金融家たちと話をしていた
バスティアンに、
ブランデーの入ったグラスを
手にした女性が、
久しぶりだと優しく挨拶しました。
そして、もう一歩彼に近づいた
その女性は、
愛する弟の婚約の知らせを聞いて
どう思うかと尋ねると、
いたずらっぽく眉を顰めました。
かなり挑発的な態度でしたが、
バスティアンは意に介さない様子で
平然と笑みを浮かべました。
フェリア最高の資産家である
ラビエル公爵の一人娘、
サンドリン・ドゥ・ラビエル。
ルーカスのいとこでもある彼女は
数年前にベルクに嫁いで来て
ラナト伯爵夫人になりました。
しかし、彼女は依然として
娘時代の名前を使い、
ほとんどの人は、その選択に
異議を唱えませんでした。
結婚初期からギクシャクしていた
ラナト伯爵夫妻が
離婚を準備しているという噂が
社交界全体に
広まっていたためでした。
来年頃には、ラビエル公爵家の令嬢に
戻ることができるという見方が
支配的でした。
バスティアンは、
家門の光栄だと思っていると
すでに数回繰り返して来た答えを
淡々と口にしました。
サンドリンは、
それが、あなたと
大きな関係があるかどうかは
分からないけれど、
クラウヴィッツ家の栄光ではあると
言って、呑気に肩をすくめました。
それから、もう一歩、
バスティアンに近づくと、
サンドリンは、扇で口を隠しながら
彼の栄光になる日を早めるよう
最善を尽くしている。
まさかその間に、焦って
愚かな間違いを犯さないと
信じていると、
声を低くして囁きました。
大胆な話し方とは違って、
その眼差しからは、
まだ隠すことができない不安が
滲み出ていました。
思っていたほど簡単に解決できない
離婚訴訟に
不安を感じているようでした。
バスティアンは、
もちろん、自分たちの間の信頼を
裏切らないように
最善を尽くすと返事をしました。
そして、ざわめく見物人たちを
見回したバスティアンは、
サンドリンに顔を近づけると、
過信はしないように。
現在は、ラビエルが最善だけれど
知っている通り、
結婚市場の状況というのは
あまりにも可変的ではないかと
言いました。
サンドリンは、
今、自分を脅しているのかと
尋ねました。
バスティアンは、
穏やかな笑みを浮かべながら、
そんなわけない。
一日も早く、
自由を取り戻されることを願っている
友情のこもった激励だと答えました。
見物人の目には、
仲睦まじい恋人同士に見えそうな
姿でした。
それを証明するかのように、
継母は警戒心に満ちた目で、
しきりに、
こちらをチラチラ見ていました。
これくらいなら、当初の目的を
達成できたということでした。
まだ話したいことが多そうでしたが、
サンドリンは、これ以上、
意地を張らずに退きました。
察しがよくて世渡りのうまい女。
それはサンドリンが持っている
もう一つの立派な資産であり、
バスティアンは、
その点を高く買っていました。
ブランデーを一口飲んで
唇を潤したバスティアンは、
金融家たちに、
しばらく欠礼したことを謝罪し
その理解を求めると、
中断した話を再開しました。
債券市場と新しいリゾート都市。
そして来週末のポロの試合。
バスティアンは、適切な話題で
巧みに談笑を導きました。
握手を交わして別れる頃には、
先程の小さな騒ぎは、
きれいに忘れられていました。
無事に会話を終えたバスティアンは
タイミングを見計らって
テラスに出ました。
手入れの行き届いた庭と、
月明かりに染まった海。
この領地が欲しくて、
蔑視していた貸金業者の娘と結婚した
父親を理解することもできるような
美しい風景でした。
タバコを吸ったバスティアンは
思わず青白い月に目を向けた瞬間、
ふと、あの女を思い出しました。
赤くなった両目に
涙が溢れていたけれど、
女はついに泣きませんでした。
叱責と哀願、敵愾心と恐怖が
入り乱れた目は、
あの月のように冷たくて弱い光で
輝いていました。
バスティアンは、
思ったよりずっと鮮明に残っている
あの夜の記憶を振り返りながら
長くなったタバコの灰を
払い落としました。
その瞬間にも、依然として視線は
青白い月に向かっていました。
女がベールを脱いだ瞬間、
空気の流れが変わりました。
息を殺した一行が交わす視線が
何を意味するのか、バスティアンは
知らなかった訳ではありませんでした。
それでも前に出られなかったのは、
古物商の孫が捨てた賭け金を
拾って行くことができなかった
最後のプライドの
ためだったということも。
もし乞食公爵が再び娘を売るならば、
その時は皆大騒ぎして
前に出るだろう。
あのような部類は、高い確率で
自分の癖を捨てられないものだから
彼女の将来は、
もう決まったも同然でした。
ここにいたのかと、
後ろから、聞き慣れた声が
聞こえて来たので、
バスティアンはゆっくりと振り返って
叔母に向き合いました。
彼女は、
何をしに、そこを見ているのか。
何のいい思い出があるというのかと
尋ねると、
バスティアンが渡したタバコを受け取り
眉間にしわを寄せました。
森とつながっている海辺から
目を逸らすと、
バスティアンは軽い笑みを浮かべながら
ライターを点けました。
マリアは、
火を点けたタバコをくわえたまま
夜の海を見ました。
狩りの授業の途中で
野犬に噛み付かれた子供が
海に落ちるという事故が起きた。
兄の利権のために、売られるように、
嫁に行かなければならない日を
目前にしていたマリアは、
失意に陥って海辺を歩いていました。
血まみれになった子供を発見したのは
むしろ海水に
身を投げたくなった頃でした。
甥っ子に気づいたマリアは、
躊躇うことなく、
冬の海に飛び込みました。
幸いバスティアンは意識があったので
救助が、よりスムーズに進みました。
教師が現れたのは、二人が一緒に
海から上がった後でした。
よく訓練された馬が、
なぜ急に興奮して暴れたのか。
野犬はどこから現れたのか。
子どもが血まみれになる間、
教師はどこで何をしていたのか。
解消できない疑問が
相次いで湧いて来ましたが、
これ以上の調査は
行われませんでした。
それは狩猟の授業の途中に起きた
不運な事故であり、
監督を疎かにした担当教師を
解雇する形で幕を閉じました。
マリアは、これ以上、この子を
この家に置いておけないと思い
バスティアンの実家に
連絡をすることにしました。
それから一週間後、
カール・イリスは
子供を連れて行きました。
それは、まさにクラウヴィッツ夫妻が
望んだ結果だということを
知っているけれど、
マリアは一度も自分の選択を
後悔したことがありませんでした。
生きていなければ、復讐を
企てることもできないからでした。
マリアは、
まだ離婚が成立していないので
離婚した女と呼ぶのは
どうかと思うけれど、
率直に言って、自分は
あの蛇のような離婚した女が
あまり好きではないと言うと
複雑な心境が込もった目で、
自分が愛する
唯一のクラウヴィッツを見つめました。
しかし、マリアは、
あの女こそ、
バスティアンに最も必要なものを
持っている花嫁候補だという事実は
否定できない。
ラビエル家が後ろにつけば
あなたの父親にとって、
最大の脅威になるだろうと言いました。
バスティアンは、
悪戯っぽい笑みを浮かべながら
マリアが理解してくれたことに
お礼を言って、頭を下げました。
相手を無防備にさせる表情でした。
半分吸ったタバコを消したマリアは、
だからといって、
他の選択肢を排除する必要はない。
常に、万が一に
備える必要があると言うと、
役に立つ淑女の名前を
次々と並べ立て始めました。
その家門の名声と財産、
予想される持参金の額まで、
かなり真面目で執拗な調査でした。
マリアが去ると、バスティアンは
もう一本タバコを吸って、
パーティー会場に戻りました。
ホールの中央に着くと、
今日の主人公であるフランツが
この世のすべてを持っているような
笑みを浮かべながら、
お祝いの言葉を伝えるために
集まった客たちに囲まれていました。
じっとその姿を見守っていた
バスティアンは、
友愛に満ちた兄の笑みを浮かべたまま
一歩を踏み出しました。
皇帝は、優しく諭すような声で
落ち着くように。
たった写真一枚なのにと言いました。
深いため息をついた皇后は、
まだ消えていない怒りが込められた目で
夫を見つめました。
テーブルの上には、
新聞から切り取られた、しわくちゃの
クラウヴィッツ大尉の写真が
放置されていました。
皇后は、
結婚を控えた子供が、毎晩、
別の男性の写真を見ていることが
本当に大したことではないと
思うのかと尋ねました。
皇帝は、
皇后の言う通り、
イザベルはもうすぐ結婚する。
バスティアンに対する気持ちが
どうであれ、
その事実は変わらないと答えました。
皇后は、
ヘレネにも婚約者がいたけれど
愛に目が眩んで、
予定されていた結婚を台無しにしたと
恐怖に近い不安感で震えた声で
鋭く言い返しました。
ヘレネと、
妹の名前を繰り返す皇帝の顔色が
目に見えて冷たくなりました。
皇后は、ようやく
自分の過ちに気づきました。
皇后は、
皇室を冒涜するつもりはなかったと
謝りました。
皇帝もそれを理解し、
ゆっくり頷くことで、
怯えた妻を宥めました。
イザベルの乳母は、
毎晩イザベルが、小さな額縁を見ながら
涙を流すのを怪しみ、
化粧台の引き出しを開けたところ
その写真を発見しました。
ヘレネの時のようなことが起きたら
どうするのかと、
バスティアンの写真を持って
彼らを訪ねて来た乳母も、
皇后のように心配していました。
絶対にそんなことはないと
断言しましたが、実は皇帝も、
愚かな恋に落ちたイザベルの姿が
驚くほど妹に似ていることを
よく知っていました。
もちろん、バスティアンは
ディセン公爵などと
比べものにならないくらい
立派な男でしたが、決して、皇女の
パートナーになれないという点で
大きく違いはありませんでした。
皇后は、
ヘレネの話が出たけれど、
本当にオデットを
放っておくつもりなのかと、
顔色を窺いながら尋ねました。
再び嬉しくない名前を聞いた皇帝は
眉を顰めて不満そうな顔をしましたが
皇后は簡単には退きませんでした。
皇后は、
ディセン公爵が、
色々と問題を起こしているようだと
言いました。
皇帝は、
あの男はいつもそうだったから
驚くこともないと返事をしました。
皇后は、
最近、ディセン公爵は、
裏通りの賭博場まで
しきりに覗いているらしいけれど
そうしているうちに、
オデットに何かあったらどうするのか。
自分もディセン公爵を憎んでいるけれど
だからといって、
ヘレネが愛した娘が不幸になるのを
見たくはないと、
瞳に深い悲しみの色が浮かべながら
言いました。
帝国から愛されている
賢明で慈愛に満ちた皇后に
唯一の短所があるとすれば、
それは、あまりにも心が
弱いということでした。
ディセン公爵が、依然として
皇室の年金を浪費しているのは、
全面的に皇后の同情心の
おかげでした。
皇后は、
オデットに適当な結婚相手を見つけて
嫁に出した方がいいのではないかと
提案しました。
皇帝は首を横に振り、
一体、どの家門が、
あのような花嫁候補を望んでいるのかと
返事をしました。
あの子を最後に見たのは
ヘレネの葬式の日で、
もう五年の歳月が流れていました。
貧しくて悲惨な境遇で
生活しているという噂を
伝え聞いたことはあるけれど、
皇帝は、それ以上、
そのことに関心を持ちませんでした。
彼らの面倒を見ていたのは、
ただヘレネがいたからで、
妹がいないディセン家は、
憎悪と幻滅の対象に過ぎませんでした。
しばらく悩んでいた皇后は、
クラウヴィッツ大尉はどうかと
思いもよらない名前を囁きました。
まさか、
あのバスティアンのことかと
皇帝は当惑したように聞き返すと
しわくちゃの写真を指差しました。
皇后は、
身分は低いけれど、
オデットの結婚先としては過分だ。
彼は、大きな戦功を立てた
英雄でもあるので、
皇族の妻を得るだけの資格を
持っていると思うと言いました。
皇帝は、
懲罰ならともかく、
この世の誰一人として、そんな結婚を
英雄に与える褒賞だとは
思わないだろうと返事をすると
呆れて失笑しました。
いくら、その血筋が卑賤だとしても
この帝国で指折りの大富豪の息子であり
名誉ある軍人でした。
後継者の座は、
貴族の母を持つ異母弟のものに
なるらしいけれど、
その事実が欠点になるには、
すでに十分多くのものを
持っている男でした。
皇帝は、
下級貴族の妻ぐらいは、
いくらでも手に入れられる男が、
なぜ、ディセン公爵の娘と
結婚するのかと尋ねました。
皇后は、
今は没落した身の上だとしても、
ディセン家は由緒ある名門だ。
しかも、オデットは
皇室の血筋でもあるので、
下級貴族と比べるような血統ではない。
それに、イザベルだって、
クラウヴィッツ大尉が従姉の夫になれば
仕方なく諦めるのではないかと
切迫した口調で、
自分の見解を述べました。
娘の名前が出てくると、
ずっと強硬だった皇帝の眼差しにも
動揺の色が浮かびました。
その微細な変化に気づいた皇后は
どうかイザベルを守って欲しいと
哀願するように夫の手を握りました。
そして、
あなたは皇帝なので、
将校一人ぐらいは、
いくらでも思い通りにできる力を
持っているのではないかと
言いました。
利己的な母性から生まれた涙で
いっぱいになった皇后の目が
冷たく輝きました。
皇帝は答える代わりに
長いため息をつきました。
心が弱い女という見方は、
訂正した方が良さそうでした。
ディセン公爵は、
落ちぶれた自分の家門を
再興するために、
世間知らずの箱入り娘だった
ヘレネをたぶらかし、
駆け落ちをした。
ヘレネは皇帝から溺愛されていたから
既成事実を作ってしまって、
二人の結婚を許してもらおうと企んだ。
けれども、
ロビタとの縁談をぶち壊したことで
おそらくベルクは、皇帝が激怒し、
溺愛する娘を勘当するほど
外交上、窮地に陥ったのではないかと
思います。
それは、ヘレネにとっても
ディセン公爵にとっても
想定外のことだったと思います。
妹の娘なのに、現皇帝が
オデットのことを、
あまり気にかけないのは、
ディセン公爵を、
相当憎んでいるからではないかと
思いました。
もしかして、皇后は
ヘレネの友達だったのでしょうか。
オデットをバスティアンと
結婚させようと提案したのは、
イザベルのこと以外に、
オデットがいなくなることで
ディセン家に
年金を払わなくてもよくなるという
多分に打算的な考えが
あるように思いましたが
皇帝に比べれば、オデットに対して
いくらかの情があるように
感じました。
ところで、ディセン公爵は
ヘレネが生きていた頃に
ティラの母親と
関係を持っていたのですね。
本当に救いようのないクズ男だと
改めて実感しました。
ヘレネも、最初は
許されぬ愛に燃えていたけれど、
終いには夫に愛想を尽かし
死ぬまで後悔の日々を
過ごしていたと思いました。