147話 雪だるまは徐々に溶けています。
ビョルンは約束通り、その時間を、
エルナと一緒に過ごしてくれました。
特別なことはありませんでした。
ビョルンが眠っている間、エルナは
ベッドの横に付き添いました。
食事と薬を用意し、
汗が流れた顔を拭いたりしました。
ビョルンの体が回復すると、
二人が一緒にいる時間は、
一層、平穏になりました。
これ以上、ベッドでの世話が
必要なくなると、彼は、
いつものように本を読んだり
散歩をしたりして暇をつぶし、
エルナも田舎の家の
平凡な日常を過ごしました。
子牛のクリスタを見に行く途中。
ぼんやりと暖炉の火を凝視したり、
家の中を歩く瞬間、瞬間、
視線を感じて首を回すと、
そこには、間違いなく
ビョルンがいました。
目が合うと、お互いを
じっと見つめました。
ビョルンがいつものように
平然と話しかけてくると、
エルナは短い返事をしました。
いけずうずうしく
そらとぼけた言葉と冗談、
あるいは適度に軽くて魅惑的な笑顔。
極めて彼らしいその姿が
エルナの不思議な緊張感を
さらに倍増させました。
テーブルの向かいに彼を座らせたまま
造花を作った日は、ついミスをして、
三輪もの花を
台無しにしてしまいました。
頬杖をついて、その姿を見物していた
ビョルンの低い笑い声と
エルナのため息が混ざり合いました。
午後の日差しが照らす
憎たらしい顔を睨みつけ、
視線を下げると、
使えなくなった造花に触れる
滑らかな手が目に入って来ました。
その日、結局、エルナは
予定していたほどの花を
作ることができませんでした。
一体、何が変わったのだろうか。
何も変わっていないような
ビョルンに向き合うと、
時々、そんな疑問が浮かんできました。
3つの雪だるまを作った日の記憶が
まるで夢のように
感じられたりもしました。
しかし、毎日、夕方になると、2人は
無言の約束でもしたかのように
並んで窓際に立ち、
だんだん小さくなっていく
雪だるまを眺めました。
最初、窓の両端に立っていた
2人の間の距離は、
1日、また1日が経つにつれて
少しずつ縮まっていきました。
赤ちゃん雪だるまの形が
小さくなった夕方には、
腕が触れ合うほど近くに立ち、
夕闇が濃くなるまで
庭を眺めました。
赤ちゃんを2度失うような悲しみが
訪れるのではないかという
心配していましたが、
その時間は、とても平穏に
流れていきました。
ビョルンが、
再びシュベリンに向かったのは
その翌朝でした。
王子がシュベリンに戻るようだと言う
リサの朗々とした声が
部屋の中の静寂を破りました。
朝の散歩に出かける準備を終えた
エルナは、驚いた様子もなく
窓際に近づきました。
彼が今日出発するということは、
すでに聞いていました。
今回は、完全に戻るのか。
それとも忙しい仕事を終えて
またバフォードへ
戻って来るのだろうかと
リサが首を傾げている間に、
ビョルンは馬車へ近づきました。
完璧な格式と品位を備えた、
レチェンの王子に、
再び戻っていました。
エルナは帽子をかぶって
朝の散歩に出かけようとしました。
いつもより、はるかに速い足音が、
バーデン家の朝の静けさを
かき乱しました。
エルナが、玄関の外に飛び出すと
見送りに出てくれるなんて光栄だと
笑い混じりのビョルンの声が
聞こえて来ました。
彼は開いた馬車のドアの前に立ち、
エルナを見つめていました。
まるで、こうなることが
分かっていたというような
余裕の表情でした。
もちろん、妃は、
朝の散歩に出かけるところだと
言い訳をするだろうけれどと言って
憎たらしく笑う彼の顔を
朝日が照らしました。
準備していた反論を
奪われてしまったエルナは
結局、何も言えないまま
唇を噛み締めました。
ゆっくりエルナに近づいたビョルンは
一緒に行かないかと誘うと
エルナを見つめました。
その優雅な支配者の仕草が
唇の端に浮かんだ
いたずらっぽい笑みを
さらに際立たせました。
急いでエルナは「いいえ」と
ツンと澄ました返事をしました。
スカートの裾を握った右手が
小さく震えていました。
夕焼けの中、
一緒に雪だるまを見ていた昨日の夕方
ビョルンが握っていたその手でした。
腕が触れ、手の甲が触れ、
そして当たり前のように
大きくて柔らかい手が
エルナの手を包み込みました。
その手を押し出すことも
掴むこともできなかったエルナは
意地を張って、
窓の外の雪だるまだけを
見つめました。
その間に、ビョルンは
エルナの指の間に自分の指を
しっかり絡めました。
2人は夫婦でした。
思い出すのも恥ずかしい多くのことを
一緒にしてきたのに、
どうして手が触れただけで、
こんなに
恥ずかしくて仕方がなかったのか
不思議でした。
結局、エルナは、
急いで掴まれた手を抜きました。
幸い、ビョルンは、
素直にその要求に応じてくれましたが
手に残った不慣れな感覚は
依然としてエルナの中に残り
彼女の頬を赤く染めました。
ちょうど夕焼けが見頃になり
どれだけ幸いだったか
知れませんでした。
ビョルンは、
それでは仕方がない。
今度も自分が妃の元に
戻らなければならないですねと
喜んで納得するように頷きながら、
笑いました。
エルナが「来ないで」と、
準備していた答えを
伝えようとした瞬間、
ビョルンの手が、
固まっているエルナの小さな手を
つかみました。
柔らかい唇が
手の甲に触れる感触を感じて初めて、
エルナは彼が何をしたのかに
気づきました。
「何てこと!」と
呆れて呟くエルナを離したビョルンは
まるでお姫様にでも接するように
丁寧な挨拶をしました。
その瞬間にも、
唇に浮かんでいる意地悪っぽい微笑は
相変わらずでした。
エルナが嫌がって
手の甲を擦っている間、
ビョルンは悠々と馬車に乗りました。
窓の向こうで手を軽く振って見せる
彼の余裕が、
すでに赤いエルナの頬を
さらに赤くしました。
エルナは、
その厚かましい男を乗せた馬車が
残雪の残った道の向こうに
遠ざかって行ってから
ようやく歩き始めました。
無実の手の甲を、痛くなるほど
何度も強くこすりました。
その日以降、しばしばエルナは、
訳もなく、くすぐったい手の甲を
擦ったりしました。
しかし、バーデン家で過ごす
エルナの日々は、
以前と少しも変わりませんでした。
雪だるまが姿を消し、
ビョルンが去ったこと以外、
何も変わっていない、
ただそれだけの日々でした。
再びそのような一日が
過ぎ去った、ある日の午後、
エルナは大切にしている
クッキー缶を持って
散歩に出かけました。
リサがいない隙を狙って
バーデン家を抜け出すために、
かなり慎重を期す必要がありました。
エルナは荒涼とした野原を通って
森へ向かいました。
枯れた木々が立ち並ぶ道沿いを
いくらか歩くと、
見慣れた空き地が現れました。
日差しがたっぷり降り注ぐ
その場所は、
雪が全て溶けて、森の他の部分とは
違う世界のように見えました。
エルナは、
半分溶けた小川が流れている所に
足を踏み入れて行きました。
そして、春が来ると
甘い香りが満ちるであろう花畑で
立ち止まりました。
それからエルナは、
懐の奥深くに抱いて来た
クッキー缶の蓋を
ゆっくりと開けました。
雪だるまの家族を飾っていた
花やリボン、そして葉巻の上に
日が差しました。
雪だるまが溶け、ビョルンが去った朝
庭に出たエルナが
拾い集めたものでした。
しばらくして、
蓋を閉めたその缶を、
小川のそばの平らな岩の上に
置いたエルナは、
カバンの中に入れてきた
小さなシャベルを取り出して
握りました。
もう少し大きなシャベルを
持ってくれば良かったけれど
誰にもバレないためには、
このシャベルが最善でした。
覚悟を決めたように
息を整えたエルナは、
シャベルを力いっぱい握りしめたまま
スズラン群生地の真ん中に
しゃがみこみました。
まもなく、小さなシャベルが
地面を掘る音が
規則的に響き始めました。
そのようにして、
しばらく奮闘しているうちに、
クッキー缶を
埋めることができるほどの
穴を掘ることができました。
息を切らしながら
立ち上がったエルナは、
手袋を脱ぐと
ハンカチを取り出しました。
汗が滲んだ額を拭き、
髪に触れる手は、少し前まで
土を掘っていた淑女らしくなく、
おとなしくて慎重でした。
心の準備ができると、
エルナは花畑に掘った穴の中に
クッキー缶を注意深く置きました。
潰れたブリキの蓋の上の雪だるまは
いつものように
明るく笑っていました。
「さようなら」
エルナは、
祖父にクッキーをプレゼントされた
子供の頃のように微笑んで
過去に別れを告げました。
未練はあるけれど、
雪だるまが溶けていった
あの時間のように、
涙を流さずに、淡々と
努めて捕まえていた気持ちを
手放すことができそうでした。
バフォードは美しい場所であり、
最後の息を吐く瞬間まで
故郷を愛するだろうけれど、
エルナは、もうここが
完全無欠な天国ではないということを
受け入れることができました。
過去に執着し、
いつまでも現在の生活を
回避しようとしてはならないという
事実もでした。
「さようなら」
もう、心からも
放してあげられるようになった
子供にも、
優しい別れの挨拶をしました。
あの子を永遠に
忘れることはできないけれど
それでも、もう涙と悲しみで
思い出すことはないだろうと
思いました。
甘い花の香りと春の日差し。
奇跡のように幸せだった時間。
そして、きれいな雪だるま。
自分たちの最初の子供は、
そのような良い思い出を持って
天国に旅立ったからでした。
最後の躊躇いを消し去ったエルナは、
一層、楽になった顔で
土を覆い始めました。
やがてクッキー缶が姿を消し、
掘り起こされた花畑は
本来の姿を取り戻しました。
几帳面に土を固めたエルナは、
もう一度「さようなら」と
小さく囁いた後、
体を起こしました。
春が来れば、花が満開になり、
鳥が歌う森の風景を思い浮かべると、
心が一層軽くなりました。
泥だらけになったャベルと
手袋を持って背を向けたエルナは、
せかせか歩きながら
空き地を横切って行きました。
反対側の端に立っている
大きな木の下でしばらく止まると、
ビョルンと一緒に
ここにピクニックに来た
春の日の記憶が
1つ2つと浮かび上がりました。
酒に酔って、
とんでもなく恥ずかしいことをし、
悪い悪戯をする子供のように、
クスクス、悪戯っぽく
笑い合っていました。
互いにギュッと抱きしめ合い
横になって交わした
くだらない雑談は、
とても親密で優しいものでした。
エルナは、
なんだか涙が出てきそうな気がして
目を閉じました。
すると、ビョルンは、
熱くなったエルナの目頭にも
そっと口付けをしてくれました。
その日、エルナは
結局、泣き出してしまいました。
彼を愛しすぎて幸せな気持ちを
どうすることも
できなかったからでした。
ここでいつも一人で遊んでいて
うっかり寝てしまい、
一人で目を覚まして、
夕暮れの光に向き合った
幼い頃の漠然とした寂しさが
涙で溶けた瞬間でした。
それぞれが作った虚像を愛した。
しかし、その虚像と共にした、
あれほどまぶしく輝いた瞬間は、
偽りと欺瞞のようには
感じられませんでした。
長い間、心を悩ませてきた
質問に対する答えを見つけた
エルナは
振り返らずに森を去りました。
野原を横切って、
バーデン家に続く柵の中に入ると、
その結論は、
いっそう確固たるものに
なっていました。
するとまた、手の甲が
少し痒くなりました。
エルナが、
ちょうど家に入ろうとした瞬間、
突然ドアが開いてリサが現れ、
一体どこへ行っていたのか。
自分がどれだけ探したことかと
尋ねました。
彼女は、
とても焦っているように見えました。
とりあえず、笑顔を見せたエルナは
適当な言い訳を考えている間に
リサは握っていた電報を
差し出しました。
思わずそれを渡されたエルナの顔から
一瞬で笑いが消えました。
とても信じられない悲報でした。
最後の一週間、
ビョルンと過ごした日々は
とても穏やかで
平和だったのではないかと思います。
2人で雪だるまを見守るシーンに
とても心が温かくなりました。
もっと恥ずかしいことを
したことがあるのに、
なぜ、手が触れただけで
恥ずかしいのか、
エルナは不思議に思っていましたが
これこそ、ビョルンの言う
新しい恋愛が始まったのではないかと
思います。
ビョルンが一緒に行こうと言った時は
拒否したけれど、
それは、まだエルナが
過去に別れを告げられなかったから。
エルナは、
自分の大好きな場所であり、
おそらく子供を授かった場所で
自分の過去と訣別してから、
ビョルンの元へ戻ろうと
決心したのではないかと思います。
クッキー缶は
エルナの少女時代の象徴で
それを葬ることで、彼女は
少女時代に別れを告げることが
できたのだと思います。
そうすることで、きっと、エルナは
母親のトラウマからも
解放されたのではないかと思います。
このシーンは、
ハンカチなしでは読めませんでした。
いつも、たくさんのコメントと
差し入れをありがとうございます。
以前は、直接行かなければ
買えなかった、その土地の名産品が
今はインターネットで手軽に買えるのは
とても、ありがたいです。
皆様のおかげで、
お取り寄せの選択肢が増えました(^^)
さて、最後の「悲報」という言葉が
とても気になるかと思いますが、
148話から、いよいよ本編の
クライマックスを迎えます。
148話から150話まで、
続けて公開したいと思いますので、
次回は金曜日に更新いたします。