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126話 オデットは具合が悪いのを言い訳にして、先にホテルへ帰ってしまいました。
3時42分。
時計台が指している時間を確認した
オデットは、
さらにスピードを上げて
広場を走りました。
鉄の匂いがする息が、
喉元まで上がって来ても
止まることはできませんでした。
予定より早く公爵邸を離れたおかげで
時間を稼ぐことができました。
つわりがばれたのが気になりましたが
どうせ、もはや自分とは関わりのない、
遠い世界の話だと
自分に強く言い聞かせました。
万が一でも、その知らせが
バスティアンの耳に入っていたら
なおさらでした。
「大丈夫、メグ」と
怯えて唸るマルグレーテを
宥めながら、オデットは、
急いでカルスバル中央駅へ続く
階段を上りました。
胸に抱いた子犬に重いトランクまで
全てを抱え込むのは手に余りましたが
持てる限りの力を振り絞って
耐え抜きました。
公爵家で出してもらった車に乗って
ホテルに戻ったオデットは、
最初にモリーの行方を確認しました。
予想通り、彼女は、
オデットが差し出した財物と共に
姿を消した後でした。
最後の宿題を解決したオデットは
あらかじめ準備しておいた
離婚届を残して、
ホテルを後にしました。
今頃、ティラが乗った客船も
出港しているはずでした。
もう定刻に汽車に乗りさえすれば
全てが終わるはずでした。
だから、もう少しだけ。
オデットは繰り返し自分に
言い聞かせながら、
力が抜けていく両足を動かしました。
駅舎を埋め尽くしている人波を
かき分けて、切符売り場へ行き、
目的地に行く汽車の切符を買い、
まっすぐホームへ向かって
走りました。
よりによって、
バスティアンが所有する
鉄道会社の路線だということに
気づいたのは、
停車している汽車を発見した後でした。
「気をつけろ!」
1等車に向かう荷車を押して来た男が
荒々しい叫び声をあげました。
オデットは、ようやく自分が、
荷車にはねられたことに気づきました。
不注意による過失の責任は
明らかに相手にありましたが、
もはや、是非を問う余裕は
残っていませんでした。
「申し訳ありません」と
オデットは急いで謝罪すると
その場を離れました。
3時57分。
残り少ない時間を確認すると、
さらに焦りました。
先ほどの事故で、
捻挫した足首が痛くなりましたが、
オデットは止まれませんでした。
ちょうど3等車の客車に
乗り込もうとしたところ、
またしても事故が
発生するところでした。
どっと押し寄せた人波に
押されたオデットは、思わず、
トランクを落としてしまいました。
それを拾うために
手を伸ばしたのと同時に、
体がふらふらと傾きました。
幸い、後ろにいた1人の男性が
支えてくれたおかげで、
プラットフォームを転げ回る事態から
免れることができました。
「大丈夫ですか?」と尋ねて
オデットを起こしてくれた彼は、
親切にも、落としたトランクまで
拾ってくれました。
頬に大きな傷跡があり、
険悪に見える外見とは違って、
態度は極めて紳士的でした。
「はい、おかげさまで。
本当にありがとうございます」と
急いでお礼を言ったオデットは
足を引きずりながら
汽車に乗り込みました。
倒れるように隅の席に座って
息を切らしている間に、
汽車の汽笛の音が
長く鳴り響きました。
まもなく4時。
フェリア行きの特急列車の
出発時刻でした。

それは、
明かりの点いた小さなテーブルの上に
きちんと置かれていました。
バスティアンは
ゆっくりと寝室を横切ると、
封がされた封筒を手に取りました。
ただ、じっと
その手紙を見下ろしているうちに
日が暮れて夕闇が降りました。
狩りを終えると、
体調が良くないオデットが
先にホテルに戻ったという
思いがけない知らせが届きました。
黙って去ったのは、
迷惑をかけたくないという
彼女の願いだったそうでした。
夫を細やかに気遣う妻を称賛した
公爵家の2人の奥様は、
家門の主治医をホテルに送るという
寛大な提案をしました。
どうやら妻が妊娠したようだという
言葉も一緒でした。
オデットは胃炎だと言っていたけれど
子供を産んだ経験から見て
間違いなくつわりのようでした。
もし病気だと思い込み、
薬を誤って使えば大変なことになるので
できるだけ早く
診察を受けた方が良いという助言は
妥当でしたが、バスティアンは丁重に
拒絶の意を伝えました。
もしかしたら、その時すでに、
ホテルに戻ったら、
こんな姿を見ることになるだろうと
ぼんやりと、
予感していたのかもしれませんでした。
オデットが逃げた。
バスティアンは客室に入った瞬間に
それに気づきました。
あの女が、
命のように大切にしている犬が
見えなかったからでした。
ホテルに残っていた随行人は、
女主人が、
予定より早く帰って来たことを
知らずにいました。
甚だしくは、
あの女が連れて来たメイドまで
行方をくらましました。
それら全てを総合して
下すことができた結論は、
ただ、それだけでした。
だから、これは、
おそらくそれを確認させてくれる
証拠だろうと思いました。
手に持った封筒を見下ろす
バスティアンの眼差しが、
窓の外に降りた闇のように深まった頃、
切羽詰まったような
ノックの音が聞こえて来ました。
姿を消したメイドを探しに出た
随行人でした。
バスティアンは、
スイートルームの応接室で
随行人を迎えました。
暖炉の前に座り、
タバコをくわえて火を点ける動作は、
妻の逃亡を知った夫らしくなく
落ち着いていました。
ハンスは、
アルデンに連絡をしてみたところ、
銀の燭台と食器の何点かが盗まれる
事件が発生したそうだ。
厳重に管理していたため、
保管場所に近づけるのは、
限られた使用人だけだったけれど
モリーもその中の1人だったそうだ。
あの子がそれを盗んで逃げたと見るのが
正しいと思うと、何度も躊躇った末、
ようやく報告しました。
バスティアンは「そうですか」と
素っ気なく答えると、
状況を整理しました。
静かな瞳は、
空っぽのマルグレーテのクッションに
向けられていました。
考えてみれば、わざわざ犬を
ここまで連れて来たこと自体、
あの女らしくありませんでした。
出発前から、すでに、
逃走を計画していたという意味でした。
ハンスは「ところで奥様は・・・」と
尋ねましたが
肺の奥深くまで吸い込んだ
タバコの煙を吐き出したバスティアンは
そろそろ下がるようにという
冷淡な命令で、
随行人の言葉を遮りました。
妻のことは自分の管轄だと言う
バスティアンにハンスは
「でも、ご主人様」と言い返しました。
しかし、バスティアンは、
心配するようなことはないだろうと、
まるで、それが
絶対的な摂理でもあったかのように
少しの躊躇もなく、確信しました。
結局、ハンスは、これ以上、
言葉を付け加えることなく
振り向きました。
静かにドアが閉まると、客室は、
再び深い沈黙に包まれました。
バスティアンは、
続けて2本のタバコを吸いながら
その場に留まりました。
3本目のタバコをくわえた時には、
濃い闇が、
辺り一面を侵食していました。
タバコの火を点けたバスティアンは
まだ開けていない封筒を握って
立ち上がりました。
寝室に入ると、より一層鮮明になった
サイドテーブルの明かりが
彼を迎えました。
バスティアンはベッドの端に腰掛けて
封筒を破り、手紙を広げました。
光と闇の境界にある彼の顔には、
依然として、何の感情も
浮かんでいませんでした。
まず、このような形で
別れを迎えることになったことについて
お詫びの気持ちを伝えます。
オデットの手紙は、
まるで通知文のように、
無味乾燥な挨拶で始まりました。
バスティアンは、
ゆっくりとタバコを吸いながら
その手紙を読み進めました。
残された責任を果たすことで
あなたに償おうとしましたが、
それは卑怯な自己欺瞞に
過ぎなかったようです。
すでに全てを台無しにしておきながら
綺麗な幕引きを願った自分の欲が
結局は互いを破滅させる
最悪の結末をもたらしました。
今からでも過ちを正す唯一の道は
一刻も早く、
この契約を解消することに
他ならないと確信しています。
だからといって、
このような形で逃げるのは
正しいことではありませんが、
それでも、これが、
自分たち全員のための最善だと判断し
無責任な決定を下すことになった
心境を、どうか理解してください。
自分と一緒に来たメイドは
本家のスパイでした。
テオドラ・クラウヴィッツが
手足のように使っている
メイドたちのうちの1人の
姪であることを知っています。
彼女を通じて彼らと内通しました。
あなたが出発した後は、あれ以上、
スパイの役割をしませんでしたが、
あのメイドを追い出すと、
別の者を付けることが心配で、
処分を保留していました。
不本意ながら、
再びあなたを欺いてしまい
申し訳ありません。
あのメイドは、
自分が直接片づけてから去ります。
本家側の怪しい動きは
ありませんでした。
自分とあの子は、
どちらも見捨てられた身なので、
情報が正確ではないかもしれませんが
少なくとも自分が知っている範囲内では
そうでした。
離婚のための書類と
自分の罪を皇帝陛下に告げる手紙を
添付します。
公式的な離婚理由が何であれ
謙虚に受け入れると約束します。
どうかあなたの損失を
最小限に抑える方法で
処理してください。
最初の契約と違う結末を
迎えることになって残念です。
あなたの世界の外で
静かに生きていくことで
責任を果たすようにします。
バスティアンは、
内容にそぐわない
優雅な筆跡で満たされた便箋を
しばらくじっと見つめました。
ゆっくり次の紙をめくると、
皇帝宛の手紙が現れました。
自分の父に
障害を負わせたことから始まり
実家のスパイとなって行ったこと、
そして、この逃走劇に至るまで、
皇帝の手にかかって死にたいと、
狂わんばかりに
願いでもしたかのように、
逐一書き綴られた罪の備忘録でした。
離婚届は、その後に
同封されていました。
もう一度、
時間を確認したバスティアンは
くわえていたタバコを
ギュッと握り潰しながら
立ち上がりました。
肌が焼けるような痛みにもかかわらず
彼は火を握り締めた手を
離そうとしませんでした。
素直に服従するはずがないということは
よく知っていましたが、
まさか、これほど
正気の沙汰とは思えぬ暴挙に出るとは
思いもしませんでした。
少なくとも、
最小限の分別さえないほど、
愚かな類ではなかったからでした。
一体、なぜ?
バスティアンは、
じっくりと記憶を辿りながら
暖炉の前に近づきました。
破れた手紙と離縁状を
炎の中に投げ入れる動作は
極度に抑制されていました。
家族。
やがて答えを見つけた
バスティアンの目が細くなりました。
家族のこととなると、非常に無謀で
愚かになる傾向のある女でした。
しかし、父はすでに亡くなり、
腹違いの妹は新しい家庭を築いて
去って行きました。
それならば、残った可能性はただ一つ。
どうやら公爵夫人の推測が
間違っていなかったようだという
結論を下したのと同時に、
呼び鈴が鳴りました。
灰になって消えた紙切れを確認した
バスティアンは、
落ち着いた足取りで
応接室を横切って行きました。
客室のドアを開けると、
困った表情をした支配人が頭を下げ
この子が少佐に届ける手紙を
持って来たと伝えました。
支配人が指差した所には、
靴磨きのバッグを持った少年が
立っていました。
支配人は、
自分が代わりに届けると言ったのに
必ず直接、
渡さなければならないという
命令を受けたと言い張るせいで
このような無礼を
働くようになったと話しました。
バスティアンは
「そうですか」と返事をして、
理解したと言わんばかりに頷くと
再び靴磨きの少年に目を向けました。
そして、財布を開けてお駄賃を渡すと
子供は、ようやく
懐の奥深くにしまっておいた手紙を
取り出しました。
バスティアンは、火傷をした手で
それを受け取りました。
蜜蝋でしっかりと封をした
封筒の表面には、待ち望んでいた、
その名が書かれていました。
ケラー。
過去2年間、
オデットの影となって暗躍して来た
あの探偵でした。
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オデットは妊娠初期なのに
重い荷物を持って走ったりしたら
ダメでしょう。
バスティアンは
火の点いたタバコを
握り潰すなんて、
重度の火傷を負ってしまったら
どうするのですか?
もっと自分の体を大事にしてと
オデットとバスティアンに
声を大にして言いたいです。
124話でバスティアンが
電話で任務を変更すると伝えたのは
ケラー?
駅でオデットを助けた
頬に傷跡のある男性もケラー?
バスティアンはオデットが逃げると
思っていなかったようだけれど
別の意図があり再びオデットを
監視させていたのでしょうか?
オデットは、
バスティアンから逃げるために
必至に頭を使って計画を立て、
逃亡に成功したかのように見えますが
バスティアンの手のひらの上から
逃げ出せていないような気がします。
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