171話 外伝18話 夏も終わりに近づいています。
バルコニーの手すりの下に広がる庭を
見下ろしながら、エルナは
風の色が変わったと
ぼんやり思いました。
真昼の日差しは
依然として熱いけれど、
朝と夕方の空気からは
徐々に変わり行く季節が
感じられました。
エルナはパジャマの上に羽織った
レースのショールを握り締めたまま
涼しい晩夏の風に当たりました。
夜明けの光が消える頃まで
その場にいましたが。
眠気は、簡単には消えませんでした。
結局、今朝の散歩を断念したエルナは
寝室に戻りました。
脱いだショールをきれいに畳んで
フットベンチに置いたエルナは、
再びベッドの中に入りました。
まだ眠っているビョルンのそばに
横になると、穏やかな温もりが
伝わって来ました。
エルナはそれが好きで、
その大きな男の懐に潜り込みました。
応接室と書斎を飾る花を選び、
馬小屋へ行って、
ドロテアにビートもあげなければ
いけないけれど、
眠気はエルナの意志を圧倒するほど
強い力がありました。
「もしかして」
慎重に質問を繰り返す
エルナの瞳が小さく揺れました。
最近になって、
めっきり体がだるくなり
疲れやすくなりました。
しきりに眠気が押し寄せて来たり
微熱が出たりと、
馴染みのある症状でした。
本当にそうだろうか?
それとも?
エルナは微かにため息をつき、
ビョルンの首筋に顔をつけました。
医者に診てもらえば
解決される問題だけれど、
怖くて、この予感を気軽に
口にできませんでした。
もし以前のような思い違いであれば
その時の失望と、
迫り来る不安に耐える自信が
まだ、ありませんでした。
だからといって、
いつまでも回避するわけには
いきませんでしたが。
繰り返し
ため息をついていたエルナは
ビョルンに名前を呼ばれて
ビクッとし、顔を上げました。
まだ眠そうに目を伏せている
ビョルンが見えました。
エルナは、ビョルンを
起こそうとしたわけではないと
謝ると、
ビョルンは大丈夫だと答え、
だるそうな笑みが浮かんだ唇を
エルナの額に当てました。
どうせ、
すぐ起きなければならないという
ビョルンの言葉を聞いたエルナは
そういえば、今日、銀行で
重要なことがあると、
昨日、彼が言っていたことを
思い出しました。
そうしているうちにビョルンは
エルナの上に上がって来ました。
ビョルンはベッドに両腕をついて
体重をかけたまま、
妻の額と鼻先、 頬。そして唇に
小さな口づけを続けながら
パジャマの裾をまくり上げました。
小さな手が
彼の手首をつかんだのは
その時でした。
じっとエルナを見下ろしていた
ビョルンは、エルナに
体の具合が悪いのかと尋ねると
目を細めました。
エルナは、昨夜も、 昨日も
一昨日も、
このように彼を拒否しました。
息を殺したまま
彼を見つめていたエルナは
「いいえ」と答えて
首を小さく横に振りました。
「よく分からない」と
混乱しているような顔で囁いた瞬間にも
エルナの手は、ビョルンの手首を
しっかりと握りしめていました。
何か悪いことをしたのだろうか。
ビョルンは、ここ数日のことを
じっくりと振り返ってみましたが
適当な答えを
見つけることができませんでした。
些細な喧嘩もなく平穏な日々で
彼らの間に、
何の問題もありませんでした。
一瞬、深く沈んでいた
ビョルンの瞳は、
すぐに本来の光を取り戻しました。
笑みを浮かべた唇で
短いキスをした彼は、
ベッドから立ち上がりました。
彼の後を付いて行こうとするエルナを
ベッドに寝かせたビョルンは、
休むようにと、
彼女に優しく命令しました。
掛け布団を引き上げると、
エルナは頷きながら微笑みました。
エルナは、言おうとしたことを
誤魔化しながら、少し気まずそうに
「ありがとう」とお礼を言いました。
ビョルンは、
乱れた茶色の髪を撫でることで
返事をした後、
妻の寝室を出ました。
主寝室に戻って
呼び出しベルを鳴らすと、
すぐに、メイドが
新聞とモーニングティーを
運んできました。
濃いお茶を飲みながら新聞を読み、
いつもより長く
シャワーを浴びました。
今日、発表される結果に関しては
十分に勝つ自信があったので
特に悩みませんでした。
それでも妙に神経を刺激する一つが
何なのか、ふと気づいたのは、
カフスボタンを留めた瞬間でした。
ビョルンは、
ジャケットを持ってきた使用人に
主治医を呼んで
妃を診てもらうようにと
淡々と命令しました。
微かな熱感を覚えていた指先に
漂っていた微細な緊張感は、
ほどなくして消えました。
ビョルンは、
手袋のボタンをかけながら、
その診察結果は、
すぐに自分に報告するようにと
衝動的に命令を付け加えました。
これは、すべて
グレディス・ハードフォートのせいだ。
レチェンの銀行家たちの目が
荒々しく光りました。
その王女の犯した不正のせいで、
ビョルン・デナイスタが
王冠を投げ出して金融街に居座った。
だから、
今日の、この悲劇をもたらしたのは
そのラルスの魔女だと言っても
過言ではありませんでした。
まさか、たった数年で
ここまで上がってくるとは。
終始一貫して余裕のある
ビョルン・デナイスタを
チラチラ見る彼らの目からは、
隠すことのできない苛立ちと
鬱憤が滲み出ていました。
いくら王子だとしても、金融業界では
後発組に過ぎませんでした。
ところが、銀行の看板を掲げて
数年も経っていない、あの小僧が、
レチェン金融業界の盟主の座を
狙っているなんて。
その事実だけでも耐え難い恥辱なのに
形勢は、すでにあの狂犬の方に
傾いているも同然でした。
王室の公式取引銀行に選ばれることは
レチェン最高の銀行家という名誉を
得るのと同じだったので、
その座を巡る競争は熾烈でした。
その決定権は財務大臣にあり、
国王も、そのことに、
むやみに介入することが
できませんでした。
ビョルン王子の銀行が、ここ数年間、
王室の公式取引銀行の選定から
落ちたことが、
まさにその公正性の証拠でした。
しかし、今年は
ビョルン・デナイスタの躍進が
尋常ではありませんでした。
ベルクの債券を運用して
莫大な利益を上げた上、
レチェンの随所に支店を出して
集めた金で、
しっかりとした預金基盤も
築きました。
彼が王室銀行家に選ばれたとしても
誰も異議を申し立てることが難しい
成果でした。
ビョルンの向かいに座っている
初老の紳士が、
フェリアとベルンの公債が
再び安定を取り戻したと
敵意と嘲弄が混じった口調で
言いました。
しかし、ビョルンは軽く目配せして
肯定を示すだけでした。
ビョルンは、
色々な面で幸いなことだ。
特にヴァルツ家にとってはと
のんびりとした口調で、
初老の紳士の名前を言及しました。
それが、さらに冷ややかな
脅威のように感じられ、
彼はギョッとして
口を固く閉ざしました。
王子を牽制するために、
レチェンの銀行家たちは力を合わせて
フレイル銀行が委託を受けて
管理する公債を下落させ、
ビョルン・デナイスタに対する
金融市場の信任を
失わせようとしました。
そのために、
いくつかの家門が資金を集めて
ベルクの公債を買い入れ始めました。
フレイル銀行に打撃を与えるほどの
力を持つ時期が来たら、
一気に売りさばいて、
市場を揺さぶるつもりでした。
一見、成功したように見えましたが
王子は、他の銀行家たちが
委託を受けて管理している
フェリアとベルンの公債を
フレイル銀行が、
全て買い入れ始めるという
思いもよらない反撃をしたことで
彼らの講じた策に
ブレーキをかけました。
共謀してくれる勢力を
引き入れる必要もなく、
ビョルン・デナイスタは
独自の資本力だけで
彼らを脅かすことができました。
相手と全く同じ方法で脅威を与える
ビョルン・デナイスタの前で、
結局、彼らは、白旗を
掲げなければなりませんでした。
資本力の戦いにおいて、彼らは
決してあの狂犬に
立ち向かうことができませんでした。
ビョルン・デナイスタが
買い占めた公債を
爆弾を爆発させるように
市場に売り渡す日には、全大陸が
震撼することになるからでした。
まともな金融家なら、
自分の足の甲も
一緒に切るような真似を
するはずがないけれど、
ビョルン・デナイスタが
果たして正気なのかについて、
彼らは確信を持てませんでした。
自分の足の甲を切る程度で
相手の足首を切ることができるなら
喜んで、そうする気の狂った奴。
それが彼らが見た
レチェンの狂犬でした。
彼らが作戦を中止すると、
フレイル銀行側も反撃を止めました。
一緒に死にたくなければ
公正な競争をしろという、
青二才の王子が送った
生意気な警告のようでした。
結果を発表する財務大臣が
入室する時間が近づくと、
会議室の雰囲気も
さらに重くなりました。
ビョルン・デナイスタだけが、
それこそ、気が狂った奴のように
のんびりとした姿を見せるだけでした。
差し迫った様子の彼の侍従が
訪ねて来たのは、その時でした。
彼から渡されたメモを確認した
ビョルン・デナイスタの顔から
笑いが消えました。
静かな目で、手に持った小さな紙を
しばらく凝視しているだけでした。
もしかして、
異変が起きたのだろうか。
希望に満ちた銀行家たちが
ざわめき始めた頃、
王子が突然笑いました。
メモを読みながらニヤリと笑い、
空中を見て、また笑い、
もう一度メモを確認すると、
本当に気が狂ったように
満足そうな笑みを浮かべ始めました。
あれは、また、
どんな魂胆があるのだろうか。
渡されたメモを、
ジャケットの内ポケットに
大切にしまう王子と
目が合った彼らの目つきが
不安に揺れ始めました。
ビョルンが、
まるで聖者にでもなったかのように
穏やかな笑みを浮かべて見せると、
彼らの恐怖は、
さらに激しくなりました。
あのように笑っているのを見ると
確実な札を手に入れたようだけれど
一体、それが何なのか
もう見当もつかないと、
絶望的なため息が続く間に、
ついに財務大臣が入室しました。
結果は皆が予想した通り、
ラルスの魔女が
金融家に送り込んだ災いである、
ビョルン・デナイスタが
新たな王室銀行家となりました。
「おめでとうございます、王子様」
フィツ夫人は、いつにも増して
丁寧な挨拶で王子を迎えました。
落ち着きのある態度を取ろうと
努めていましたが、
赤くなった目元まで、完璧に
隠すことはできませんでした。
ビョルンは、礼儀正しい黙礼で
乳母の心に応えました。
嘘と偽善が首を絞めた夏。
泥沼のような混乱の中を
寝転がった、もう一つの夏。
その残酷だった2度の季節を経て
再び訪れたお祝いの言葉は、
温和でした。
一時、顔を背けて
濡れた目を拭ったフィツ夫人は
大公妃は寝室にいると
落ち着いて告げました。
ビョルンは、
使用人から渡された箱を持ち、
気ぜわしい足取りで、
エルナの寝室に向かいました。
妻の部屋の扉の前で
立ち止まったビョルンは
息を整えた後、扉を開けました。
人の気配を感じた地獄の門番が
びくっとして立ち上がりました。
涙に濡れた顔が、
夕方の日差しの中で輝いていました。
急いで濡れた目を拭ったリサは、
妃殿下は、少し前に
眠りについたけれど、
王子様がそばにいてくれれば
とても喜ぶだろうと
丁寧に告げました。
生意気な助言ではありましたが
ビョルンは問題視しませんでした。
ビョルンは頷いて一歩踏み出すと
「あの、王子様」と
リサが急いで彼を呼びました。
チラッと視線を向けた彼と目が合うと
地獄の門番は
子供のような涙を流しながら、
頭を下げ、何度も
お祝いの言葉を伝えました。
ニコッと微笑んで、
その過度な祝いの言葉に
応えたビョルンは、
最小限に気配を抑えて、
寝室の扉の前に近づきました。
静かに扉が開き、再び閉まりました。
エルナを失った後の
ビョルンの悲しみや苦しみを
ずっと見て来たフィツ夫人。
そのビョルンがエルナを取り戻し
幸せそうな姿を
見せるようになったことで、
フィツ夫人は、
心から喜んだと思います。
そして、エルナが
流産の悲しみを乗り越え妊娠。
大公邸での出来事を
見守って来たフィツ夫人にとって
とても感慨深いものだったと
思います。
バーデン家にいた時から
エルナの苦しみや悲しみを
ずっと見て来て、姉妹のように
エルナのことを心配し
気遣っていたリサ。
自分のことのように
エルナの妊娠を喜んでくれるリサは
エルナにとって、かけがえのない
メイドだと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様からの励ましの言葉に
感謝しかありません。
本当に本当に
ありがとうございます。
メロンパン様。
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