14話 ビョルンはエルナにハンカチを差し出しました。
そのハンカチの片隅に刺繍された
自分の名前の頭文字を確認した
エルナの顔が真っ赤になり
火照りました。
しばらくしてエルナはお礼を言うと
震える手を差し出し
ハンカチを受け取りました。
こんなものを残していく
古典的な手を使った女とは
信じられない様子でした。
ビョルンは、興味深い目で
女性の反応を見守りました。
自分を利用して
身代金を引き上げようとする不埒な女と
野暮ったいドレスを着て
軽やかにタラ通りを歩く女。
そして今、
美しく、しとやかな淑女の
真似をしているこの女のうち、
いったい、どれが
本物のエルナ・ハルディなのか、
なかなか、
見当がつきませんでした。
少なくとも見た目は
この世に二人といない
無邪気な淑女なので、 この女に、
うっかり騙される馬鹿者たちが
ある程度は理解できるような
気もしました。
人々の耳と目が
十分、集中したと判断すると
ビョルンは、
エルナと一緒に絵を鑑賞する
栄誉が欲しいと、
丁寧な態度で手を差し出しました。
逃げる機会だけを探していた
エルナは驚愕し、
ため息をつきました。
唇が特に赤く見えるのは、
女性の肌が、
あまりにも白いためのようでした。
声を出せずに、
唇の動きだけで「えっ?」と
問い返すエルナを見下ろしながら
ビョルンは平然と笑いました。
それから、
「さあ、行きましょう」と言って
彼はエルナの手を握り
自分の腕に乗せました。
利用されてやった分だけ利用できる。
このように、きれいで
公平な取引はないはずでした。
ビョルンは、
優しくエルナをエスコートして
振り向くと、
ざわめく見物人たちの間に、
衝撃を受けて血の気が引いた
グレディスが見えました。
愛される王太子妃時代を
真似していた少し前より、
はるかに見栄えの良い姿でした。
ビョルン王子を許して、
よりを戻す意思を伝えるために
訪れたグレディス王女の前で、
彼は、
まもなく売られることになる
あのエルナ・ハルディと
遊んだという噂が
夜にならないうちに、
町中に広がるだろうと思いました。
もちろん、
どんな憶測と非難が殺到しても、
ビョルンは気にしませんでした。
グレディスとよりを戻す噂より
もっと気になる噂など
存在しないはずだからでした。
ビョルンは、
弱々しく抵抗する女性の腕を
握った手に、そっと力を入れました。
その時、エルナが
突然、顔を上げました。
長くて細かい睫毛に囲まれた
青い目は、多少現実感がないほど、
澄んだ光を帯びていました。
その目で、
じっと彼を見つめていたエルナは、
しばらくして、
再び、頭を下げました。
自分にも損はないと判断したようだと
結論を下したビョルンは、
硬くなっている女性を率いて
ゆっくりとした足取りで、
十分、見世物になりながら、
群衆の中を横切り始めました。
つきまとう執拗な視線を感じて
顔を向けると、
「お前、この野郎」と
口の動きだけで悪口を浴びせる
ペーターが見えました。
本当にお前もやるのかと
彼は呆れたように聞きました。
ビョルンは躊躇うことなく頷いた後、
自分のそばで震えている女性に
視線を落としました。
エルナは、
頬と耳たぶと目頭まで赤く染めて、
前だけを向いて歩いていました。
あのお嬢さんは一体誰なのか。
妻を見る王の顔は、
当惑の色で固まっていました。
とりあえず、
ビョルンとグレディスが絡む
最悪の事態は避けたけれど、
今、広がっている噂を考えれば、
それほど楽観的な状況とは
思えませんでした。
王妃の代わりにルイーゼが
エルナ・ハルディだと
怒った顔で答えました。
そして、王宮の舞踏会で
兄を利用して関心を集めた、
あのハルディ子爵家の令嬢だと
付け加えると、国王の顔色が
さらに暗くなりました。
じっと彼らの間の話を
聞いていた王妃は、
二人が消えたホールの入口の方に
視線を移しました。
ビョルンが素直にグレディスの挨拶を
受け入れないとは思ったけれど
それが、このようなやり方だとは
全く予想していませんでした。
いっそのこと、そのまま背を向けて
去ってしまった方が、
はるかにビョルンらしいと
思いました。
ルイーゼは、
どうしてあんなに厚かましいのか。
ハンカチを使うなどという
バレバレの低級な手口に
騙される兄は何なのかと
悪口を吐きましたが、王妃は、
聞いている人が多いので、
それくらいにしておくようにと、
興奮している娘に言い聞かせました。
ルイーゼは、まだ言いたいことが
たくさんあるような
顔をしていましたが、退きました。
ルイーゼが、
夫の所へ戻ったことを確認した王妃は
あの娘について
一度調べてみなければならない。
そうすべきだと思わないかと
囁くと、優しい笑顔で夫を見ました。
国王は否定しませんでした。
最後の展示室に到着すると、
「お先にお帰りください」と
エルナは、ようやく口を開きました。
ビョルンはエルナを見ました。
彼女も彼と向き合いました。
怖がって逃げた時とは違い、
しっかりした目つきでした。
エルナは、
もう絵を全て見たので、
先に帰るように、
自分は、もう少しここにいると
ゆっくり言いました。
その理由を尋ねるビョルンの視線は
規則的に上下する胸から、
血管が青く透けて見える首筋。
そして、妙に神経を刺激する
青い瞳の上で止まりました。
今回もエルナは
彼の目を避けませんでした。
ビョルンは、
もっと見るべき絵が残っているのかと
尋ねました。
エルナは、そういうわけではないと
答えました。
ビョルンは、
「それでは?」と再び理由を尋ねると
エルナは、
一緒に絵を見ようと頼まれ、
もう展示された全ての絵を見たので
自分の役割は終わったと思うと
答えました。
怒っているような硬い口調でしたが
全く威嚇的ではありませんでした。
ここまで追いかけてきた見物人たちを
じっくり見回したビョルンは、
エルナの前に一歩近づきました。
驚いたエルナは退こうとしましたが
それよりも少し早く、
ビョルンはエルナの腕をつかむと
そのままでいるように。
聞いている人が多いからと
囁きました。
彼の視線に従って
周囲を見回したエルナは、
すぐにおとなしくなりました。
意地悪な表情とは裏腹に
ビョルンは柔らい声で
怒っているのかと尋ねました。
エルナは声を低くして
「いいえ」と囁きました。
しかめっ面で
ありきたりな嘘をつく女が
彼を笑わせました。
ビョルンは、自分の目には
怒っているように見えると
指摘しました。
エルナは、
そうではないと否定すると
両目に力を入れて、
自分も王宮の舞踏会で、
王子に、大変迷惑をかけたので
今日のことで、
そのミスを挽回できたと思うと
言いました。
まるで、
自分を見逃してくれるかのように
振る舞う女性を見るビョルンの目が
細くなりました。
ビョルンは、自分が
ハルディさんに迷惑をかけたので
腹を立てているけれど、
以前のことを考えて
理解してくれるという意味か。
これでお互い様だ。
もう公平だといった感じか。
かなり計算的な淑女だと、
口を固く閉ざしている
エルナを見ていたビョルンは
思わず失笑しました。
気が弱くてブルブルしているのに
自分の言いたいことは、
はっきり言う。
実は、こういう部類が猛獣だと
ビョルンは思いました。
彼は、
これで、合理的な
取引をしたことになると言って
頷くと、エルナを離しました。
自分の用途を果たしてくれたので
この辺で手放すつもりでした。
しかし、露骨に安堵した
エルナを見たビョルンは、
レースの手袋をはめた小さな手を
一気につかみました。
ビョルンの唇が手の甲に触れた後、
エルナは、自分に何が起こったのか
悟りました。
絵を鑑賞するふりをして
2人を監視していた人々が
ざわめきはじめました。
ビョルンは、
そんな騒ぎをものともせず、
お姫様に接するように
エルナの手の甲にキスをしました。
それからビョルンは、
また会える日を楽しみにしていると
甘い挨拶をした後、退きました。
再び真っ赤になって
火照っているエルナの顔を見ると、
気分が一層軽くなりました。
自分を睨むエルナを残したまま
ビョルンは未練を残すことなく
展示室を出ました。
予想通り、
ペーターとその仲間たちが
廊下で彼を待っていて、
何を話したのか。
また会うことにしたのかと
尋ねました。
自分の手札に関心を持つなと
生返事をしたビョルンは
ゆっくりと廊下を歩き始めました。
本当にこれをやるなんて。
ビョルンが、これまでカードで
自分たちから奪った金が
いくらになると思っているのか。
たかが、あの程度の金が
そんなにもったいないのかと
抗議すると、ビョルンは、
その掛け金の半分は
自分の金だと思う。
こんな馬鹿げた賭けを提案しなかったら
自分が勝っていたゲームだと
言い返すと、
レナードはギョッとしました。
ペーターは、
賭け金がもったいなくて、前妻の前で
他の女を誘惑するなんて。
やはり、金持ちになるためには
こうやって生きなければならないと
舌打ちしながら感嘆すると、
皆がビョルンの
悪口を言っているけれど
これからどうするのかと尋ねました。
ビョルンは、
どうでもいいと答えました。
ペーターは、
ハルディさんはどうするのかと
尋ねました。
ビョルンは、
そんなにエルナ・ハルディを
心配しているのに、
あんな賭けをしたのかと、
嘲弄混じりの反問をすると
彼らは言葉を失い、
しらばっくれるように
視線を避けました。
その時、アカデミーの院長が現れ、
ビョルンを発見した彼は、
急いで近づいて挨拶すると、
今回の美術展で入賞した彼の弟子の
パーベル・ロアーを紹介しました。
院長は、
アカデミーで最も有望な人材なので、
ぜひ紹介したかったと
誇らしげな笑顔を浮かべました。
赤毛の男は芸術家というより
軍人に近い印象で、
ビョルンは礼儀正しく
彼らの挨拶に応えました。
どうせ芸術は興味のない領域。
新時代を担う有能な画家が誰であれ
自分の知ったことではない。
その作品の値段が上がった時は
話が少し変わるだろうと思いながら
ビョルンは短く黙礼をして
立ち去りました。
ところが廊下の終わりに差し掛かった頃
突然、立ち止まったビョルンの口から
庭を彷徨っていた女性が
切なく呼んでいた
「パーベル」という名前が漏れました。
くだらない冗談を交わしながら
後を付いて来たペーター一行も
一緒に足を止めました。
レナードは、
どうしたのかと尋ねましたが
ビョルンは何の返事もせず
振り返って、元来た道を眺めました。
院長とパーベル・ロアーは
彼女を残して来た展示室に
入って行きました。
グレディスへの当てつけのためなら
誰を選んでも良かったはずなのに
わざわざエルナを選んだのは
すでにビョルンの中に
彼女に心惹かれるものが
あったからではないかと思います。
エルナに興味がなければ、
彼女が呼んでいた男性の名前を
覚えているわけがないし、
エルナがいる展示室に
パーベルが入ったことを
気にするわけがないと思います。
強欲な父親と
シャペロンとして凄腕の
マイアー伯爵夫人のせいで、
些細な行動でも
全て策略と思われてしまうエルナが
可哀想だと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様からの温かいお言葉に
励まされながら、
ブログを更新しています。
いよいよ冬本番。
当地は、
寒さが厳しくなって来て、
昨日は、朝、
雪がチラチラしていました。
インフルエンザも、少しずつ
広まって来ているようですので、
どうぞ、皆様、
お身体ご自愛ください。