99話 レイラはマティアスの気に入るような姿で、彼の元へ行きました。
見慣れないレイラが、
彼の所へやって来ました。
ノックの音で
ドアを開けたマティアスは、
少し当惑しながら
レイラを見ました。
彼女は彼があげたものを着て
慎ましやかに立っていました。
マティアスの顔色を窺っていた
レイラは、中へ入ってもいいかと
慎重に尋ねました。
その時になって、ようやくマティアスは
一歩下がって道を開けました。
彼は、少し待ってと言うと
寝室ではなく、
応接室に向かって歩きました。
レイラは、静かに彼の後を
付いて行きました。
応接室のテーブルは、
多くの書類で散らかっていました。
レイラは、
公爵が忙しそうだと指摘しました。
マティアスは、
「少し」と答えました。
レイラは、
自分が帰った方がいいかと
尋ねました。
ソファーに座り、先程置いた書類を
再び開いたマティアスは、
「いや」と失笑混じりの
返事をしながらレイラを見て、
疲れているなら、
少し寝ているようにと言いました。
テーブルの向こうに
まっすぐ立っていたレイラは
「いいえ」と答えて、
小さく首を横に振りました。
長く垂らした髪が、
ゆっくりと波打ちました。
レイラは、待っていると告げると
なぜか、彼の向かいの椅子に
おとなしく座りました。
刺々しくもないし、自暴自棄になって
無気力になったようでもない
態度でした。
カイルの名前を、
しきりにペチャクチャ喋りながら
挑発してくると思っていた女が見せる
意外な姿に疑問を抱きましたが、
マティアスは、それについて
あえて聞かないことにしました。
理由が何であれ、
飼いならされた彼の鳥のように
おとなしくなったレイラが、
かなり気に入ったからでした。
マティアスは、
微かな笑みを浮かべながら
再び書類を調べ始めました。
紙をめくる音と、
暖炉の薪が燃える音が調和している
平穏な時間でした。
興奮して事を台無しにしないために
レイラは、
テーブルの隅に投げ出された
新聞を手に取り、
むやみに読み始めました。
マティアスが開いた紙面には、
不安定な国際情勢によって揺れ動く
資源市場に関する記事が
載っていました。
心が落ち着いたので、レイラは、
理解できない記事から
目を離しました。
新聞を置いて顔を上げると、
仕事に熱中している
マティアスが見えました。
ほのかな明かりが照らす彼の顔を
レイラは、じっと見つめました。
足を組んで座って
書類を検討しているだけでしたが
彼の落ち着いた身振りには
威圧感が漂っていました。
それは、
世界を自分の足元に置いて
生きて来て、
これからもそうする
支配者の傲慢のようなものでした。
できるだろうか。
突然訪れた不安に、
レイラは唇を噛み締めました。
何でもない自分に、
本当にあの男の心を壊す力が
あるのだろうか?
乾いた唾を飲み込む瞬間、
マティアスが、
斜めに視線を上げました。
ギョッとしたけれど、
レイラは避けずに
その目を見つめました。
注意深くレイラを見つめていた
公爵が軽く微笑みました。
その瞬間、レイラは
希望を見出しました。
公爵があれほど自分を
手に入れたがっているという事実を
ふと幸いだと思いました。
歪んだ所有欲であったとしても
心が熱烈だった分だけ
傷が深いはずでした。
完全無欠な彼を刺すことができる刃に
自分がなれるかもしれないということを
どうしてもっと早く気づかなかったのか
レイラは分かりませんでした。
彼女は、
しばらく見下ろしていた目を再び上げて
マティアスを見ました。
無理矢理ファーストキスを奪った数日後
平気でクロディーヌと婚約した
非情な顔を。
そのくせ、卑怯な手口で
カイルとの結婚を台無しにし、
無理矢理自分のものにした
残酷な顔を。
そしてまもなく輝かしい結婚をする、
美しい悪魔の顔を。
マティアスはレイラに、
何を考えているのかと尋ねました。
彼の口元には、依然として
微笑みの余韻が残っていましたが
彼女を見る目つきは
かなり鋭くなっていました。
レイラは、
膝の上にきちんと置いた両手を
握りながら、
自分と一緒にラッツへ行くよう
ビルおじさんに命令したそうだと
問い詰めました。
マティアスは遠慮なく頷くことで
肯定すると、
命令というより提案だったと
返事をしました。
レイラは、
おじさんが、その提案を断るのが
難しいということを
あらかじめ予想して言ったことは
分かっている。
結婚した後も、
自分を愛人として置くために、
ビルおじさんを利用したと
責めました。
マティアスは、
「そうかな」としらばっくれました。
レイラは震える声で、
あなたは本当に悪い人だと、
精一杯、力を込めて非難しました。
マティアスは、
手に持っていたファイルを
下ろしながら、
ゆっくりと頭を傾げました。
見慣れない姿で訪れて、
予想できなかった言葉を投げかける
レイラのことを、今やマティアスは
心から興味深く感じていました。
レイラは、涙で潤んだ目を
素早く瞬かせながら、
あなたがどんなに悪い人か
知っているかと、
問い詰めるように尋ねました。
マティアスは、否定しないことで
その責めを受け入れました。
レイラは、自分がどれだけ
あなたを憎んでいるかも
知っているかと尋ねました。
赤くなったレイラの目元が
濡れました。
マティアスは、
少し虚しい気持ちで失笑しました。
結局、また元の位置に戻った。
期待したほど深まった渇望に
息が熱くなりました。
タイの結び目を、
そっと引き下ろすマティアスを
見つめながら、レイラは、
何でも知っているなら、
これも分かりますよねと尋ねました。
マティアスは、よく知っている
嫌い、憎い、 許さないという
レイラの恨みの言葉が通り過ぎるのを
待ちましたが、全く意外なことに、
レイラは、
そんなに悪くて憎いあなたを
自分がどれほど好きなことかと
叫びました。
マティアスは、
「・・・何?」と聞き返すと、
思わず眉を顰めました。
疑問と混乱に満ちたマティアスの視線を
じっと受けながら、レイラは、
あなたが好き。
本当に悪いあなたが憎いけれど、
それでもいい。
カイルの前で言ったことは
嘘ではなかった。
こんな自分が大嫌いなほど
あなたが好きだと、
微かに震える声で囁きました。
この滅茶苦茶な演技に
この男が騙されてくれるだろうか。
極度の不安は恐怖となり、
その恐怖は涙となって
滴り落ちました。
マティアスは、青い目で
彼女をじっと見つめるだけでした。
レイラは、
だから公爵の言う通り、
ビルおじさんと一緒に首都に行く。
そんな人生がとても恥ずかしくて
逃げたかったけれど、今は、
それができない気がすると言うと、
すがるように彼を見ました。
ゆっくりと立ち上がったマティアスは
レイラに近づくと、
無情に感じられるほど低くて
冷ややかな声で、
突然、こんなに素直に、
自分の女として生きるのかと
聞き返しました。
当惑したレイラは頭を下げましたが
マティアスが顎を上げたので
再び目が合いました。
探るように見下ろす、その男の目つきが
レイラを圧倒しました。
声が出せそうにないので、
レイラは微かに頷きました。
心臓の鼓動があまりにも大きくて、
公爵にばれてしまいそうでした。
お願いだから、レイラと
馬鹿な自分を宥めながら
祈るように、
この男を騙せる完璧な嘘を
必死で考えました。
レイラは、
でも、代わりに条件が一つあると
言うと、震える手で
マティアスの腕をつかみました。
彼が「条件?」と聞き返すと、
レイラは、
自分も損する商売はしない。
誰かに教わったからと答えました。
呆れた表情をするマティアスの目つきが
一層和らぐと、レイラは、もう少し
勇気を出すことができました。
レイラは、
聞いてくれるかと尋ねました。
マティアスは、
言ってみるようにと促しました。
レイラは、
約束してくれたら話すと
言い換えしました。
マティアスは、鋭い目で、
条件が何かも分からない
取引をしろと言うのか。
なぜ、そうしなければならないのか。
お前は何者なのかと問い詰めました。
彼女は、
自分はレイラだと答えました。
退く所などなかったので
レイラは退きませんでした。
そして大胆にも
「あなたのレイラ」と告げると
マティアスは低い声で笑いました。
今、レイラにできることは、
この冒険が、
どうか成功しますようにと
切実に祈ることだけでした。
窓の向こうの夜の川と天井の光、
豪華な絵で満たされた壁を
かすめて通り過ぎた
マティアスの視線が、
再びレイラの顔の上で止まり、
深くて静かな目で、
レイラをまっすぐ見下ろしました。
マティアスはレイラに
話してみるよう促しました。
レイラは、
聞いてくれると約束してくれるのかと
尋ねました。
マティアスの腕にしがみつく
レイラの両手に、
切迫した力が込められました。
駄々をこねる子供のように
振る舞うレイラに、
再び彼は笑いました。
マティアスは「うん」と答えると
レイラの顎から手を離して、
彼女の頬を包み込みました。
溢れんばかりの喜びが広がる
薄緑色の瞳を鑑賞するように
見つめている間、
マティアスの微笑は、
一層柔らかくなりました。
彼は、約束すると告げました。
ビル・レマーを
ラッツの邸宅に送ると聞いた老婦人は
驚いた顔で孫を見ました。
のんびりと音楽を鑑賞していた
エリーゼ・フォン・ヘルハルトも、
一瞬、表情を変えました。
波紋を起こしたマティアスだけが
超然としていて、
そうするつもりだと答えました。
あまりにも突然で意外な決断だと
指摘されると、マティアスは
あの事故以来、
母親は庭師を好ましく思っていないし
ビル・レマーも、もう年をとって、
アルビスの庭の責任を負うのは
無理があるからだと答えました。
それはそうだけれどと呟いた老婦人は
助けを求めるかのように
嫁に視線を向けました。
しかし、彼女も、
適当な言葉を見つけるのは困難でした。
二人の婦人の沈黙が続く間、
マティアスは、
コーヒーを一口飲みました。
レイラが決心した以上、
これ以上、遅らせる必要はないし
あえて隠すのも無意味でした。
自分の恋人になって欲しい。
レイラが提示した条件は
全く予想外でした。
レイラは、とても悲しそうに、
公爵が結婚したら、自分は
アルビスを離れなければならない。
二度とここに
戻ってくることはできないと
言いました。
マティアスは、
違うとは言えませんでした。
アルビスはヘルハルトの根源であり、
それゆえに、名実共に家門の女主人、
公爵夫人の管轄下に置かれた
世界でなければなりませんでした。
家門の歴史が続く間、その規律は
一度も破られたことがなく、
今後もそうなるはずでした。
そして、
アルビスに愛人の席がないことを
マティアスは、
あまりにもよく知っていました。
レイラは、
だから結婚するまで、自分たちが
アルビスで一緒にいられる間は
恋人になって欲しいと頼みました。
愛人と恋人の何が違うのか、
マティアスは分かりませんでしたが、
まるで、レイラは、それが
天と地のように違うと
思っているようでした。
一生陰に隠れている女になる前に
一度はそうしてみたいと
涙声で囁いていたレイラの姿が、
現在のことのように、
再び鮮明に浮び上がりました。
陰。
それよりもっと彼女に似合わない言葉が
あるのだろうか。
この世で一番煌びやかで
美しい日差しを集めて作ったような
女でした。
マティアスはその光に捕らわれて
目が眩みました。
その光の中で生きたくて
彼女を握り締め、
手放すことができませんでした。
ところが、その渇望が、結局、
彼女を陰の中に住まわせることになる。
初めて悟ったその事実に
頭の中が少しぼんやりしました。
永遠に陰の中にいても、
彼女は今のように輝くのだろうか。
有難くない疑問に唇が乾き始める頃、
マティアスは壊すように
レイラを抱きました。
胸の奥深くに抱いて閉じ込めれば、
その光を、
永遠に消すことができないかのように。
エリーゼは、
正しいことではあるけれど、
あまりにも突然の決定だ。
ビル・レマーをラッツに送ったら、
あの養女はどうするのかと、
声を整えて尋ねました。
マティアスは、
ビル・レマーと一緒に行くことになる。
そして、
レイラ・ルウェリンの大学の学費を
自分たちの家門から後援しようと思うと
答えました。
エリーゼは、
うちの家門が後援者になって
庭師の養女を大学に行かせるのかと
驚いて尋ねました。
マティアスは、
それについては、祖母が
去年明らかにしたと記憶していると
答えると、
同意を求めるかのように
老婦人を見ました。
確かにそうだったと、
カタリナは否定できませんでした。
エトマン家との縁談が破談になり
大学入学も流れたため、
うやむやになってしまいましたが、
確かに彼女は、
レイラの後援者になるという意思を
明らかにしました。
マティアスは、
口元に穏やかな笑みを浮かべながら
ビル・レマーがラッツの邸宅に移り、
その養女がヘルハルト家の後援を受けて
大学に入学することになれば、
二人の意思を
尊重する決定になると思うと
告げました。
二人の奥方は、
互いに熱心に見つめ合うだけで
適当な反論の言葉を
見つけ出すことができませんでした。
マティアスは、
それでは、二人の意向に従って進めると
丁寧に挨拶をして、応接室を出ました。
午後のスケジュールに間に合うためには
もう出発しなければなりませんでした。
自分が去った後、祖母と母親の間で
どんな会話が交わされるか
分からないわけではありませんでした。
だが、それで?
マティアスは気にせず
長い廊下を横切りました。
陰。
考えれば考えるほど、
ますます彼女に似合わない言葉でした。
学校のチャリティー公演で、
モニカの代わりにセリフを言った
レイラの、あまりの下手さに
爆笑したマティアス。
今回、レイラは
マティアスを傷つけるために
お芝居をしようと決意しているけれど
台本があっても、
たどたどしく話していたレイラが、
その場で考えた心にもない言葉で
マティアスの心を響かせることは
できないと思います。
レイラはお芝居だと思っているけれど
マティアスに伝えた言葉は全て真実で
今まで抑えて来た感情を吐露しただけ。
マティアスの恋人になって欲しいと
頼んだのは
彼のもう一人の女ではなく、
彼だけの女になりたかったのだと
思います。
レイラは、マティアスのことを
愛しているけれど、
クロディーヌの陰になりたくない。
だから、アルビスにいる間だけは
彼の恋人となり、彼が結婚する前に
彼の元を去るつもりなのだと思います。
その気持ちがマティアスに伝わり
レイラが陰になることに
疑問を抱き始めたのだと思います。