5話 はたしてウォルターの返事は?
顔も見たくないから
もう出て行けと言っても
そうするんだと、
怒りに満ちたバーデン男爵夫人の声が
田舎の家の平穏を揺るがしました。
自分が悪かったと
エルナは祖母に謝ると、
もう少し慎重に祖母に近寄りました。
窓際の椅子に座っている
バーデン男爵夫人は、
頑くなにエルナを無視していました。
シュベリンでのことを聞いてからは
ずっとこんな調子でした。
バーデン男爵夫人は、
本当にそう思うなら、すぐに
ウォルター・ハルディに連絡して、
そのとんでもない取引を
なかったことにするようにと
指示しました。
しかし、エルナは
そんなことはできない。
ハルディ家の弁護士が
今日トーマス・バーデンに会って
取引を成立させるそうだ。
とりあえず、父が所有者だけれど
近いうちに自分に
相続させてくれると約束した。
自分たちは、この家でずっと、
何の心配もなく暮らしていけると
話しました。
その言葉に、祖母は
エルナを売ってまで、
この家を持つことに、
一体何の意味があるのかと
反論しましたが、エルナは
どうして、そんなことを言うのか、
決してそんなことはない。
この家も守れて、今からでも、
父親と暮らせるようになったので
皆にとって良いことだと
言い返しました。
祖母は、エルナが本気で、
本当にそうしたいのかと尋ねました。
エルナは慌てて微笑み、
もちろん、本気だと答えました。
相変わらず悲しみに満ちた
祖母の目を見れば、
あまり嘘が成功したようには
思えませんでしたが。
トーマス・バーデンが相続した
田舎の家を、
父親が買ってエルナに渡すと
言ってくれた時、エルナは
驚きのあまり、
危うく意識を失うところでした。
無謀に最後の希望に
しがみついたものの、
まさか、これほど簡単に
実現するとは思いませんでした。
ただし、ウォルターは
娘の頼みを聞き入れる条件で、
今からでも一つの家で、
まともな家族として暮らしてみること。
ただでさえ
婚期を迎えた年頃になるまで
遠くに娘を放置しておいたことが
とても気にかかっていた。
1年という時間を、この父親にくれと
意外な提案をしました。
エルナが躊躇っていると、
ウォルターは、
1年程度、このシュベリンに
滞在しながら、社交界にも出て、
これから生きていく上で必要な人脈を
広げる時間を持つように。
少なくとも、その程度の基盤を
用意してやるのが父親としての
道理だと思うと、
急いで付け加えました。
そして、
彼がブレンダに目配せをすると、
彼女は、エルナが
きちんとした貴族の令嬢として
生きていけるように、自分も助けると
熱烈に説明しました。
しかし、エルナは、
昨日、今日と変わらない明日が続く
ここでの静かな生活が好きで、
これ以上、望むことは
ありませんでした。
それでもエルナが承諾したのは、
これが最善の方法だから。
どんな手段を使ってでも
この家を守りたかったエルナは
1年ほど父のそばに留まる代価として
この家を手に入れられるなら、
それほど悪くない取引だと
思ったからでした。
バーデン男爵夫人は
孫娘をじっと見つめるのを止め、
彼女に出て行くようにと言いました。
そして、
一人でいる時間が必要なようだと
言って、窓の外を凝視する
彼女の目は
さらに赤くなっていました。
エルナは、これ以上、
祖母に言葉を掛けられず、
祖母の寝室を、とぼとぼと
出て行きました。
社交クラブの酒席で、
その会員である名門家の子弟たちは、
前回の競馬大会の優勝馬の話が出ると
羨望と嫉妬の混じった目で
ビョルンを見ました。
大公が所有する馬は、
その馬主が競馬場に
あまり現れないにもかかわらず
各種の競馬大会で優勝していました。
競馬がビョルンの趣味でなければ
馬を売ったらどうかと言って
とてつもない買値をつけても、
ビョルンは、
競馬にはあまり興味がない。
それでも売らない。
自分のものだからと返事をしました。
その言葉に
あちこちで、ため息が漏れました。
あらゆる懐柔と説得が続いても
ビョルンはいつものように
何気なく聞き流し、
人の話に耳を傾けませんでした。
ペーターは
興味がなくても、
自分のものだから売らないというのは
どういう論理なのか。
変態みたいな奴だと、しかめっ面で、
ぶつぶつ言いながらも、
かなり親しみやすい態度で
ビョルンの空のグラスを
満たしてやりました。
その後、男たちの話題は
競馬から女性に移り、
美貌で名を馳せている
社交界の淑女たちの名前が底をつくと
不意に誰かが、
ハルディ家に新しく来たメイドが
とても最高だったと言いました。
ハルディ家は、
新しいメイドを入れるどころか
今までいたメイドたちも
追い出さなければならない
境遇だと思うと
別の誰かが返事をすると、
最初に発言した男は、
それでは以前からいたメイドだろうか。
とにかく、あの家に入るのを見たので
メイドであるのは確かだと言うと、
もう尾行までしたのかと
非難されました。
最初の男は、
タラの大通りで偶然出会ったけれど
あまりにも美人だから
挨拶でもしようかと思ったら
びっくりして逃げてしまったので
初対面の挨拶もできなかった。
ぱっと見ると、
田舎のお嬢さんみたいで臆病だったと
説明すると、
美人を驚かせるなんて、
お前の顔が悪かった。
王子だったら、 臆病な田舎娘も
蜜のように甘い挨拶を
してくれただろうと言って
くすくす笑いました。
くだらない話を聞いていたビョルンは、
最近よく耳にする
ハルディという名前を
繰り返し呟きながら
グラスを握ったまま席を立ちました。
社交クラブの2階の書斎に入った
ビョルンは、
ソファーに座っていた銀行の理事たちに
皆、早く到着しましたねと
にっこり笑って挨拶をしました。
彼らは一斉にビョルンを見つめました。
彼らの1人は、
自分たちが早く来たのではなく、
王子が遅れたと非難しましたが
ビョルンは上座に座ると
今が定刻ではないかと言って
時計を指差しました。
その言葉が終わるや否や
時計の針が正確に4時を差しました。
これ見よがしに笑うビョルンの顔は
真昼から酒を飲んでいる蕩児らしくなく
さわやかでした。
空のグラスを
テーブルの端に置いたビョルンは、
弁護士が差し出した、
レチェンの金融市場に
新たに流入した海外債券と
地方債に関する詳細な報告書を
受け取ると、
ゆっくり読み始めました。
その落ち着いた目つきのどこにも
酔いを見つけることは
できませんでした。
座っている男たちは、
彼の検討が終わるのを
黙々と待ちました。
金融家と法律家として
名を馳せている彼らが、
いきなり銀行を設立するという王子と
一緒にすることに決めたのは、
純粋に彼が持っている人脈と
資本のためでした。
どうせ熱心に
仕事をするはずがないので、
金づるを握った案山子として
立てておけばいいと思いましたが
彼が金の卵を産むガチョウになるなんて
誰も予想していませんでした。
生まれつき異才のある
毒キノコ王子のおかげで得ている
利益は、他の全てのことを
忘れさせてくれるほど
甘いものでした。
ビョルンは、
再び成功を予感させる笑顔で
「それでは始めましょう」と
告げました。
半分崩れている垣根を修理している
ラルフ・ロイスに、
エルナは釘を渡しながら
自分は間違ったていたのだろうかと
深刻に尋ねました。
チラッとエルナを見たラルフは、
これといった返事もせず、
金づちを打ちました。
その度に、垣根の上の埃が飛び散り
エルナは、
しきりに、くしゃみをしながらも
ラルフのそばを離れませんでした。
垣根が本来の姿を取り戻した頃、
エルナの鼻の頭は赤くなっていました。
エルナが渡したタオルで
顔を拭いたラルフは、
孫娘が去るのだから、夫人は
ひどく心を痛めるしかない。
しかし、いつまでも孫娘を
この田舎に、今までのように
置いておくわけにはいかないことを
夫人も、よく分かっていた。
ただ、あまりにも突然の別れだからと
ようやく返事をしてくれました。
エルナを見る彼の目からは
温情と悲しみが滲み出ていました。
バーデン男爵夫人は、
結局、孫娘の意思を受け入れ、
明日、エルナは
シュベリンに向かう予定でした。
ハルディ子爵の決意は固いのか
娘を連れて行くために
使用人を送って来たほどでした。
エルナは、
勝手にこのような決定を下し、
そのせいで皆を悲しませたことを
本当に申し訳なく思っているけれど
この家を守れたので後悔はしないと、
明るい笑顔で言いました。
ラルフは、
赤くなった目頭をごしごしこすり
返事の代わりに頷きました。
口を開けば
泣き出してしまうかも知れない。
その気持ちを
すべて知っていると言うように、
エルナは長い間
彼のそばに留まりました。
エルナは、
自分が戻って来るまで
祖母のことを頼みました。
もう一度頷くラルフの顔は、
先程より赤くなっていました。
バーデン家の御者だった彼は、
この家に、馬車がなくなった後も
あれこれ雑用を引き受けていました。
賃金をまともに支払うことが
難しいほど、家が傾いた後も
ここに残ってくれたのは
彼とグレベ夫人だけでした。
長い年月を共に過ごして来た
情と義理だけでなく、彼らの年齢では
他に働き口を見つけるのが
難しいことを
エルナはよく知っていました。
だから、エルナは、
家族同然の彼らが
これからも末永く安心して
ここに住めるように、なおさら、
この家を守りたいと思いました。
そのためなら、1年ぐらい、
いくらでも耐えることができました。
来年の春には、またこの家で、
このように美しく平穏な風景を
眺めることができると思いました。
エルナは翌朝バーデン家を出ました。
それから数日後、体が弱くて、
田舎で療養生活をしていた
ハルディ子爵の娘が戻って来て、
遅ればせながら、
社交界デビューを果たす。
しかも、グレディス王女に劣らない
美人だという噂が
社交界に広まりました。
今回のお話には、
マンガでは描かれていない場面が
出て来ました。
ビョルンは、
自分で銀行を作りながら
しかも、短期間で
しっかり利益を上げている。
今更ながら、
とても優秀な銀行家なのだと
思いました。
一方、エルナの肩には
19歳の女の子が背負うには
あまりにも重すぎる荷物が
乗っているけれど、
家族を守るために立ち上がる
エルナの決意には
並々ならぬものがあると思いました。
1年後に、再び、この家で
美しく平穏な風景を見る。
まさか、王子様と結婚して
一緒に見ることになるなんて、
微塵も考えていなかったでしょうね。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
midy様、まりか様、トパーズ様
お忙しい中、
ビョルンの最初の結婚期間について
詳しく解説していただき
ありがとうございます。
おかげさまで、
時間の流れがよく分かり、
お話に対する理解度が深まりました。
本当にありがとうございます。
次回は明日、更新いたします。