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65話 ところで病院に閉じ込められているディセン公爵は・・・
このまま一人で死んだりしない。
ディセン公爵は、
しばらく揺れていた心を引き締めると
長い手紙に終止符を打ちました。
いつにも増して冷徹な理性で書いた
最後通牒でした。
蓋を閉めたペンを下ろした彼は、
首を回して
窓の向こうの風景を見つめました。
緑が輝いていた森が、いつの間にか
紅く染まっていました。
花が咲き乱れる春の日に
この病院に来たので、
もう三つの季節、ここに閉じ込められて
過ごしているわけでした。
死ぬ日まで、この病室で
死体のように
横たわっていて欲しいのだろうけれど
とんでもない。
ディセン公爵は白くひび割れた唇を
噛み締めながら、
介護士を呼び出す鐘を鳴らしました。
これまでオデットには
十分な時間と機会を与えました。
それでも帰って来るのは
沈黙だけなので、彼も、
もう父親のように振る舞う気は
ありませんでした。
先に親子の道理を
わきまえなくなったのは、
あの子だからでした。
オデットを盗んだ、あの下賤な奴が持つ
莫大な財産を考えると、
胸の奥底から、
火柱が噴き上がるような気がしました。
それほど握りしめておきながら、
この程度の病院代程度で
罪を償おうとするなんて、
とんでもないことでした。
「お呼びですか、公爵様」
忍耐力が尽きそうになった矢先に
介護士が入って来ました。
最近になって、めっきり怠惰になった
その女をじっと睨んでいた
ディセン公爵は、分厚い手紙を
ベッドの端に放り投げました。
できるだけ早くこの手紙を出せと
せっかちな命令をしたディセン公爵は
背中を支えている枕の奥深くに
体を預けました。
すでに不自由になった体は
元に戻せないとしても、彼は、
これよりも良い待遇を受ける
資格がありました。
必ず、そうさせるつもりでした。
明確な要求事項と、
それが貫徹されなかった時に
被ることになることを
知らせておいたので、今回の手紙まで
無視することはできないはずでした。
まずはティラ・ベラー。
あの殺人者同然の女を
監獄に入れることから始める。
息抜きができるような想像で
心を落ち着かせている間に、
もじもじしながら近づいて来た
介護士が手紙を拾いました。
封筒を見ていた介護士は、
娘さんに送る手紙のようだけれど
クラウヴィッツ家に嫁いだ娘さんかと
そっと尋ねました。
ディセン公爵は、
言われたことを、きちんとしろと
軽蔑の混じった叫び声で、
ますます一線を越えるようになった
介護士を叱りました。
生意気にも唇を尖らせた女は、
手紙を持って病室を出て行きました。
あんな奴にも
無視される羽目になったという
自責の念は、そう長くは続かないうちに
消えました。
ここから出さえすれば。
ディセン公爵は希望に満ちた目で
青空を眺めました。
あの日見た、
あのタウンハウス程度なら
適当な住処になりそうでした。
手足となってくれる使用人の数さえ
十分であれば、
車椅子に乗って日常生活を送ることも
不可能ではありませんでした。
たとえ父を裏切る
不埒なことをしたとしても、
オデットは依然として彼の希望でした。
愚かな愛が残した贈り物。
自分の人生で最高の宝石でした。

射撃を重ねるにつれて
弾痕は、少しずつ
的の中央に近づいていました。
最初より、
ずっとよくなった気がすると言うと
オデットは喜びで上気した顔を
後ろへ向けて、背後に立っている
バスティアンを見つめました。
かなり満足そうな目つきでした。
そろそろ、そうなる時だという
返事の代わりに、バスティアンは
適当な笑みを浮かべて見せました。
いつの間にか西の空に
徐々に赤みが差していました。
そろそろ練習を
終えなければならない時でした。
バスティアンは、
しばらく休むようにと
短い命令を残して背を向けました。
役目を終えた拳銃は
テーブルの端に置き、
最初に使用したライフルを
再び手に取って、弾丸を装填しました。
その間に、蜂の巣になった標的が
新しいものに交換されました。
色々な種類の銃を使ってみましたが、
どうやらオデットが
一番使いこなせるのは
このライフルのようでした。
お世辞にも
才能があるとは言えませんでしたが、
少なくとも、
非常に悪いとは言えない実力でした。
射撃に必要な筋肉が鍛えられれば、
ずっと良くなるはずでした。
装填を終えたライフルを持った
バスティアンは、再び的の前に立って
オデットを呼びました。
椅子に座って、
凝った腕を揉んでいたオデットは
急いで夫のそばへ戻りました。
銃をオデットに渡したバスティアンは
これまで、そうしてきたように
背後に近づき、
姿勢を整えてくれました。
大きくて硬い体が密着してくると、
オデットは、
どうすることもできない緊張感に
囚われました。
心臓の鼓動が速くなるのを感じた
オデットは、
教える才能もあるようだ。
射撃の実力と同じくらい
素晴らしいと思うと、ぎこちない称賛で
注意を喚起しました。
またもや馬鹿なことを言ってしまったと
後になって気が付きましたが、
幸い、バスティアンが
笑ってくれたおかげで、
苦境を免れることができました。
「光栄です」と言う
バスティアンの低い声が
耳元をかすめました。
夕方になって風が涼しくなると、
背後に立っている男の息遣いと体温が
より鮮明に感じられました。
オデットは射撃に集中することで
雑念を消しました。
教わった通りに姿勢を整え、
照準を合わせ、引き金を引きました。
最後まで目を閉じないことも
忘れませんでした。
「もう少し左へ」
的を確認したバスティアンが
指示しました。
頷いたオデットは、
彼の言う通りに姿勢を直しました。
そして、息を整えていたオデットは
なぜ海軍を選んだのかと、
とんでもない質問をしました。
バスティアンはそっと目を伏せて
懐の中の女性を見つめました。
オデットは、
実は、あなたが
陸軍のように戦うという論評を
見たことがある。
最高のポロ選手に数えられるほど
乗馬も上手だし、
このように射撃の実力も素晴らしいので
きっと陸軍でも活躍しただろうと思う。
海軍を選んだ特別な理由でもあるのかと
尋ねました。
「ああ、それ」と、バスティアンは
大したことではないというように
クスクス笑いました。
それは、トロサ海戦の艦上白兵戦を
不満に思う海軍省の保守派が
前面に押し出している論理でした。
銃刀を前面に出した肉弾戦は
海軍の交戦法ではないのだとか。
その無理な言いがかりは、大体
「それなら、
陸軍に入ればよかったのに」
という皮肉で、
締めくくられたものでした。
海軍を選んだ本当の理由が何なのか
全て知っているという含みを持たせた
貴族的な方式の悪口でした。
バスティアンは、
古物商の孫というレッテルを
背負わせることになったことを
申し訳なく思う祖父のために
将校になろうと決心しただけで、
実はどちらでも構いませんでした。
海軍になったのは、ただ、
こちらの方が出世しやすいからでした。
貴族的な色彩が強く保守的な陸軍は、
まだ爵位のない指揮官を
快く思わないからでした。
祖父を安心させる地位にまで
昇進するには、
比較的、開放的な海軍が有利でした。
どうせ苦労するなら、
かじりつく肉の塊は、大きい方を
選ばなければなりませんでした。
実利にかなった選択を
不名誉と考える貴族の見解は
どうでも良いことでした。
どうせバスティアンの名誉は
彼らと同じ所になかったので。
海軍らしい交戦法で高尚に戦い、
戦艦とともに水葬されるなら、
それはそれで、
尊重する価値がありました。
残念ながら、まだそのような前例を
目撃したことはありませんでしたが。
「バスティアン?」
長くなる沈黙の中に、
オデットの声が染み込みました。
無邪気な好奇心が込められた瞳を
凝視していたバスティアンは、
制服が気に入ったからだと
くだらない返事をしました。
せっかくの穏やかな時間でした。
不必要な真実よりも、
つまらない冗談の方が価値がある。
おそらく、そんな時でした。
オデットは眉を顰めて
「制服ですか?」と聞き返しました。
バスティアンは、
海軍の制服の方が好みだからと、
呑気に答えると、目で的を差しました。
じっと彼を見ていたオデットは
小さく声を出して笑いながら
首を回しました。
「確かにあなたは、海軍の制服の方が
ずっと似合っています」
クスクス笑うオデットの笑い声が、
触れ合った体を通して
伝わって来ました。
胸に溜まったその波紋が、
バスティアンの笑いとなって
流れるまでに、それほど
長い時間はかかりませんでした。
笑い合いが止んだ時、夕焼けの色が
鮮やかになっていました。
気を引き締めたオデットは
銃を再照準すると、バスティアンも
熟練した教官の姿勢を取り戻しました。
相次いで三発の銃声が鳴り響きました。
オデットは、
もうバスティアンの助けなしでも
銃の反動に
耐えられるようになっていました。
不安定だった射撃の姿勢も、
ほとんど矯正された状態でした。
そのくらいでバスティアンは
オデットから離れました。
これといった言葉を加えなくても、
オデットは、その意味を
理解しているようでした。
バスティアンは数歩離れた所へ行き、
タバコを咥えました。
息を整えたオデットは、
ゆっくりと、とても慎重に
射撃の姿勢を整えました。
ぴったりと仕立てられた乗馬服が
すらりとした体を
引き立てていました。
バスティアンが
タバコに火をつけている間に、
オデットが最初に一発撃ちました。
次、その次。
次々と引き金を引いている間も、
オデットは、教わった通り
目を閉じませんでした。
バスティアンもそうでした。
的を確認したオデットは
明るい笑顔で振り向きました。
連射を終えたライフルの銃口からは
まだ、微かに火薬の煙が
漂っていました。
特別な褒め言葉は必要なさそうでした。
オデットの顔は、
自分が立派にやり遂げたことを
すでに知っている誇りで
輝いていたからでした。
バスティアンは、
深く吸ったタバコの煙を
吐き出しながら、短く笑いました。
夕焼けの海を背にして立った
オデットを見つめながら、
バスティアンは、
「入隊しますか?」と尋ねると
再び、煙を深く吸い込みました。
そして、
地面も上手に掘れるし、
銃も結構撃てるので、
使えるだけの兵力になりそうだと
言いました。
銃を下ろしたオデットは、
自分も、海軍艦隊を
指揮できるようになれるかと
余裕を持って聞き返すと、
にっこり笑いました。
額の端と首筋に沿って
流れ落ちた前髪が、風の方向へ
しなやかに、なびいていました。
「それはあなた次第です」と答えて
肩をすくめたバスティアンは、
指の間で燃え広がっていたタバコを
このくらいで、灰皿に投げ入れました。
彼がエスコートを求めると、オデットは
素直に手を差し出しました。
バスティアンは急ぐことなく、
バラ色に染まった庭を歩きました。
後片付けを始めた使用人たちの気配と
ゆっくりとした波の音が
風に乗って漂う、平穏な夕方でした。
二人がちょうど邸宅に入った時、
ラナト伯爵夫人から電話があったと
執事が予期せぬ知らせを伝えました。
ロビスは、
彼女の父親のラビエル公爵からの
伝言があるそうだ、
鉄道会社と関連した重要なことだと
話していたと、
いつもより、せっかちな態度で
説明を付け加えました。
サンドリンが、かなり見事な演技を
披露したようでした。
「行ってください」と
オデットが先に口を開きました。
バスティアンは静かな目で、
良い妻を見下ろしました。
「さあ、バスティアン。
ラナト伯爵夫人がお待ちですよ」
オデットはバスティアンを放して
催促しました。
サンドリンの目的が何なのか
分からないはずがないのに、
彼女は、
一点の影も見当たらない顔で
ニコニコしていました。
そして、西側の廊下に
メイド長が現れると、オデットは
ちょうど良かった。
また夕食のメニューを
相談しようとしていたところだったと
言って、振り返ることなく
バスティアンのもとを去りました。
何の疑いも持たない
完璧な女主人の姿でした。
「あの、ご主人様」
ロビスの焦った呼びかけが
遠ざかっていく妻の後ろ姿を
凝視していたバスティアンを
我に返らせました。
バスティアンは微笑みながら
分かった。 今から行くと返事をすると
遅れた時間の分だけ速度を上げて
階段を上り始めました。
まだ、当然、
オデットより優先すべき女、
サンドリンに向かって。
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ディセン公爵は父親としての責任を
きちんと果たしていないくせに
親子の道理云々言う資格はないと
思います。
オデットのために家庭教師を雇えて
使用人もいたということは、
相当なお金があったということ。
ディセン公爵が
真面目にコツコツ働いてさえいれば、
生活が困窮することはなかったのに
きっと彼は、常に一攫千金を狙って
財産を食いつぶしたのでしょう。
娘のお金を搾取するだけでは飽き足らず
バスティアンからも、
お金を引き出そうとするなんて、
超最低の父親だと思います。
本当に顔以外、
何の取柄もない男だと思います。
ディセン公爵が
ヘレネをたぶらかしたせいで
彼女を不幸にしたくせに、
愚かな愛などど、ほざくなと
言いたいところですが、
イザベル皇女や、
マティアスに熱を上げていた
イザベル皇女の妹のことを考えると
ヘレネが先に、
イケメンのディセン公爵に
恋をした可能性もあると思いました。
マンガにはなかった
サンドリンからの電話のシーン。
もしかして、バスティアンは
オデットが
少しでも嫉妬してくれることを
期待していたのではないかと
思いました。
でも、オデットは
平然とした様子で行ってしまった。
射撃の練習をする時は、
親密な時間を持てたのに、
バスティアンは、
複雑な心境だったのではないかと
思います。
「まだ、当然」という言葉は、
本来の自分の目的に立ち返るための
気合のようなものだったのかも
しれないと思いました。
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