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150話 オデットが飲むお茶の葉を、モリーは毒と入れ替えました。
キキーッと急ブレーキをかける音が
鋭く響き渡りました。
車から降りたバスティアンは、
すぐに病院へ駆け込みました。
ロビーで待機していた執事が、
急いで近づいて来て頭を下げました。
常に端正で清潔だった制服が
血で汚れていました。
ロビスのものであるはずがないように
見えました。
ロビスは、
全て自分たちの手落ちだと
ひたすら謝りましたが、
バスティアンは、
妻はどこにいるのかと、
冷淡に尋ねることで
執事の言葉を遮りました。
荒々しく蠢く喉元が、
表情のない青白い顔と
鮮明な対比を成していました。
始業式が終わる頃、海軍省に
急報が飛び込んで来ました。
夢中で駆けつけて来た当番兵は
倒れた妻が、クラーモ博士の病院に
緊急搬送されたという連絡が来たと
信じられないニュースを伝えました。
普段なら往診を依頼したはずなのに
病院に運ばれたということは、
避けられない緊急事態が
発生したという意味でした。
考えがそこまで及んだ時、
バスティアンは、
すでに席を蹴って立ち上がり
走っていました。
バスティアンは、
さらに低く沈んだ声で、
妻の病室はどこかと、
先ほどの質問を思い出させました。
辛うじて理性を取り戻した執事は
バスティアンに謝罪した後
東病棟の三階だと答えました。
バスティアンはすぐに向きを変え、
病院の東側に続く廊下を走り、
階段を上りました。
状況に対する判断は
留保することにしました。
まず、
オデットに会わなければならない。
それ以外に
何の考えも浮かびませんでした。
すぐに三階に着いたバスティアンは、
見慣れた顔が見える病室の前に
近づきました。
祈るように両手を合わせて
握り締めていたメイド長が
焦燥に駆られた様子で
廊下をうろうろしていました。
バスティアンを発見したメイド長は、
苦痛に満ちた顔で泣き出しました。
いつもきちんとしていたエプロンが
血で汚れていました。
それもまた、
ドーラのものであるはずがないように
見えました。
メイド長の前を通り過ぎた
バスティアンは、躊躇うことなく
病室のドアを開けました。
薬品の匂いと混ざった血生臭さが
鼻を突き刺すと、一瞬息が詰まり、
鋭い耳鳴りがしました。
乱れた息を整えたバスティアンは、
硬くこわばった足取りで
病室を横切りました。
クラーモ博士を筆頭とした
医療スタッフが、患者のベッドを
取り囲んでいました。
その隙間から見える
オデットの服の裾が真っ赤でした。
力なくぐったりした青白い手も
そうでした。
バスティアンを見つけたクラーモ博士が
振り向きました。
彼は、
オデットが毒を飲まされた。
茶葉に毒を混ぜたらしい。
幸い致死量は摂取しておらず、
毒の種類も特定されたので
解毒剤を投与していると
状況をできるだけ簡潔に要約して
伝えました。
今は、冷静な医者の役割を
果たす時でした。
私的な感情は最大限排除することが
バスティアンのための道でした。
黙々と傾聴していたバスティアンは
黙礼で返事を代わりにしました。
妻の悲報を聞いて駆けつけた夫とは
思えない態度でしたが、
力いっぱい拳を握った手は
痙攣するように震えていました。
じっとオデットを見つめる眼差しと
言葉を口に出せない唇もそうでした。
クラーモ博士は、
残念だけれど、
子供は諦めなければならないと
産科医が口に出せない言葉を
代わりに伝えました。
すでに破水してから
時間が経っていました。
子供の心臓は
もう止まっているはずだけれど、
その知らせだけは
口にするのが困難でした。
しばらく躊躇っていたクラーモ博士は
クラウヴィッツ夫人は守れるだろう。
最善を尽くすようにすると
ようやく口を開きました。
バスティアンは、
止まっていた足を踏み出し、
妻のそばに近づきました。
ベッドサイドに寄り添っていた
看護師が退くと、
ようやくオデットが
完全に視野に入って来ました。
むごたらしい姿とは違い、
目を閉じた顔は、眠っているように
安らかに見えました。
バスティアンは、
その場にぽつんと立ったまま
オデットを見つめました。
名前を呼んでみようとしましたが、
声が出ませんでした。
血に濡れた手を握りたくても、
指一本、
動かすことができませんでした。
まるで、
死にかけている母親を見つけた
あの夜の、
あの無力な子供に戻ったように。
「あとは、命を奪うだけか」
さらに激しくなった耳鳴りの間から
フランツの、
クスクス笑う声が聞こえて来ました。
「それがお前の愛し方なんだよね?
そうだろう?」
これ以上、否定できなくなった真実が
縄となって首を絞めて来ました。
ますます苦しくなる息を切らしながら
目を向けた所に、バスティアンは
あの日の父親を見ました。
妻子の命を奪っても平然としていた
あの怪物の顔でした。
それが病室の壁に掛けられた鏡に
映っている自分の顔だということに
気づいた後も、
バスティアンの視線は
しばらく、そこに留まりました。

いつの間にか、海は、
午後遅くの日差しに
染まりつつありました。
モリーは、
慎重に岩の隙間から這い出て
周囲を見回しました。
かなり長い時間が経ちましたが、
捜索隊は現れませんでした。
まさか、ここへ逃げ込んだとは
思っていないようでした。
もう全てが終わった。
安心すると、忘れていた痛みが
押し寄せて来ました。
モリーは、ひどく顔を顰めながら
血まみれになった腕と足の傷を
調べました。
実家と内通する時に使用した抜け道が
塞がっていました。
予期せぬ事態に
モリーが慌てふためいている間に
オデットの犬が激しく吠えながら
近づいて来ました。
結局、次善の策まで諦めたモリーは
切り立った崖の下へと続く危険な道を
最後の逃走路に選ぶという
賭けに出ました。
一歩でも踏み外せば、
魚の餌になるのが確実でしたが
少なくとも、このまま捕まるよりは
ましな選択でした。
この状態では移動できないという
結論を下したモリーは、
エプロンを破って傷を縛りました。
崖道をほぼ下りた頃に、
また犬の吠える声が
聞こえて来ました。
全く、諦めることを知らない
マルグレーテでした。
焦って急いでいたモリーは、
つい足を踏みはずすミスを
犯してしまいました。
あの犬から先に、
片づけておくべきだったと
後悔した時は、
すでに体が宙に浮いていました。
それでも、
こうして命が助かったのを見ると、
天運に恵まれたようでした。
残った布切れで、
塩気が残った顔を拭いたモリーは
足を引きずりながら
岩場を離れました。
残金をもらう約束の時間が
近づいていました。
いつまでも、こうして為す術もなく
手をこまねいているわけには
いきませんでした。
モリーは歯を食いしばって
海岸の絶壁の下へと長く続く
砂浜の道を歩き始めました。
この道の先は、
アルデン湾の公共海水浴場と
繋がっていました。
テオドラ・クラウヴィッツが決めた
約束の場所は、そこから、
それほど遠くありませんでした。
希望に胸を躍らせたモリーは、
怪我をした足の痛みも忘れて、
速足で歩きました。
幸いなことに、あの狂犬は
もう見えませんでした。
乞食姫を見捨てた幸運の女神が、
今や彼女と一緒にいるようでした。

子供が母体から出て来たという
知らせが届いたのは、
日が沈む頃でした。
長くなった自分の影を
見つめていたバスティアンは、
ゆっくりと視線を上げて
看護師に向き合いました。
がらんとした貴賓用の待合室は
一面、赤い光に染まっていました。
看護師は、
それが自分の過ちでもあるかのように
罪悪感を抱きながら、
「すみません」と頭を下げました。
バスティアンは立ち上がって
看護師を労いました。
看護師は、10分後に
病室へ行ってみるようにという
言葉を残して、影のように
静かに去って行きました。
氷が半分ほど溶けた水で
唇を潤したバスティアンは
鏡の前に近づき、
身なりを整えました。
制服を飾っている勲章や徽章が
夕日の中で煌びやかに輝きました。
じっとその輝きを見つめていた
バスティアンの視線は、
まもなく再び鏡に映った顔へと
向かいました。
指先に走った微かな痙攣は、
そう長くは続くことなく
消えて行きました。
ゆっくりと閉じていた目を開けた
バスティアンは、待合室を出ました。
長い廊下に響いていた
規則正しい足音は、
オデットの病室の前で止まりました。
ドアを開けると、
沈んだ顔をした医療スタッフたちが
見えました。
彼らは順番に謝罪と慰めの言葉を
伝えました。
バスティアンは礼儀正しくお礼を言うと
静かに患者のベッドに近づきました。
幸い、オデットは無事でした。
微量の毒だったことと、
毒の種類も早く特定できて
解毒剤を使ったおかげでした。
額と頬にかかっている
オデットの髪の毛を払った
バスティアンは、その青白い顔を
しばらく、じっと見つめました。
付き添いをしたメイドの話では、
インテリアコーディネーターが
置いていったカタログを
検討することに夢中になり、
お茶をほとんど
飲まなかったとのことでした。
オデットが何を見ていたかを
推測するのは、それほど
難しいことではありませんでした。
初めて子供のために用意した
プレゼントでした。
結局、
子供には届かなくなったけれど
そのおかげで
オデットを救うことができたので
それで十分でした。
簡明な結論を下したバスティアンは、
待機していたクラーモ博士に
向き合いました。
患者の状態と主治医の所見、
今後の治療計画。
極めて理性的に会話を続ける
バスティアンの顔色は、
いつものように落ち着いていました。
衝撃が大きかったはずの
産科医の所見も
大胆に受け入れました。
内心不安に思っていたクラーモ博士は
ようやく一安心しました。
あまりにも大変な目に遭ったせいで
しばらく動揺していたようでしたが
今、彼の目の前に立っている
バスティアン・クラウヴィッツは、
相変わらず堅固で強靭に見えました。
「子供はどこにいますか?」
老婆心を消したのと同時に
予想できなかった質問が
聞こえて来ました。
クラーモ博士は、呆然とした顔で
バスティアンを見つめました。
遅ればせながら、
バスティアンの心意に気づいた
クラーモ博士は、
わざわざ、
そんなことをする必要はない。
子供は自分たちがきちんと送り出すと
告げると
断固として首を横に振りました。
しかし、
自分の子供なので
権利は自分にあると言う
抑揚のない淡々とした
バスティアンの声が
夕方の澄んだ闇の中に
染み込みました。
これといった表情のない顔でしたが
それゆえ、一層頑固に見えました。
言葉に詰まったクラーモ博士が
躊躇している間に
バスティアンの視線が
病室の隅のテーブルに置かれた
小さな籠に向けられました。
永遠の眠りについた
クラウヴィッツ夫妻の子供が
留まっている場所でした。
「頼むから止めてくれ。 お願いだ」
クラーモ博士は必死に哀願しながら
バスティアンの前に
立ちはだかりました。
しかし、どうしても彼は、
意地を曲げませんでした。
肩をつかんでいるクラーモ博士の手を
丁重に離したバスティアンは、
白い布に覆われた籠に向かって
ゆっくりと近づきました。
やがて、その足音が止まると、
さらに深まった静寂が訪れました。
じっと籠を見下ろしていた
バスティアンが、
白い布を握りました。
クラーモ博士は悲痛なため息をついて
振り返りました。
嵐が過ぎ去った海のような静けさは
夕焼けの残像が消えた空が
完全に闇に沈むまで続きました。
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胎動を確認したことで、
オデットのお腹の中にいる子供を
自分の血を引いた
一人の人間として認め、
ようやく少しだけ
父親としての自覚が出て、
子供のためにプレゼントまで
用意したのに、
それを取り上げてしまうなんて。
きっとオデットもウキウキしながら
カタログを見ていたでしょうに
ここまで主人公たちを
残酷な目に遭わすなんて、
Solche様、酷過ぎます。
この後、
まだまだ辛い展開が続くかと思うと
やるせないです。
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