにも同じ質問をしました。
暗闇に染まった青い目は、
夜の川のように
深い色をしていました。
レイラは「私もです」と答えると
彼の頬を撫でました。
できるだけ、
きれいな微笑を浮かべてみようと
努力しました。
そして、何も後悔していないと
今まで、彼に言ったどんな言葉よりも
真実の告白をしました。
ビル・レマーは
夜風で乱れた髪を撫で付けました。
明かりのついた離れが
目の前にありましたが、
彼は一歩も踏み出すことが
できませんでした。
ビルは衝動的に、
幽霊のように夜を徘徊する
レイラの後を追って来ました。
ある瞬間から、
もしかしてあの子は
夢遊病にかかっているのではないかと
真剣に心配したりもしました。
その間にレイラが消えました。
我に返ったビルは、
急いで森を抜け出しましたが、
レイラの姿は、
どこにも見当たりませんでした。
がらんとした川の堤防と、その下を
煌めきながら流れて行く川の水を
ぼんやりと眺めていたビルの視線は
闇に沈んだ離れの上で止まりました。
でも、まさか。
そんなはずがありませんでした。
むしろ、自分が、
あの悪辣な手紙に惑わされて、
幻を見ていると信じる方が、
はるかに、
もっともらしいと思いました。
そう決意して
背を向けようとした矢先に、
川辺の道の向こうから
一人の男が歩いて来ました。
ビルは、どさくさに紛れて
木の後ろに身を隠しました。
彼が誰なのか気づくまでに、
それほど時間はかかりませんでした。
公爵でした。
のんびり歩いて来たヘルハルト公爵が
離れに入りました。
ようやく明かりが漏れ始めたのを見て
ビルは、
レイラがそこにいるはずがないと
思いました。
そうだよ。話にならないことだと
ビルは何度も頷きましたが、
まだ、背を向けることが
できませんでした。
「しっかりしろ、ビル・レマー」
と自嘲的に呟いたビルは、
もう一度、
激しく首を横に振りました。
レイラは、夜の散歩に
出かけただけかもしれない。
とっくに家に帰って、
ぐっすり眠っているかも。
そのように心を固めたビルが
歩き出そうとした瞬間、
離れのドアが開き、
公爵が姿を現しました。
一人の女性も一緒でした。
それが誰なのかは、
考える必要もありませんでした。
離れの玄関と船着き場をつなぐ階段を
降りるレイラの顔色は、
青ざめていました。
その無表情な顔のどこにも、
先程、公爵と口づけをした際に見せた
優しい微笑の跡は
残っていませんでした。
最後の一つの階段まで下りたレイラは
眼鏡をかけ直して息を整えました。
そして、何事もなかったように
歩き始めました。
特に変わったことのない夜でした。
去年の冬以来、
ずっと繰り返されて来たことなので
今更、心を痛めることもないし、
もう最後が近づいているので、
むしろ気楽になるべきでした。
だから嬉しそうに
笑わなければなりませんでした。
レイラは、
口角を引き上げてみようと
努力しました。
すると、
ぴょんぴょん森を駆け回っていた
少女の頃のように、足取りも、
一段と軽やかになりました。
ほら。上手くできるじゃない。
レイラは、自分を褒めるように
満足そうな笑みを浮かべた瞬間、
ぽろぽろと何かが頬を伝って
流れ落ちました。
瞬きする度に、何かが、
大きく熱くなって行きました。
それが涙だと分かったのは、
目の前が白く曇ってからでした。
逃げるように足を早めても
涙はなかなか止まりませんでした。
それがあまりにもおかしくて、
レイラは泣きながら笑いました。
彼を憎もうと決心した、
静かに雪が降った冬の夜を
思い出しました。
憎しみが、
こんなに手に負えないものだと
知っていたら、最初から
心の中に持たなかったのに。
まるで熱い鉄の塊が、心を
押さえつけているようでした。
もう止めたいけれど、今は
その方法が思い出せませんでした。
ここを去れば、
この憎しみも消えるだろうか?
どうか、そうなって欲しいと
レイラは切に祈りました。
彼に関わることは、もう憎しみさえ
持ちたくありませんでした。
あなたが誰なのかも知らないまま
できれば全ての記憶が消えて欲しいと
願いました。
川辺を過ぎて森の道に入ると、
ぐっと堪えて来た涙が溢れ出ました。
あの男への過度な憎しみを
どうすることもできず、
レイラは、わあわあ泣きながら
歩きました。
涙でにじむ夜の森の道が、
まるで永遠に抜け出せない
迷路のように感じられました。
その絶望感がさらに高まり、
すすり泣いていると、
「レイラ!」と自分を呼ぶ
震える声が聞こえて来ました。
レイラは涙を拭うことも忘れたまま、
声のする方を振り返りました。
当然、幻聴に決まってる。
そうでなければなりませんでしたが
レイラは「ビルおじさん・・・?」と
ぼんやり呟きました。
いつも大きな木のように
堅固だったビルおじさんが
よろめきながら近づいて来ました。
だから現実であるはずがないのに、
力を入れて閉じた目を開けて
涙を拭っても、
幻影は消えませんでした。
ビルおじさんの影は、
いつの間にかレイラのつま先に
届いていました。
苦痛で歪んだ真っ赤な顔を
じっと見つめていたレイラは、
両足の力が抜けて
座り込んでしまいました。
自分の気持ちを川に流したいほど
レイラは、今までのことを
何もかも忘れたいのではないかと
思いました。
レイラが大泣きしているのを、
きっとビルおじさんは
聞いていましたよね。
きっと胸が締め付けられるような
思いだったと思います。