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184話 とうとう水曜日になりました。
オデットは、
白い光の中で目を覚ましました。
まぶしい夏の朝の日差しが
空っぽの隣の席を満たしていました。
慌てて体を起こしたオデットは、
まず最初に置時計を確認しました。
まだ6時。 いくら何でも、
もう出発したはずのない早朝でした。
顔を洗って眠気を覚ましたオデットは
急いでベッドから降りました。
ネグリジェを着て寝室のドアを開けると
浴室から、
微かに水の音が聞こえて来ました。
その時になってようやく一息つくと
自分の滅茶苦茶な姿が目に入りました。
乱れた髪に裸足。
ネックラインから覗く胸元と首筋は、
至る所バスティアンの痕跡で
埋め尽くされていました。
頬を赤らめたオデットは寝室に戻り
服を着替えました。
急いで櫛で梳かした髪を結び、
靴も探して履きました。
まずは食事の準備から始めよう。
乱れた頭の中を整理したオデットは
一段と良くなった姿で
再び部屋を出ました。
浴室では、まだシャワーの音が
聞こえていました。
少し考えた後、
オデットは客間へと足を向けました。
ドアを開けると広がる
殺風景な部屋の情景は、
普段と同じようで違っていました。
オデットは、
それほど時間が経たないうちに
その理由に気づきました。
トランクが
クローゼットの外に出ていました。
バスティアンの所持品も
すべて姿を消しました。
残っているのは、
クローゼットのドアに掛かっている
制服だけでした。
すでに全ての準備を終えたのを見ると
出発時間が
予想より早かったようでした。
オデットは慎重な足取りで敷居を越え
制服の前に近づきました。
煌びやかに輝かく徽章と勲章を撫でる
指先が細かく震えました。
おそらくバスティアンは
すぐに海軍省へ復帰するようでした。
いつも忙しい男だったので、
無理もないことでした。
この田舎の村での
のんびりとしたこの5日間が
どれほど夢のような時間だったか、
オデットは改めて実感しました。
しかし夜は明けて、
そろそろ目を覚ます時でした。
オデットは、
淡々とその事実を受け入れました。
無謀で愚かなことをしましたが、
後悔はありませんでした。
生まれて初めて、心を込めて
ぶつかってみました。
微塵の未練も残さなかったので、
それで十分でした。
静かに客間を出たオデットは、
台所に降りて朝食の準備をしました。
シャツにシワが寄っていたのを
思い出したのは、
ちょうどパン生地をこね終えた
まさに、その瞬間でした。
オデットは悩んだ末に踵を返しました。
廊下を通り階段を上る足音が
朝の日差しの中に
静かに染み込みました。

シャツには、アイロンの温もりが
微かに残っていました。
バスティアンは着替えの動作を止めて
手に持ったシャツの上に
視線を落としました。
オデットが訪れたようでした。
そういえば、ズボンの折り目も
一層、鮮明になっていました。
バスティアンは深く息を吸い込んで
温かいシャツを着ました。
ここでオデットと共に過ごした
幸せのひとときが、再び意識の表面に
浮かび上がって来ました。
風が通り抜ける水面のように
揺れていた喉元は、
制服を着終える頃になって
ようやく落ち着きました。
最後に、
ゆっくりと部屋を見回した
バスティアンは、冷たく沈んだ目で
腕時計を確認しました。
シャワーが長くなったため、
時間が遅れました。
皇帝を待たせるわけにはいかないので
もう未練を断ち切る時でした。
姿勢を整えたバスティアンは、
将校帽とトランクを持って
部屋を出ました。
規則的な靴音は、
階段をあと数段残した所で
突然止まりました。
まるで洗い立てのように
澄んだ顔をしたオデットが
階段の下に立っていました。
まだ濡れた髪を、
きちんと乾かすこともできずに
エプロンを着けていました。
「今から、出発するのですか?」
柔らかな響きを持つ声が
音楽のように流れて来ました。
「もうすぐ、食事の準備が
終わるのですが・・・」
沈黙するバスティアンを
じっと見つめる瞳に
澄んだ光が宿りました。
「それほど時間が迫っていなければ
朝食を取って行ってください」
握り合わせていた両手を
見下ろしていたオデットが、
再び真っ直ぐな視線を上げました。
バスティアンは、
すでに知っている時間を
再度確認しました。
朝食を取る余裕くらいは
残っていましたが、
断るのが正しかったです。
時間を引き延ばせば引き延ばすほど
傷は深くなるだろうから。
しかし、愚かな心は、
あの女の眼差し一つに
虚しく崩れ落ちてしまいました。
「そうですね。そうしよう」と
結局、バスティアンは
自らの意志を裏切る答えを
口にしました。
残された、この人生のすべての日々が
きっと、このように
過ぎて行くのだろうと思いました。
残りの階段を降りて来るバスティアンを
見守っていたオデットは、
「お茶を用意しましょうか?」と
落ち着いた口調で尋ねました。
「いいえ。コーヒーをお願いします」
と、丁重な返事をすると、
バスティアンは玄関の前へ行き、
トランクを下ろしました。
その節度ある優雅な動作のどこにも、
熱烈にオデットを求めていた
恋人の痕跡は残っていませんでした。
ここまで。
バスティアンが引いた線を
オデットは淡々と受け入れました。
すでに予定されていた結末なので、
特に驚くことではありませんでした。
それではコーヒーを用意すると
返事をすると、
オデットは口元を上げて
優しい笑みを浮かべました。
バスティアンは、
約束を守ってくれました。
おかげで、きちんとした結末を
迎えることができたので、
オデットは心から感謝しました。
今はその気持ちだけを
考えることにしました。
その裏に残った苦悩は、一人で
背負わなければならないものでした。
食卓は裏庭に用意してある。
少しだけ待って欲しいと告げると
オデットは一歩後ろに下がって、
道を開けてくれました。
顎の先を少し動かしたバスティアンは
大きな歩幅で
彼女の横をすり抜けて行きました。
適度な礼儀と表向きの心。
かつてオデットのものであった
その武器が、
今や彼のものとなりました。
一晩のうちに、
完璧な他人となった男が去ると、
オデットもそろそろ台所に戻り、
食事の準備を再開しました。
成形したパンをオーブンに入れ、
戸棚から、卵の入った籠を
取り出しました。
時折、視線が窓の外へ向く度に、
昨夜の記憶を呼び起こす鈍い痛みが
より鮮明になりました。
バスティアンは自分が直した椅子に座り
遠い空を見つめていました。
オデットの方には
目を向けませんでした。
しばらく、ぼんやりと見つめてみても
同じでした。
髪の毛一本も乱れていない姿が
彼女を一層、惨めな気持ちにしました。
こんな終わり方は嫌。
込み上げて来る激しい感情を
飲み込んだオデットは、
オムレツを作るために準備した材料を
片付けました。
全ての卵を、水を入れた鍋に浸して
かまどに置き、
急いで2階に上がりました。
オデットは冷淡になったバスティアンを
理解しました。
ティラと別れた時の自分も
そうだったから。
あの子のために、一層、断固として
冷酷になることにしました。
無責任な憐憫は、
ティラの未来に役立たないことを
知っていたための決断でした。
オデットは、心から
ティラの幸せを願っていました。
だからこそ、喜んで悪役を
引き受けることができました。
バスティアンも、そうに違いない。
オデットは、その気遣いを
無駄にしたくありませんでした。
寝室に行ったオデットは、
焦るあまり、
手あたり次第に着た服を脱ぎました。
新しく仕立てたモスリンのドレスに
空色のベルト。
バスティアンと再会した日に
着ていた服を再び身にまとい、
化粧台の前に座りました。
最後まで、
自分の感情にばかり囚われていた
ティラのように
別れたくはありませんでした。
そのような姿で、
バスティアンの記憶に残るのは
嫌でした。
その決意が、
弱くなる心を支えてくれました。
オデットは息を整えながら
髪を解きました。
いつの間にか空高く昇った夏の太陽が
力いっぱい金の櫛を握る青白い手を
照らしました。

食事の準備は、
時計の針が8時ちょうどを指す頃に
終わりました。
バスティアンは背筋を伸ばして座り
食卓を見つめました。
最後に焼きたてのパンを出した
オデットは、
静かに向かいの席に座りました。
きちんとした服装の女の上に、
葉が茂った枝の間を通り抜けて来た
朝日が降り注ぎました。
まるで、あの日のベールのようだと
バスティアンはふと思いました。
一年で、昼が最も長い夏の日に
彼のもとに来た花嫁の上に
かかっていたレースのベール。
「バスティアン?」
囁くように名前を呼ぶオデットの声が
新鮮な風に乗って流れて来ました。
首を傾げると、耳たぶに付いている
小さな真珠のイヤリングが輝きました。
じっとオデットを見つめていた目を
そらしたバスティアンは、
まず水のように薄いコーヒーを
一口飲みました。
昨日とは違うレースのクロスが
敷かれた食卓の中央には、
咲き始めたばかりのバラが飾られた
花瓶が置かれていました。
一緒に行った市場で
買ってきた物でした。
改めて見ると、
ティースプーンと角砂糖のトングも
見覚えがありました。
覚えていることさえ知らなかった
記憶が心を引き裂きました。
バスティアンは、
虚しくも甘美な敗北感の中で
顔を上げました。
目が合うと、オデットは
優しい笑みを浮かべました。
その品位ある姿が
最後の老婆心を消してくれました。
ますます
速く流れて行くように感じる時間を
確認したバスティアンは、
抑制された動作で
ティースプーンを握りました。
ゆで卵を割る音が、
深まっていく沈黙の中に
染み込んで行きました。
「今日の占い結果はどうですか?」
バスティアンは、
殻にひびが入った卵が載っている
エッグスタンドを
オデットの前に差し出しました。
思わずそれを受け取った
オデットの目が赤くなりました。
良い別れをしたいと思っていました。
オデットは心からそれを望みました。
しかし、なぜ
このような気持ちになるのか
自分自身を理解するのが
難しかったです。
「少しの間だけ立ち寄ってから
帰るように」
切実な気持ちで頼んだのに。
「もう来ないで」
やがてその願いが叶うことになりました。
オデットは、
深くうつむきながら
バスティアンの卵を見つめました。
視界は、ぼやけていましたが、
オデットは巧妙な嘘つきなので、
それほど大きな問題には
なりませんでした。
「穏やかな水流ですね」と、
オデットはいつも通り、
最善を尽くした嘘をつきました。
全ての日が、この水流のように
穏やかな運勢だと告げると、
両目に溢れた涙を拭ったオデットは
微かに微笑みを浮かべた顔で
再びバスティアンと向き合いました。
「そうなんですね」
彼は、でたらめな占い結果が
現実になったかのように
穏やかな笑みを浮かべて
頷きました。
返されたエッグスタンドを置いた
バスティアンは、
目でオデットの卵を指し示しながら
今度は自分があなたを占ってあげると
提案しました。
少し悪戯っぽい眼差しが
とても優しかったです。
オデットはその目を見つめながら
卵の殻を割りました。
わざと真剣な態度で
割れた卵の殻の形を見ていた
バスティアンは、
鳥の翼です。空を飛ぶ鳥のように
自由になれるだろうと
占いの結果を出しました。
バスティアンは、
いかにも、それらしい
占星術師の真似をしました。
笑顔を消した顔には
静かな光が宿っていました。
卵を返したバスティアンは、
自分たちの契約は
本日をもって終了したと、
丁重かつ淡々と終わりを告げました。
オデットが
ぼんやりと瞬きをしている間に、
枝に止まって歌っていた鳥たちが
飛び立ちました。
バスティアンは、
オデットを直視しながら、
離婚手続きは、できるだけ早く
完了させるようにする。
公式的な離婚理由は
夫の心変わりになるだろうと
再び、決定的な一撃を放ちました。
それからバスティアンは、
過去3年間の
妻としての役割に対する報酬は
最初の約束通り支払う予定だ。
1年延長された期間と
契約に含まれていなかった業務。
それに伴う被害に対する
補償額を反映して再計算し、
弁護士を通じて通知すると告げました。
泣きそうな顔のオデットは、
慌てて首を振ると、
いいえ、そうしないで。
まず契約を破って、
多大な被害を与えたのは自分なので
報酬のようなものは望んでいないと
主張しました。
しかし、バスティアンは、
これはあなたではなく、
自分のために下した決断だと告げると
もう一度時計を確認しました。
まもなく軍用車両が到着する時間。
約束の場所である村の入口まで
行く時間も考慮すると、
そろそろ席を立つ時でした。
バスティアンは、
あなたに与えた傷と苦痛を、お金で
全て償うことはできないけれど、
それでも、このように責任を取れば
自分の心がずっと軽くなるだろう。
だから、受け取るように。
それで十分だと告げました。
そして彼は、いっそのこと
狂ってしまいたい気持ちを
押し殺しながら、ゆっくり微笑むと
自分は、
これから穏やかな水流のように
安らかに流れて行くと告げました。
角が丸くなった氷が
グラスの中で崩れる音が、
まぶしい日差しの中に
染み込みました。
それから、バスティアンは、
だから、あなたが
自由な鳥のように飛び立つことを
願っていると告げました。
平安と自由。
それぞれの占いの結果を
掠めたバスティアンの視線は、
ベールを上げた瞬間から
ずっと彼を支配して来た、
これからも、そうであろう
美しい女の顔の上で止まりました。
これまでお疲れ様でした。
どうぞ、お幸せに、オデット嬢。
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これから死地へ向かうバスティアン。
もしかしたら、
生きて帰れないかもしれない
バスティアンにとって、
最後にオデットと過ごした日々は
かけがえのない時間だったと
思います。
オデットにとっても、
同じだったのではないでしょうか。
オデットの幸せだけを考えて
淡々と去ろうとするバスティアンに
泣けました。
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